甘くない現実なんて要らないの

エンジンの掛かりきらない午前のこと。

聴き慣れた声と共に調子はどう?と不意に肩をたたかれた。

背後に人の気配があるので振り返る。そこには妙齢の男性がいた、私の上司だ。数年前にこの部署の部長に据えられた方で前任の部長が定年退職の際に他部署から引っ張ってきた腕利きらしい。

経歴もそうだが、ご本人の人柄も素晴らしい。面倒見がよく、一人一人の個性を把握するのに長けている方だと思う。個性とはこの世界における個性ではなく各デザイナーの特性のことだが。

「おはようございます、なんとか順調に進んでますよ。」

お陰様で、と付け加える。
部長はハハ、と苦笑いして続けた。

「くまが出来てるよ。」

「それは仕方なくないですか?」

「……ごもっとも。」

部長は言葉の途中に私の手元の資料を覗き込みながら続ける。部長が気になっているのは
リデザインの要である仕様書と設計図の進捗具合だと雰囲気で告げていた。


「お、このドタバタの渦中でもしっかり土台は出来ているんだね。」

「はは、何とかってところですね。」


轟さんと初めて打ち合わせをしてから一週間と少し経過した今週現在。

パトロールに同行した日から、実は私は一度も轟さんと面会していなかった。理由はいくつかあるけれど、一番大きいのは締め日で忙しかった、というところか。

幸いにもまだ次の約束は取り付けられていない。相手も多忙な人だからそんなに無闇に約束を取り付けるのも迷惑になってしまうだろう。好きな時に来てとは言われているけども私はあの発言をとりあえずの社交辞令と判断しているので不要な連絡は入れないようにしていた。なので設計図も仕様書も進捗は亀の歩みより若干遅いかな、というレベルです。

難しい案件であること、肝心のヒアリングが全くできていないこと、自由におまかせで!といわれてしまったこと。三重の壁を突破するのは随分骨が折れそうだ。


昨日はこの前聞きそびれてしまった疑問そもそも何故リデザを希望するのか。それを掘り下げたかったため残業三昧でヒーロー・ショートについて記事を読み漁っていた。

結果リデザへの答えとして相応しいものは今のところ見つけられず終い。無駄足である。
のに厳しい現実を突きつける記事だけは相当数見つかるのは何故なのか。

ショートのコスチュームは学生時代以降一度も大幅な変更がないこと。

大きく破損しても毎回同じデザイン会社に修理依頼を出していたこと。その他不安要素多数。

私を悩ませる種だけが増えていく。デザインの大元が出来ても詳細に行き詰まってしまっている以上は機能選出も素材依頼も確定まで進められるはずがない。
やっぱりネットで調べられる限りの情報だけじゃ限界がくるなぁ。迫られた二択を判断するには今の私にはまだ材料が足りな過ぎていた。思い切って轟さんに連絡を入れてみようかなぁ。


「でも、一時はどうなるかと思ったけど何とか頑張ってくれてありがとうね。」

「えっ、どうしたんですか急に。」

「いやぁ、最近本当に忙しそうにしてるからさ。.......轟氏のオファーへの初動もアレだったじゃない?僕も心配してるんだよ、」


仕様書の一部をファイリングして私に手渡してくれた部長は申し訳なさそうにそう告げた。
初動がアレ、とはオファーを受けた後に確認漏れが相次いで私の首が取れるくらいに電話口で謝罪し倒したあの事件のことを言っているのだろうか。
確かにあの時はクビにしてくれ、と思い詰めるほど絶望していたなぁ。
あれからもう一週間以上が経つのか、
忙しい時ほど時の流れは早いものだ。





数週間前、私が昇進面談を受ける数日前のことである。あの時、ショート事務所の代理申請者から電話を取ったのは入社して間もない新入社員だった。運悪くあの日私は不在にしていた為、なり続ける電話を取ってくれた新入社員さんは勿論自分の仕事としてきちんと対応してくれたようだったが、この時ただひとつだけ致命的なミスを起こしてしまっていた。クライアントのヒーロー名を聞き間違えたのだ。

