冷たい海と心中出来たなら

今日は、今日に至るまでの3ヶ月間の集大成にあたる日らしい。

数日前まで特段何も変わらず今まで通り会話していた所為か、なまえさんと二人でレストランのテラス席に通され和やかに会話をしている今でも“今日から俺と彼女は友人同士になる“という帰結に対してあまり実感が湧いてくることはなかった。

しかし、先程手渡された真新しいケースが鈍く光りながらレストランの優美な灯の元に映し出されているのを見ると、改めて現実を認識せざるを得ない。





完成品は後日郵送しますねとサンプルの試着をしていた時、そう告げてきたなまえさんをなんとか今日直接会うまでに漕ぎ着けられたのは本当に幸運だったと思う。


事務所の受付電話が鳴り、彼女の到着を確認すると同時、迎えに行ったそばからやや高めのテンションで「轟くん!」とコートを揺らして近付いてきた直後のこと。


「完成品です。良かったら、手に取って触ってみて下さい。」

なまえさんは言うなり俺に少し重いケースを手渡しながら、ゆったりと笑った。

愛想笑いとは違う、意味のある微笑み。
そう、例えば…これから自分がこれを着る、みてぇな、そんな顔だった。着るのはなまえさんじゃなくて、俺だというのに。

そういえば出来上がったばかりのコスチュームサンプルを着た時も、同じようにまるで自分が着るかのように嬉しそうに笑っていたな。



「これ、新たに導入したもので、体温を熱伝導するラインを薄く引いてるので霜が残りづらくなるんです。」


青紫の生地に伸びた赤の細いラインを指す細くて綺麗な指。機能の説明をしている際も、彼女は楽しそうにはにかんでいた。一つ一つの機能に目を輝かせながら一生懸命伝えようとするなまえさんの顔に思わず「嬉しそうだな」と心の声が漏れる。


「…自分のことみたいに嬉しいんですよ、実際に。」

言うや否や、そう言って照れくさそうに頬をかいた彼女の笑顔が酷く眩しかったことだけを覚えている。守りたい、離したくないと無意識に思ってしまった自身の心は随分と真っ直ぐで。

そして素直で。


「…ありがとな。」


俺はやっぱり、この人に会えて本当によかったんだろう。なまえさんと会って考えが変わった、とかそういう大それたことじゃねぇけど。それでも思わずにはいられない。

俺は、この人が好きだ。









「良く来るんですか?ここ。」

「ん?いや、来るのは初めてだ。」

「そっか…素敵なところですね。」


机の上に置かれた燭台が風避けの中で炎を揺らめかせている。以前行けなかった彼女が選んでくれたレストランは、残念ながら生憎予約が取れなかったので、急遽緑谷に女性が喜びそうな場所、かつそんなに有名所ではない所をいくつか聞いて、ピックアップしたのがこのレストランだった。
緑谷に教えてもらったいくつかの候補の中でも、ここは特にフレンチが評判だという。


気張りすぎない雰囲気で、ウェイターの振る舞いも親しみやすい。選んで正解だったな、と独りごちて席についた。


「じゃあ、ちょっとだけ失礼します…」と眉を下げ、悪戯な笑みでグラスに注がれたミモザを振って回す彼の人の透き通るような顔を眺める。

はた、と我に返った瞬間、なまえさんの一連の動作を全て目で追っていた自分に気付いた。

テラス席から見える夜景が、彼女の凛とした横顔を浮かべて輝いている。向かいあって並んだこの風景も、見慣れたものではあったが今日だけは特別だ。

頼んだばかりのオードブルの皿とメインのアントレの皿を同時に受け取って、なまえさんは僅かに目を細める。


「美味しそう…」


食べてもいいか、と目で訴えてきた視線に無言で頷き、俺もフォークへと手を伸ばした。



「美味いな。」

「最近適当なものしか食べてなかったから…美味しすぎてびっくりしました。」

「そんなにか。」


交差するフォークの速度と比例してグラスに揺れるカクテルが減っていく。上機嫌でグラスを傾け続けるなまえさんの頬に注視すると、少しだけ赤く染まっている様な気がした。

この人は思いの外、酒を嗜むようだ。


「酒、好きなのか?」

「なんか語弊あるような……でも嫌いじゃないですよ。」

「へぇ、意外だな。」

「え…そうですか?」




他愛ない会話を弾ませつつ、料理にも舌鼓を打つ。…美味い。好きな人と過ごしているだけで何倍にも膨れ上がっていく喜びを噛み締める。

食事も程々に、シャンパンが注がれたグラスへといざ口をつけようとしたその時、


「失礼致しますお客様、宜しければこちらご賞味くださいませ。クリスマス限定のテーブルワインをただいまカップルの方にサービスしております。」

「え、」


にこやかにボトルを持ったウェイターがテーブルの脇に立つ。人懐こそうな声色で高々とボトルを掲げた刹那、なまえさんが顔を引き攣らせて固まった。

「カップル…。」


先程告げられたのと同じ言葉を繰り返し、宙にグラスを泳がせている。どうやらカップルと間違えられたことに動揺しているらしい。



(そこまでショック受けなくてもいいだろ)

