明けの明星

ゆっくりと息を吐いてヴィランの神経を逆撫でしないようとにかく気を配ろうと思う。


なぜなら細心の注意を向けるべきことは、今どこかでタイミングを伺っているであろう轟くんや、他のヒーローのほんの一瞬の行動を妨げない、ということだと思ったからだ。


私の立ち位置や僅かな動きで誰かが怪我するかもしれないし、そもそも私自身が怪我するかもしれない。怪我で済むならいい方かも。



追い詰められると人間頭が冴えるというのは多分本当のことで。

ある程度の冷静さを取り戻してみれば、あれだけ畏怖していたヴィラン達に対して武器は大きいけれど逆に大振りだから手練のヒーローにかかれば楽に制圧出来そう、と気づくのは容易だった。多分生存本能のまま、頭が冴えわたっているからじゃないかな。

あと轟くんがここに来てくれてるって安心感も確実にあると思う。



屈強なごろつき、だけどヒーローほど修羅場はくぐり抜けてない、そんな印象を今は彼らに抱いている。あくまで交戦ではなく逃げに徹してきたのだろう。いざ正面戦闘となった場合ヒーローの方が上手に見える。


しかも、先程辺りを警戒して見回していた男もヒーローの姿を見つけることが出来なかったようで、少しイラついているようだ。

轟くんの個性からして恐らく対象直線上に遮蔽物を挟まない場所に潜んでいるだろうに。ヒーロー好きなら落ち着いて考えれば分かること、それに気付かないということは考えが大雑把になっている証拠。元々ヤケになってる節もあったしね。


人質を確保時に巻き込まないという目的を前提にして、射程範囲を考えればせいぜい半径15m以内には居るはず。そして私はヴィランの左側手前に居る、背後は出てきた銀行の高いビルが聳えているので私達の位置からだと死角になっていた。

最短でヴィラン達だけを狙って拘束することだけを意識するなら……

(右側後方……銀行の屋上付近?)

ほぼ真上に位置している銀行の屋上に、誰かしらヒーローがいるかもしれない。



ヴィランはどうやらまだ気付いていないようだ。後ろを警戒するのはやめたらしい。視界に入っているヒーローにのみ警戒している。

警戒が緩んだ瞬間がチャンスになるのだろうか。…いやでも警戒が緩む瞬間っていつ?流石に分からない。

分からない以上は気構えも出来ない。



一体どうすればいいのか。


頭で考えては、まとまらない思考が千々にばらけていく。このまま銀行に引っ込んで籠城なんてされたら…いや、悪いことを考えるのはやめにしよう。


(そう言えば捕まってた仲間はいつここに着くんだろう?)


状況は依然一向に好転も暗転もしないまま。ただ時間だけが過ぎていた。そういえばヴィランが最初に叫んでいた要求は今どのようになっているのだろうか。

最早どれくらいの時間が経ったのか皆目検討がつかない。1時間くらい経っている気もするし、はたまた10分程度しか経っていないような気さえする。時計も何も見ることが叶わない私の状況把握にもそろそろ限界が来ていた。




ふと気がつけば小刻みに震えていたスマホがピクリともせず沈黙している。不審に思い、ポケットにそっと触れても着信は入っていなかった。

一方ヴィランの方も痺れを切らしてついに怒りが最高潮を迎えそうだった。眉間に幾重にも皺を刻んで、いよいよまずい顔をしている。

(轟くん……っ!)


一刻も早く助けてほしい。流石に恐怖が再び引き返してきて、途端に私に襲いかかってきた。強く押さえつけても震えだす身体。更に縮こまって小さく蹲っていると、落ち着きなく地面を蹴っていたヴィランの一人が遂に叫び声を上げる。


「いつになったら仲間を解放するんだよ、おいコラ!」


ハサミを包囲網に向けて振り回しながら盛大に男は喚き散らした。その場にいる誰しもに鋭い緊張が走る。びくりと肩が跳ねて、思わず結構な力を込めて自分の腕を握り締めてしまった。しまった、明日青痣になるかも。

