デイダラ視点





暗闇の中で不気味に光る赤い眼に言葉を失った。手に持っていた面がカランと音を立てて床に落ちる。オイラは震える足で一歩後ずさり、トビから距離を置こうとした。すると、奴は自分の方へ手を伸ばす。その手に嫌悪感を抱いたわけじゃない。いや、もうそうとは言い切れないのかもしれない。オイラは無意識のうちにその手を振り払ってしまった。数秒経って、我に返ったオイラは自分のしてしまったことに気付く。ちがう、今のは思わず、こんなことオイラは
もう自分のことすらわからなくなる。



「…ですよ、ね」



トビが口元を少し弛めて笑う。なのにその眼は、潰してやりたいほど美しい大嫌いなその眼だけが、酷く悲しみの色に染まるのだ。どうしてそんな悲しそうに笑うだなんて、間違いなく自分の所為なのに。
ちがう、ちがうちがうちがう。今のはわざとじゃないのに。そんな顔させたいワケなんかじゃないのに。言わなきゃいけないことはたくさんある。なのに口から漏れるのは動悸による乱れた呼吸音ばかりだった。



「と、トビ…」



オイラは自分のしてしまったことに罪悪感を感じて、叩いたトビの右手に触れようとした。でも手が触れるよりも早く、まるで触るなと言わんばかりに瞬時に右手を引っ込められる。行き場をなくした手が、空気を掴んだ。



「無理、しなくていいですよ」



そう言ったトビの声は、普段の様子からは想像もできないくらいに沈んでいた。トビは下を向いたまま俯いていてどんな表情をしているかわからない。どうしよう。もう顔すら見てもらえない。胸の辺りがずしんと重くなって、其処がじくじくと痛み出した。そう、それはまるで旦那が死んじまったときみたく。
ぱくぱくと閉塞し微かな呼吸音を発するだけの口を精いっぱい動かして弁解し出そうとしたそのとき、何かが頬を伝って床を濡らした。つう、と垂れたそれに気付いたらしいトビは伏せていた顔を上げる。やっぱりアイツと同じ赤い眼をしていた。



「どうして、泣くんですか」

「だっ、てっ…」



拭っても拭っても涙はとまらない。上手く話せなくて泣くなんて赤子でも在るまい。真夜中に奴の寝込みを狙って甘えるフリをしてまで仮面を剥ごうだなんて考えなければよかった。でも、素顔を見たいという好奇心をどうしても抑えきれなかった。オイラはけっこうトビのことが好きだったのかもしれない。その事実だけでよかったはずだった。でも、だからこそ気になって知りたくなってしまった。そう思っていたはずなのに、体が拒絶反応を起こさずにはいられない。
何よりそんな自分が、殺してやりたいと思ってしまう自分が、一番憎く嫌いでたまらなかった。



「デイダラさん」



名前を呼ばれて、思わず体が跳ね上がる。今目の前にいるのはもう自分の知っているトビじゃない。それは今のこいつを見たら誰しもがそう感じるだろう。こわい、直感的にそう思った。もう今まで通りに戻れないことはわかっていた。でも、いざ言われるとなると聞きたくない。いつも涙を拭ってくれたその右手が、もうオイラに触れることはないのだろう。



「これで、さよならです」



何となくわかっていた、はずなのに。トビを見れば、いつもの奴の雰囲気からは想像出来ないほど真剣な表情でその眼は自分を真っ直ぐ見据えていた。ああ、本当にコイツはもうオイラの知っているトビじゃないんだ。なんて今更思った。トビは腰掛けていたベッドから立ち上がると、一度もオイラの顔を見ようとせずに真横を横切る。とび、と小さく呼んでみても奴は決して立ち止まらなかった。
ちがう、こんなこと望んでない。どうして知りたいだなんて思ってしまったんだろう。アイツはオイラがその眼を嫌っていることを、きっと前から知っていたはずだ。だからなのかはわからないけど、その仮面の下を秘密のまま隠し通そうとしていたのに。
それをオイラが無理にでも暴こうとしてしまったがために、トビを傷付けてしまった。