ヒーローネームはヒーロー好きな人やテレビを見る人ならば人気ヒーローほど周知されているものだが、本名となると意外と知られていない。

例えば轟さんなんかもそうだと思う。勿論筋入りのファンならば本名も知っているかもしれないが、大多数のヒーローは本名を公表していないケースが多い。

この日新入社員さんの作成したクライアント管理表には、確かに電話口にて伺ったことが殆ど全て間違いなく記入がされていた。
ヒーローの本名も、事務所の所在地も、連絡先も個性名も全て。強いて言うならヒーローネームもちゃんと書かれていた。ただこの記載が違っていたのだが。

ヒーローネーム:シャウト

今となれば「誰だよ」となることだが、電話で聞き間違えてしまったのだろう。ヒーロー名鑑で調べるとシャウトがいるからなおのこと発見が遅れてしまったのも運が悪い。


本名も事務所所在地も個性名もよくよく確認すればヒーロー・ショートだと気付けた筈だが、何故か直前まで誰も気付くことが出来なかった。

恐らくだけどこの部署内で誰一人私がショートからオファーを受けている、なんて思っていなかったんじゃないかな。かく言う私もまさか相手がショートだとは思っていなかったし。

かくしてその部分の重大な食い違いに気付かないまま私は部長から昇進とオファーの件を至極普通に聞かされ、初打ち合わせの日程調整のお願いをメールにて送信した。
帰ってきたメールの返信がショートさんではなくシャウトさんから来ていると思い込んでいる私は提示された日程でOKを出し実在するヒーロー・シャウトのネットに出ている情報を元にポートフォリオを作成し、当日に備えていた。結果無駄になってしまったけど。


この時点で、私がスマホに登録していたクライアント情報はヒーロー名鑑で調べたヒーロー・シャウトの情報。
既にやらかしてる感が半端じゃない。

新入社員さんが作成してくれたクライアント管理表は所持こそしていたものの勝手な思い込みでヒーロー名鑑で出てきたシャウトさんの情報とクライアント管理表のシャウトさん(の名前になってるだけの轟さん)が違うことにも気付こうとすらしていないのだった。


打ち合わせ2日前、定時間近。
シャウトの事務所は遠いのでわざわざ前泊申請をしてホテルも取っていた私が、新幹線も予約し終わり久しぶりの前泊にちょっとウキウキしていたときだった。


業務を少し前倒しで終了させることが出来たのであとはもう提示通り帰るだけだ、明日は観光地をどのように回ろうかなんて思っていた所に、超絶焦った様子の部長が飛び込んできたのは。


「みょうじさん、……ちょっとオファー受けたクライアントの管理表見せてくれませんか。確認したいことがあって。」

「…、?はい、こちらです。」

部長が持参したノートパソコンを私のデスクに荒々しく置く。画面はもちろんヒーロー名鑑。ばちばちばちーーん!と派手なタイピング音と共に検索フォームに文字が入力されていく。何か検索で確かめようとしていることは誰の目からも明らかだった。

「ど、どうかなさいました?」

「…………。」

ものすごく真剣な目で、画面と管理表を見つめている。正直ここまで焦っている部長は初めてだ。

表示されている検索結果はヒーロー・ショートの詳細情報ページで、住所や個性名などはテレビでもよく特集されているもの。半冷半燃の文字も同じく規則正しい位置に表示があるし、うん、なにも間違ったことは書かれていない。


というか部長、急になんでショートのプロフィールなんか確認し出したのかな、しかもわざわざ私のクライアント情報を確認したい…だなんて………。



「……………ん?」


どこと無く違和感を感じ、目が画面上を滑るように管理表と表示結果画面を二度、三度往復した。
2つの異なる媒体には同じことが書かれている。紙にも、ディスプレイにも。
個性名、本名、事務所所在地、連絡先、全てがどちらも同じなのだ。
違うのはヒーローネームただ一つだけ。
私と部長の眉間にシワが寄っていく。



