その無垢な心で瞑想して

ガシャン、

「あっ」

マグカップをひっくり返した夕暮れ時。
デスクから床へと緑色の液体が流れて一筋の通路が出来上がる。あちゃー、と独りごちてその範囲が広がる前に書類を避難させた。

幸いにも緑茶で汚れた書類はほとんどなくて、重要なものはどれも無事だ。
机を拭くための布巾を持ってきて掃除をする。不意に隣の同僚が様子を見にパーテーションの向こうから現れた。その手にはホットのカフェラテ缶が握られている。


「大丈夫?」

「なんとかね、書類は無事だよ。」



ちらりとだけ同僚の顔を一瞥し、早々にデスクを拭き終わる。温かかった緑茶は随分とぬるくなっていたが、熱いままよりはいくらかマシだ。布巾を片付けようとした時、私の様子を見ていた同僚が「いいよ、絞ってきたげる。」と声を掛けてくれた。なまえは書類整理しときなよ、と続け手を差し出されたのでそれに嫌味なく甘えることにした。



「ありがとう。」

彼女が戻ってくると同時に手渡される温かかいもの。はい、と同僚はにこやかだ。これはココアでしょうか。


「えっ、いいの?」

「いいよいいよ、お疲れみたいだし。」


かんぱーい、とふざけて缶同士を接触させる。鈍い音ともに中身がとぷんと揺れた感覚が手元に残った。
ココアの缶を有難く頂戴した私はプルタブを引き中身を堪能する。甘い…あったかい…。


「それ飲んでショートの為に働くんだよ!」

「何言ってんの。」

「本当のことでしょ。」



確かに…脳内で無意識に働きアリと女王アリの関係が浮かんでくる。せっせと食料を集め女王に献上する働きアリの大群が。

その想像が的を得ているようで得てなくて、やけに面白い。轟さん意外と無茶ぶりというか突拍子もないこと言ってくるし、そういう所とかピッタリじゃない?



「何笑ってんの。」

「ふふ、ごめんちょっとね…。」

「あ、ねえ!そういえば気になってたんだけどアレからショートについて何か分かった?」


「何かって?」

「一般人が知らないような何か、だよ!」


かなりパーテーションから身を乗り出してこちらにココアの代金だとばかりに情報を要求してくる同僚。

カフェラテを豪快にあおり、空になった缶が同僚の机に置かれた。その机を見ると色々書類が少々乱雑にばらまかれている。しかし普段の彼女から考えると随分と片付けられている方だ。少しは整理整頓をしなさいよ、と昔軽いテンションで言ったような気がする。その時彼女はなんて言ってきたんだっけ。あぁ、そうだ忙しい時ほど忙しくして整理整頓もままならないくらいが楽しいの!って言っていたような。


「何かって雑じゃない?というか…今こんな雑談してる暇あるの?」


「甘いななまえさん。実は今やっと終わらせたところでひと段落してますー、残念でした!」



ドヤ顔でピースを作り顔の横に持っていく。いつも思うけれど彼女、実は私より1つ年上なのにその行動や言動のおかげで実年齢より少し若く見える。

仕事中の弊社デザイナー班メンバーは皆揃ってキリッとした表情に切り替わり仕事の虫になる。彼女とてそれは例外ではなくて、仕事中は憧れるくらい集中力があってかっこいいのだが、普段の姿を知っているとギャップが凄い。


「あぁ、そうですか…。」

「ねえねえ、教えてよ。何かあるでしょ。」

「守秘義務って知ってます?」


仕事で知り得た情報を他者に無闇に口外してはならない。



「ギリギリ引っ掛からなさそうなことで!」

ね、お願い!とお願いされた。同僚の目は私の手元のココア缶を見ている。こいつ…分かってて言ってるな?


諦めて一つこの人が納得しそうな、口外しても問題なさそうな知識を探す。知識の引き出しを開けると無駄に轟さんのプライベート情報ばかりが見つかった。そりゃそうだ、雑談かお茶を奢られるか、しかしていないもの。

そういえばこの前入ったところのレモンティー美味しかったなぁ。茶葉が違って風味からフルーティだった。多分あそこなら何を飲んでも美味しいと思う。

轟さんの表情が明るくなったことを思い出した。ぱっ、と目が光ったのだ。
美味しかったんだろうなほうじ茶ラテも。
あ、これでいいかも。


「この前、ほうじ茶ラテ飲んでたよ。」

猫のラテアートが描かれてるやつ。と付け足す。こんな知識で満足いただけるのだろうか?
同僚は一拍置いたのちに月のように丸い目をさらに丸く大きくしていた。どうやらお気に召したようだ。



「えーっ、かっ、可愛すぎない?!というか、ほうじ茶ラテ!ほうじ茶ラテなの?カフェラテとかじゃなく?」



カフェラテだったら私今ショートの気持ちになってたのに!!と彼女は声を荒らげる。ちょっ、声大きい…。人差し指で静かにのモーションで制しようと試みる。同僚は肩をすぼめて申し訳ない、という顔をした。


