寂しい心音が鳴る日には

年の瀬の12月20日。仕事納めを目前にして、色めき出す街とは真反対に、私は相も変わらず仕事に追われていた。

多忙へのお門違いな恨み節を、依然なら一言ならず大量に吐き出していたんだろうなとデスクに向かい合いながら独り嘲笑する。笑える余裕があるのには勿論理由がある。


昨日轟くんの所へ行って、最終調整後のコスチュームサンプルの試着をお願いし、サイズ感、デザイン、色イメージ全てにOKを貰った。そうして遂に昨日を持って全ての打ち合わせが終了し、あとは納品を残すのみとなった。


全行程の打ち合わせが終了、これが何を指しているのか分からないほど私は鈍感ではない。早い話これから先の人生の中でもう二度と彼に会わないんだ、ということに気づくまでさほど時間は掛からなかった。

もう、会えない。胸中でその事実を反芻させた瞬間から胸を刺す鋭い痛みが湧き上がって来たのは言うまでもないが、そんな私のことなど知らんぷりで、我が部署には今日も明日も業務が溢れんばかりに溜まっていた。

幸いなことにこの寂しさから逃れるためには、涙を流す暇すら惜しいくらいの忙しさがある方が、却って都合が良かったのだ。




そうして今も尚私は書類の山に埋もれ筆を走らせ続けている。無言で一言も発することなく机に齧り付いて仕事に熱中していないと、常に轟くんのことを考えてしまいそうだったから。

張り裂けそうな心を守る方法なんて、私はこれしか知らない。慣れない失恋なんてするもんじゃないなぁ。
今更どうしようもない感情を持て余しながら書類の活字を狂ったように目で追い続けた。



まあ、今片付けている申請書も結局は轟くん絡みの申請書なのだけれども。結局は全てを完璧に忘れることなど出来ない、それは最初から分かっていたことで。


(それでもいい、)

私は私の役目を果たす。
プロとして、友人として。期待に応えたいと思うただそれだけの心に、真っ直ぐに向き合うだけだ。


「3日でコスチューム新規登録申請通すなんて本当どうかしてる…。」


納品予定まであと4日というギリギリのタイミングではあったが、なんとか手元に申請許可の通達書類を用意することが出来た。
なんとか納期を延長せず済んだのは偏に最近家にも帰らず仕事の虫になっていたからに他ならない。

前から、この仕事に関しては中々の狂人であるとは自負していたけど、最近は更に狂人振りに拍車が掛かっているような気がしなくもなかった。……全くもって今更だが。


手元の書類のいくつかをまとめてファイルに挟む。社内でも使用前例がほぼ無かった為に作成するのにとても苦労したその書類、“超圧縮技術運用企画書”と“超圧縮技術利用申請書”をクリアファイル越しに眺めた。ヒーロー公安委員会に出すものとして作成したので記入不足があったら大変だ。


「とりあえず、大丈夫かな。」

一通り上から確認し終えてデスクを立つ。予め電話で話してデータの方を委員会には提出しているし、特許技術の利用許可も下りているので否認されることはまずないだろう。

「ふぅ………」
 
これで、正式に轟くんのコスチュームが完成する。遂に、ここまで来てしまった…と思わず感慨深さに感嘆のため息を漏らした。

寂しさの反面喜びも大きくて。
早く着て欲しいなぁ、なんて思うたびに頬が緩んでしまうのはご愛嬌である。

最終調整も終えて、綺麗に畳まれたそれは今現在トランクの中に誇らしげに収まっている。まるで主に届けられるのを今か今かと待ち望んでいるようにも見えた。



「やっぱり、この色にして良かった…。」


従来のものより少しだけ紫がかった青色の真新しいコスチュームにそっと触れる。本当、脳内で思い描いていた通りの色に仕上がってるなぁ。何だか凄く嬉しい。

綺麗な群青色。
夜明けに近い、始まりの色。

私が、あの日告げた轟くんの色。

仕上がってくれて良かった、と満足気に笑みを浮かべる。



最終の色イメージで迷っていた末、自分で思う色は?と聞いた時に彼から群青と返ってきた時の感動といったら……。きっと生涯忘れられそうにない。

想いが形になったような、まさにそんな奇跡の産物が、どうか彼を守ってくれますようにと願いながらケースを閉じた。


「さて、と」

もう行かなければ。デスクから立ち上がった私はおもむろに伸びをした。これからヒーロー公安委員会本部に作成した書類を提出しにいかなくてはならない。約束の時間は刻一刻と差し迫っている。椅子に掛けていたコートへと手を伸ばし羽織りながら荷物を抱えた。

外もだいぶ寒いしなるべく早く帰ってこよう。時計を確認しオフィスの外へと足を向けたその時のこと。


「みょうじさんもう行く?」

自席のパーテーションから顔を覗かせ上司が私に話しかけてきた。


「……はい、もうそろそろ。」

「直帰?」

「予定です。」

「そっか、分かりました。」


上司は自身の時計を一目見てから再び私の荷物に視線を向け、刹那考えを巡らせているような顔をしている。呼び止められるほどのことはしていない…筈だが、一体何だろう。

恐々と顔色を伺ってみれば、「あぁ、いや…そんな急ぎじゃないからさ。」と歯切れの悪そうな一言が返ってきた。


「まだ、時間少しだけ余裕ありますが…何か私…やらかしました?」

「いやいや!違うよ、そうじゃない。ただ一応最終確認を、ね。」



わずかに細められる上司の目。パーテーションから身を乗り出したその背格好のまま、口元を歪ませて変わらずそこに佇んでいる。
私も様子を伺う目をしていたが、上司の目もそれと同じ目をしていた。最終確認…?何の?