そんなことを考えている暇はない筈なのに、それでも自分の痣の心配をしてしまったのは何故なのだろうか。





「今しがた到着したそうだ!」


その時向こう側で身を隠していた警官の一人が声を張り上げてそう答える。


「お前たちの仲間を2名乗せたパトカーだ!そこの表通りの交差点にもう来てる!だから武器を振り回すのはやめろ、人質に当たったらどうする!」


パトカーの影でそう叫んだ警官の言葉を聞くなり、ヴィランの動きが一瞬鈍った。

こちらへと近付いているはパトカーの音が確かに一台、静かに緊張を貫いている銀行の裏通りに、突如響きだすサイレンの音がその存在を主張している。

ヴィランの吊り上げられた瞳がそのままゆっくりと声の主の方へと向けられた。ギラつく獰猛な瞳に薄ら寒い思いを感じる。やはりというか、なんというか。声を上げた当の警官本人はヴィランに気圧され口を噤んだ。
ああ、やっぱり解放することになっちゃったのか。想定していたとはいえ改めて聞くとずしりと来るものがあるな。



「嘘だったら人質の命はねえぞ。」



思考を巡らせたような間を挟み、すぐさま男は低く呟いた。再び縮み上がる私の精神。今日だけで寿命が尽きてしまうのでは、と思うくらいに心身共に激しい緊張感に晒されている。

しかし怯え震えている暇はないようで。不意に背中の方に強い力が加わって、突如勢いよく首根っこを掴まれたまま乱暴に地面に引き倒された。


うぐ、と苦しげな呻き声が漏れる。なんでこんなことをされなきゃいけないのだろうか。もう気力も体力も限界に近くて私に抵抗できる力なんて残っていない。

加減は一応されたようだけど、普通に痛かったのもあって……もう色々と限界だ。



「やっと来たのかよ、クソ…おせえぞ!」

程なくして力なく地面に伏せる私と、待ちくたびれたヴィラン達の前に、先程の警官の言葉通り、一台のワンボックスが止まる。


私を押さえつけていた男が、私から腕を離し不敵な笑みを浮かべながらそのワンボックスへと視線を向けた。車の後部座席はガラスがスモーク掛かっていて見えない。けれど僅かにその奥に座っているらしき影が揺れている。間違いなく誰かいるようだ。多分開放される予定のヴィランの仲間だろう。

遂に来ちゃったよ…地面に伏せながらその様子を見遣る。悔しさから奥歯を噛み締めてどうすることも出来ずワンボックスに嬉嬉として近づく男達を見守っていることしか出来ない。


(………えっ?)

その時先程まで一切の振動なく静まっていたスマホが急に再びけたたましく鳴り始めた。

い、今?

タイミングに驚き思わずポケットを見るとスマホは間違いなく確かに震えていた。動くことが出来ない私は神妙な面持ちでポケットと停車している車を眺め困惑する。

なんで急に今連絡してきたんだろう?轟くんとは全く関係ない電話でも鳴っているのかな?いや、そんなことはまずないはず。今、もし全く関係ない電話が鳴っているのならそれはそれでもうそういう運命だったとしか思えない不運だし。

もしかして何かを伝えようとしてくれているのだろうか。


今しがた多少警戒しながらも無用心に車の前まで行ってしまった男の後ろ姿へと目を向ける。憎きアイツらの嬉しそうな顔に、自然と怒りが湧き出した。何であんなに喜んでいるヴィランの姿を見せられなければならないの。あんな奴らのせいで私は人質にされて痛い目にあっているというのに。

(あれ?)

そういえば私は人質だったのではなかったか。自分の怒りを振り返っていた最中、その状況のおかしさに気付く。


私の周りにヴィランが居ない。
正確には、いるけど一番危なそうな武器を持ったあのリーダー格の男が私の側から離れている。

今、私の周りへの警戒が、薄くなっている。




こんな状況が生まれるなんて、少し前の私だったら想像すらしなかっただろう。むしろ自分の妄想であると考えた方が現実味があるんじゃないかな。

しかし確かに現状は夢でも妄想でもなく、私を押さえつけていた恐怖の根源が私から離れていた。

千載一遇のチャンスとはこういうことを指すのだろうか。今しかない、まさにそんな状況だ。だとすれば、チャンスは絶対に逃せない。


私は同時に不明瞭だった着信の意味を数秒間考えはじめる。今までの着信とは異なって長く震え続けるスマホはあれから一度も途切れず、ずっと震えている。もし、この着信が何かしら行動を起こすという轟くんからの警告着信だとしたら。