「……っ…」



このまま奴を行かせてしまっていいワケない。頭ではわかっているのに、自分の真横を横切ったトビのあの眼を思い出すと声がどうにも出なくなる。それでも、意地っ張りな自分が初めて精一杯の勇気を振り絞って、ドアノブに差し掛かるトビを引き止めようと震える足を動かす。追い付いたはいいものの、加減が利かずにそのまま勢いづいて奴の背中にど突く形になる。
今言わなかったら、絶対に後悔すると思った。



「…うぜぇ」

「……」

「馬鹿で、どじで、足手纏いで、鬱陶しくて、一人じゃ何にもできなくて、おまけに嘘吐きで…」



ああ、だめだ。意地っ張りな自分が出てきて邪魔をする。そりゃあこいつに聞きたいことは色々ある。どうして今まで黙ってたんだ。オイラが気付かないとでも思ってたのか。それともオイラなら容易く騙せると思ったのか。今までのお前は一体何だったんだ。全部、嘘だったのかよ。そう思うと正直、心の底では苛立っている自分がいる。でも、そんなことよりも先に言わなきゃいけないことがあるのに。込み上げた感情が爆発する。
もう止まらない。



「お前なんか、大嫌いだ…ッ」



今まで何も言わずに黙っていたこいつが憎くて憎くて仕方ない。それは変わりないはずなのに。どうして涙が込み上げてくるのか自分でもわからない。おまけに情けないくらいに声が震えていた。こんなことが言いたかったワケじゃない。ちがう、ちがくない、今のは、オイラはお前が、
行かないで、何故そう言えないのだろう。それを自分の中の臆病な自尊心が邪魔をする。みっともなく泣きながら必死にすがりついてでも、引き止めなければいけないのに。たとえお前が自分の全てを否定したあの眼と同じ眼の持ち主だとしても、繋ぎ止めたいはずなのに。
トビが振り返ると、体を預けていたオイラの重みで壁側にトビを押し倒す。そのすぐ背後にあったドアにトビは背中を打ち付けて、そのまま床に座り込む形になる。自分のしゃくり上げる声だけがやけに部屋中に響く。トビの服に顔を埋めていたそのとき、もう二度と触れることはないと思っていたトビの手が、やさしく髪に触れた。



「…っん、」



いきなり顔を両手でグイと上げられたかと思ったら、次の瞬間には後頭部を片手で強く押さえ付けられて早急に口を塞がれる。突然のことに驚いたオイラは、思わずわかりやすいほどに体をびくつかせる。でも決してイヤではなかった。自ら唇に僅かな隙間を作る。そして、ガチガチに固まった両手で、自分よりも一回り大きな奴の体を抱き締めた。自分の頬に触れていたトビの手が戸惑うように小さく跳ねた気がした。後頭部を押さえ付けていた手が離れていつものように髪を撫でられると目頭が熱くなった。
長く長く口付けられて、ようやく唇が離されると酸素を求めて息が上がる。咽せるオイラを見て、奴が初めて笑った気がした。それと同時に、その右手が自分の髪から名残惜しく離れてすり抜けた。それはまるで、これが最後だと言わんばかりに。



「…デイダラさん」



名前を呼ばれてトビに目をやれば、悲しそうな顔で此方を見つめる。アイツと同じで綺麗な赤い眼だった。



「僕は、───」



声が聞こえたのを最後に、頭の奥の方で何かが切れて前に倒れ込みそうになる。痛みはない。それは突如として睡魔に襲われた感覚と似ていた。オイラにはトビが何て言ったのか最後まで聞き取れなかった。眠ることが怖い。目覚めたときにはもうこいつは目の前にいない気がした。
いやだ、と思った。瞼が強制的に重く閉じかける。少しでもそれを抗うように、もう一度だけ奴に視線を向ける。ぼすっと奴の胸の中に倒れ込んで、薄れていく意識の中で思う。



(と、び)



いつか、お前の偽りの名も思い出せなくなってしまうんだろうか。忘れたことさえ忘れてしまったら、お前はどう思う?
意識が途絶える直前に、最後にお前に聞きそびれたことがあったなあなんて思った。