彼女は明らかに先程とは違う苦笑いでウェイターに「カップルでは無いんですけど…、それでも貰っちゃって平気ですか?」と返している。怒ってるような、悲しんでるような、何とも微妙な顔だ。間違えられたことがそんなにも嫌だったのだろうか。


「それは失礼いたしました。…ええ、もちろん是非どうぞ! 軽やかな風味とフルーティな甘さが特徴的なクリスマス限定ワインでございます。」

「ありがとうございます。」


ウェイターは特に気にしなかったのか、人の良い笑みを浮かべたまま、カップルでなくとも良いと告げて何事も無かったかのようになまえさんと俺にグラスを手渡した。

新たなグラスに注がれる鮮明な赤。

まじまじと見つめてからなまえさんの様子を見れば、彼女は既にワインをテイスティングしている最中だった。…早えな。それなりに酒を呑む、と言っていたのも分かる。


……とりあえず飲むか、クリスマス限定らしいしな。グラスを振ってから顔を近付けてみると、ウェイターが言った通りにしつこ過ぎない甘い香りが鼻を突いた。






「でも私とカップルに見えるってなんだか轟くんに申し訳ないなぁ。」


ふと思い出したようになまえさんが呟く。


「只でさえ以前ご迷惑お掛けしてるのに。」

「俺は別に、」

「まあ、でも恋人は仕事です!なんて言い切れる様な……女子なので。」



心配は要らないかもしれませんね。と聞き捨てならない台詞を吐いたなまえさんの顔は、呑み始めた時よりも更に少しだけ赤さを増していて。


「そんな卑下することねぇだろ。」

「これは卑下じゃなくて事実ですよ。」

「俺は、」


勢いに任せて言えたら楽になれたのかもしれない。しかし今日伝えるつもりで準備していた肝心の気持ちは、ここまできて土壇場で尻込みしてしまった。


俺は、なまえさんのことがーーー、

そこから先が出ないまま、暫しの沈黙。うつむき加減にフォークを強く握った俺の顔を真っ直ぐに見据える二つの双眸が伝えなければと急く心に杭を打つ。

俺の印象が夜明けの空なら、なまえさんの目は例えるなら深い深い海底の色だ。広い大海の様な碧が、途端に言いたげに開口したその口を噤ませる。

何も言い出せない俺に、はたして彼女が何を感じたのかは分からない。ただ、テラスの向こうの夜景を海底を閉じ込めたその双眸でなぞってから、やがて静かに語り出した。



「そういえば、明後日新コスチュームの取材があるらしいですね。」

「え」

「ファンの期待に応えられるのかどうかは、まだ分からないけど……私に出来る全てを注ぎ込んで作った最高傑作ですから。自信もって、これからも沢山の人のヒーローで居てくださいね!」

「あ、あぁ…」

「インタビューも、大変かもしれないですけど…遠くで応援してます。」


少しだけ、泣きそうな瞼を震わせて、なまえさんは笑う。俺は何故泣きそうだと思ったのだろう。不自然に感じた違和感の正体を探ってはみるが、そうこうしている間にもなまえさんは柔らかく口元を緩めて話を続ける。


「あ、あと機能に関してわからない事があれば弊社開発部までご連絡下さい。多分およそは答えられるはずなので。」

「あぁ、そうさせてもらう。……ありがとな。」



やはり何かおかしい。点と点が連なり違和感の影を明確に形作っていく。発言を全て振り返って、それが何なのかようやく分かったような気がした。

やけに自分事じゃねぇ話し方で開発部に連絡しろと言ったのが、ずっと引っかかっていたんだ。
なまえさんの連絡先を知ってる俺からすればわざわざ開発部に連絡する意味はない、彼女もそれは知っているはず。
にも関わらず何故、開発部まで連絡しろと言ったのか。しかも答えられるはず、なんて随分と不透明な物言いで。作った本人が選ぶ言葉にしては不自然過ぎる。

そして同時に思い出されるもう一つの言葉。






「なぁ、なまえさん。」

「…はい?」

「さっき、遠くで応援してるっつったよな?」

「はい。」

「遠くって、何だ?」

「………。」



沈黙と共に彼女の纏う雰囲気が重さを増す。室内は暖かく、クリスマスに則して睦まじく隣合う男女の楽しげな声だけが響く中、俺たちが座るテラス席の一角だけは世間から隔絶された異空間のようにも思えた。


悲しそうな、それでいてどこか諦めたような。そんな深い海の色と視線が合うたび複雑に絡んでは解けていく。





「実は私、アメリカでの長期開発企画に参加することにしたんですよ。……明後日から。」



沈黙を破って、なまえさんは静かにそう言った。夜風が俺の髪を揺らしていったような気がしたが、そこからのことは、もう、あまり良く、覚えていない。

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