意識の全てをワンボックスの暗いスモークガラスの奥へと注ぎ込む。凄まじい集中力だと我ながら思った。視界に映る全てがゆっくりとスローモーションになって、車へと手を伸ばすヴィランの瞬きまで鮮明だ。


もうすぐ、ヴィランの腕がドアに手を掛けてしまう。咄嗟に悲鳴をあげてしまいそうになった口を押さえる。気を抜けば今すぐにでも口走ってしまいそうになった。

全てがスローモーションに流れる世界で、私だけが取り残されているような感覚に苛まれる。
何もかもがコマ送りの様に見えている。音や挙動の全てを置き去りにして私にだけ鮮明な映像が届けられている気分だ。


弾かれるように気がつけば私は、声にならない声で彼の名前を呼んでいた。



ーーーーーー

瞬きをひとつだけ溢した時、勢いよくスライド式のドアが横に開く。バタン、と大きな音を響かせ車が大きく揺れた。その中には誰も乗っていない車内が広がっていた。ぽっかりと暗い車内だけが奥まで続いている。

見るなり私も、その前に立ちすくむヴィランも目を見開く。え、誰も乗って…ない?

急に開いた扉と、車内の異様さに驚いたリーダー格の男が目を見開く様を変わらず私はゆっくりと認識している。

しかし突如として車の中から、こちらに向かって宙に浮いていた丸い物体が放り投げられた瞬間、スローモーションだった世界は通常通りの時間の流れを刻み始めた。

ザア、とノイズがかかったように急激に覚める頭。その間時間にして僅か0.4秒程度だろうか。ドアが開け放たれ、車内から物体が飛んできた直後。瞬時の判断すら許さないような速度で丸い物体の中心から眩い光が溢れ出す。


私が丸い物体の正体が閃光手榴弾であると気づいた時、まだヴィランは愚か、その場にいた誰しもが光に気づいていない状態だった。それが私の明暗を分ける一瞬だったのだと知る由もないまま。


そういえばさっき、一瞬だけど私の名前を呼んだ人がいた気がした。あれは一体誰の声だったのだろう。

炸裂音に掻き消されてしまったのか、それとも元々幻聴だったのか、衝撃で意識を保つことすら難しくなっている私には今となってはよく分からない。


閃光手榴弾がヴィラン達の目の前で派手な音を撒き散らしながら炸裂した。

ああ、もう……何が起きても腹を括るしかないかも。半ば捨て鉢で、閃光から目を守るため強く目を瞑り衝撃に備えようとしたその時、


刹那、凄まじい冷気が風を巻いて頬を掠めた。


「……え、」


冷たい空気が張り詰める。予見した強烈な閃光は、何故かいつまでも襲いかかってこなかった。ふと心に希望が灯る。この冷気はもしかして、

名前を呼んだあの声はまさかーー、


恐る恐る目を開けて、霞む視界が一番初めに捉えたのは空気を引き裂いた巨大な氷山壁と、最高のヒーローの後ろ姿。



私が大好きなヒーローという人達は、常に最後には必ず来てくれる存在だった。
どれだけ苦難が襲いかかっても、最後には必ず勝つ、それがヒーロー。

だから貴方が私を助けてくれたことも、貴方がヒーローであることも、偶然じゃなく必然だったんだと思う。

そんなかっこいいヒーローだからこそ、私は貴方達の役に立ちたくて、守りたくて、一部になりたくてこの仕事を選んだ。

私が選んだその選択も、道も、運命も。
けして偶然なんかじゃ、ない。






「悪ィ、遅くなっちまった。」

轟音と共に耳元で声が聞こえた。閉じられた暗い視界の中で、片耳がある人物の声を捉える。目を開けて存在を確認するより先に強い力で腕を引かれて伏した身体が地面から離れる、強ばって動かない私の身体をその人は軽々と抱えあげた。


「もう、大丈夫だ。」

私がずっと待っていた人の声で、そしてずっと待っていた言葉をようやく耳にする

「轟、くん……!!」

いざようやく彼の姿を目にして、途端に張り詰めていた糸が切れた。溢れ出す涙が頬を伝って落ちていく。轟くんは「掴まってろ」と私に示し、次いで左の腕から紅炎を噴出した。

間近で見るその力強いばかりの美しい蒼紅を、私はきっと生涯忘れることは出来ないだろう。

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