「これ…、シャウトじゃなくてショートだね。オファーしてきたヒーローは。」

「はい?ちょっと意味が…」

「やっぱり……ヒーローネームが間違えて入力されてる。」

「……はい!?」


勢い余って無意識に立ち上がった私を、冷静さをようやく少し取り戻した部長が「落ち着いて」と宥める。部長は自分のパソコンはそのままに私の方のパソコンを「ちょっと借りるよ」と操作を始めた。メール履歴と出勤簿を照らし合わせている。




「シャウトじゃなくて、ショートって………ショートってあのショートですか?!」

「確認したけど、あのショートみたいだよ。アドレスもドンピシャだし、かかってきた時の番号もそうだ。」


ここでようやくとんでもない間違いに気付いた私と上司。部署内メンバーもただならぬ雰囲気にデスク周辺に集まり始め、パソコンとクライアント管理表を覗き込んだ。


最初に作成された聞き取ったままを書き写した管理表、そこには確かに個性:半冷半燃の記載がある。これは昨日今日で急に変わったものではなく、作成された当時から入力されていたもの……。

同僚やスタッフの間に(え、嘘でしょ?)という空気が流れる。何故ならここに今集まっているメンバーの多くはこの管理表を一度は目撃していたからだ。見ていて誰一人ヒーローネームが間違っていることに気づけなかったのだ。


一頻り皆が一様に閉口した後、部長が少し低い声で一言「とりあえず、みょうじくんはショートのポートフォリオを大至急まとめて。それから事務所にも 電話で 連絡。」と告げた。


蜘蛛の子を散らしたようにサーッと部署スタッフが自デスクに戻っていく中、私は吐きそうになりながらショート事務所にお約束の時間を1時間だけ後ろ倒しにして貰えないかのお詫びとお願いをロックミュージシャンさながらのヘドバン謝罪で電話することになった。

新幹線とホテルはいつの間にかキャンセルされていて、キャンセル料はギリギリ発生せずに済んだとのことを後日隣席の同僚から聞かされる羽目になる。



これが初動対応の失敗の全容である。
そして全てはあの日、オーダーはおまかせで、と言われた顔合わせの日に繋がっていったわけだが。




「キツかったら数名でグループ組んでもらっても大丈夫だからね?」


他にも何名か今手が空いているスタッフがいるようで、オフィスを見回し部長がそういった。皆にそれなりの落ち度があった今回の初動遅れに罪悪感を持たれているのもそうだろうが、恐らく私1人に背負わせたく無いんだろう。



「ありがとうございます、でも大丈夫です。」

「そう?いや、でも…」

「させて頂けるなら、やり遂げたいので…!」


これは本音。初日にも思ったように、こんな機会はデザイナー人生において二度もないであろうまたとないチャンスなのだ。最近はそう思うようになった。

どんなに相手が大物であろうともやれる限り心血を注いで作品を完成させなければ、私が幼い頃憧れたデザイナーならきっとそうするはずだ。

「そっか…」

「ですからご安心ください。誠心誠意務めさせていただきますので!」


部長の穏やかな笑みに私も改めて気合いが入る。轟さんにも期待されているのだから、誠心誠意それに応えることのみ考えていこう。

その時不意にスマホのバイブ通知が震えた。デスクの上のスマホが点灯し、通知が表示される。

「あ」

轟さんからのメッセージ。
とても短文で一言だけ

明後日予定が空いていたら来れないか。


スマホ通知を見ていた部長は目を見開き、これショートから!?なんて驚いている。
噂をすればなんとやらと言うが、いくらなんでもリアルタイム過ぎないでしょうか。

直ぐに返信しようとアプリを開いたら、テンションが上がったのか部長が「僕にもショートのアカウント教えて!」なんて言葉を口にする。いや、それコンプライアンス違反ですよ…と言い出すには気の強さが私には足りない。

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