「ごめん。でもさ、ほうじ茶ラテチョイスってところが意外で…。」


「多分だけど、和風なものが好きなんじゃない?事務所にも盆栽置いてあったし。」

「ぼ、盆栽…。」


理解が追いついていないらしい。あ、これじゃ情報2つ渡してしまったことになるのかな。ココアのお礼にしては量と質が見合ってなかったのかも。


「そっかぁ、でも確かに好きな物は冷たい蕎麦って書いてあったし、あり得る!」

「蕎麦が好きなんだ…。」



轟さんはお蕎麦が好きらしい。
もうすぐ年の瀬が近付く頃だし、納品完了したら歳暮にお蕎麦を送って差し上げようかな、なんてふと思う。

気がつけばもう終業時間近い。同僚と私は顔を見合わせて苦笑した。もうこんな時間なんだね、と言葉を交わし互いの席に着席する。
日報まとめに入らないと、といざ気合いをいれてパソコンに向き直した、丁度その時。



「みょうじさん、郵便です。」

総務課の人が手紙を差し出してくる。
綺麗な封筒だ、宛先に私の名前が書かれていて、消印は昨日の昼頃。

誰からだろうと表側をめくると、そこには「ショート事務所」の文字。轟さんからだった。郵便物送るなんてことはひとつも聞いていないのだが。

急ぎだとまずいので、私は直ぐにカッターで丁寧に封を開け中身を取り出した。1つは小さな厚紙で何かのチケットになっている。もう1つは映画の完成披露試写会ご招待の表記。下に会場の案内図が記されている。場所は都内で再来週の土日に開催されるようだ。




…映画の披露試写会チケットが何故轟さんから送られてきたんだろう。試写会という言葉には最近馴染みがあるが、ともあれ理由は分からない。とりあえず、恐る恐る映画名と出演者名を見る。その表記に私はぎょっとした。
何となく察しがついていたような気もするが、先日選んだスーツを着て行くと言っていた件の映画だったから。



チケットの方も確認すると、ご招待者欄なんて部分がある。そこに記載されている名前は、当たり前ではあるがショートと書かれていた。席やブロックの番号をよくよく確認してみると何故か関係者席の配置である。

私は無心でご招待案内を穴が開くほど睨んでいた。キャスト、スタッフによる舞台挨拶も執り行われるみたい。試写会に着て行くと言っていたんだからまあ当たり前か。
関係者席のゲスト向けの注意書きがきっちりと細かく定められている。ドレスコードは平服指定、相応しい服装で来てってことだ。




一通り読み終わると同時に、終業時間を告げるチャイムがオフィスに鳴り響いた。

……帰宅しながら轟さんにどういうことか聞けばいいか、とりあえず帰ろ。








ーーーーーーーーーーー

駅前でまた強盗ヴィランが出没した。
通報が間に合わなかったようで、俺を含めたプロヒーローが現着する頃には犯人はもう消えていた。

徒党を組んで組織で行動するタイプの奴らで、最近取り締まりが強化されるや否や、大胆にも対策として2箇所で同時に犯行を起こしたらしい。現場で混乱が起きた所為でまんまと逃げ仰せたみてぇだ。歯痒さに俺は無意識に奥歯を噛んだ。



被害総額の換算も無視出来ないレベルで、二度も逃げられている。今回に至っては不祥事と糾弾されてもおかしくない。

それを自分たちのミスとして受け入れることに異論は無かったが、寧ろこの苛立ちの原因は他にある。


逃走途中のヴィランと会社帰りのOLが衝突し、OLが頭部を強打してしまった。

幸い出血はあるものの命に別状はなく病院に搬送されてことなきを得たようだが、強盗の被害だけでなく直接的な怪我人を出してしまったこと、それが自身の不甲斐なさを露呈させ、自身に対しての苛立ちが膨らんでいく。

(クソ…)

現場の保持立ち合いを完了させ、歩みで湧き上がる苛立ちを表して現場を後にする。



怪我をしたOLの後ろ姿が一瞬みょうじさんに見えて血の気が引いた。体温が急激に下がっていくあの感覚、氷を使ったわけでもないのにだ。

被害者に優劣なんてねェが、それとは裏腹に彼女に対して並々ならない思いを抱いていることに俺は気付いている。
友情か恋慕かといえばまだ良く分からない、ただ彼女が懸命に仕事に取り組む姿は眩しかった。


(ちゃんとしねェと)

しっかりしろよ、何時ぞやクラスメイトに放った言葉が自分に返ってきている。そんな気分だ。騒然とする商店街を抜け、顔見知りのプロヒーローに警戒の連絡を入れようとスマホを見た。



画面に通知が一件来ている。
みょうじ なまえの表示。
お世話になっておりますから始まる長文連絡だ。

あぁそういえば昨日試写会の招待チケットを送ったな、もう届いたのか。

途中から途切れた通知画面だったが、そこからは既に困惑と遠慮が見て取れる。
行きたいけど悪い、何故関係者席なのか、等その他諸々が丁寧にまとめられてメッセージ送信されていた。実にみょうじさんらしい。



なんというか想像通りに返してきてんな、と
おかしくなった。彼女は真面目な人だ、こうなることはある程度予想していたが、それにしても。

ここまで見事に想像通りだと却って関心する。苛立っていた心が少しだけ治まった。


ただ純粋に来て欲しいという意味で送った完成披露試写会の招待チケットだが、恐らくみょうじさんのことだから、何で送ってこられてんのか理解できねぇだろうな。

直ぐに返信をしようとアプリを開きパッドを連打する。

あ、受信から数分も経っていないうちの即既読になっちまった。.......気持ち悪ィ、て思われたら傷付くな。少し置いてから返信するか、と思い直し俺はスマホをポケットにしまった。




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