「最終確認…ですか?」

「うん、ほら先週言ってただろう。」

「先週?……あ、」

「“是非お願いします”ってさ。」



そうだ、今後に関わる大事なことがあったんだ。それはもう頭からすっぽりと無くしていた大事なこと。

危うく忘れた状態で26日を迎えるところだった……やっぱり忙しくし過ぎると駄目だなぁ、なんて。慌ててそんな独り言を浮かべながら流れるように自席のカレンダーを見る。

26日の欄には映画のノベルティシールと一緒に、けして丁寧とは言えない自分の悪筆で、アメリカ行き(予定)の文字が刻まれていた。

あくまで予定でしかなかった宙ぶらりんの話であった。正直本当に実現するかどうかは五分五分くらいだった。

しかしどうやら上司は宙に浮いたままの夢を現実にして持ってきてくれたらしい。




「あちら様、私で本当に良かったんですかね。」

「熱心にあっちにプレゼンしたの、みょうじさんでしょ。」

「確かに…」

「それで、予定通り26日から参加してもらうことになるけど」


本当に良い?と上司がまっすぐに聞いてくる。答えはひとつしかないと言うのに、それでもこの人は私の為を思って聞いてくれているのだと、瞬間的に理解した。そりゃ確認もしたくなるか。なんてったって今回の案件は


「行ったら少なくとも半年は帰れないよ。」


ヒーローの本場アメリカで、およそ一年に及ぶ日米合同超圧縮技術応用開発企画である。


「……心得てます。」

「そう、それでも良いの?」


上司が何度も確認を取るのも肯ける。何分通常の国内案件とは訳が違いすぎる。

本来異国に独り、言葉も違う、友人もいない、しかも就労ビザ取らなきゃいけない。というアウェイに好き好んで飛んでいく奴なんて物好きか夢溢れる野心家しかいないよね、そりゃ。

上司もそれをわかってるからこその最終確認。失恋したので日本から出たい、などというプライベート甚だしい私的理由を全く知らない上司からしてみれば「本当に行くの?」と思わずにはいられないのだろう。

かく言う私も失恋してなきゃ流石に決意しなかったと思う。興味はあるけど、いくらなんでも障害多過ぎるしね。

……でも、今は違う。


残念ながら社内で企画参加者を募っているというその話を耳にしたとき、私は運命だと思った。失恋を覚悟したその日にアメリカでの大規模開発。しかも半年は帰れないときている。……周りがどれほど止めようとも、私にはどうしても神様がくれたチャンスにしか思えなかったんだ。

なぜなら失恋を忘れるための最善の策は物理的にも精神的にも恋しい人を排除することだと思っているから。



「承知の上です。」

仕事は好きだし、語彙力無いけど凄いデザイナーになりたいって夢もある。これ以上の機会は逃したらダメだと判断したのも本当のことで。

色々思うことはあれど、どっちみち日本にいたら轟くんの面影からは逃れられない。

というか忘れるのに一体何年掛かるのか。

私だけを見て欲しいと、考えてしまうほどの大切な人が他の人と恋愛している…なんてところをテレビで万が一見てしまった日には……多分耐えられない。あぁ、考えるだけでも恐ろしいなぁ。


それならばいっそ、
私は夢に一途になりたかったのだ。



「大丈夫です、たかが半年、一年ですよ。」


そう、たかが半年一年程度、日本から離れるだけだよ。



「……そっか。」


覚悟が通じたのか、それともこれ以上は無意味と感じたのか。上司はそれ以上何も言わずに微笑んで、パーテーションに乗せていた腕を下ろした。


「ビザの申請、必要書類は用意しておくよ。25日には渡せるように手配するから、みょうじさんは取り敢えず納品までしっかりよろしくね。」

「かしこまりました。」


宜しくお願いしますと頭を下げて、上司の後ろへと回る。軽やかに買ったばかりのネイビーのヒールを鳴らしてオフィスを出ると、ほんの少しだけ日が暮れ始めた空の色が鮮やかに見えた。

あぁ、失恋したけど。でも仕事はやっぱりいいなぁと、空を遠くに眺めながらそう思う。轟くんみたいなカッコいいヒーローのことを思って忙しくしている時ほど楽しくて仕方がないのは、昔から何も変わっていない。

アメリカに行くのもいいじゃないか、現地で友達も、素敵な彼も出来るかもしれないし。

抱えたバッグを大切に抱きしめながら角を曲がり地下鉄に入る。乗り換え情報をアプリで検索し始めたその瞬間をまるで待っていたかのように、スマホが朗らかに振動した。


“なまえさん、突然悪ィ。”

“24日、良かったら飯でも行かねぇか?”


「………え、」


恋愛ってきっと、している最中が一番楽しくて、壊れてしまうと分かったそばから、それはもう恋じゃなくなっているんだと思う。
メッセージを一目見て、やっぱり少し後悔した。壊れた恋が再び鼓動を刻む音から意識を反らせたくて、咄嗟に電車の通過する音に集中する。

抉られるような痛みに蓋をして。
二度と会わないんだと覚悟していたのにな。

恋の終わりはいい思い出で終わらせるべきだろうか。少し悩んだ末に、私は使い古したハリネズミのスタンプをひとつ送った。

ハリネズミは裏腹に間抜けな顔をしていた。

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