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※直接ではないですが事後表現多数出てきます



「…………悪い。」

今までの付き合いの中で見たこともないような、まさに顔面蒼白といった言葉の良く似合う顔だと思った。

お互いベッドの上で、素っ裸。この部分だけを切り取れば如何にも一夜の過ちでも犯したんだろうと推測できるほどの要素が、そこかしこに散りばめられている。方や顔面蒼白で女を見つめ、「おまえと、」なんて言葉を濁しつつ核心を突こうとしては、口に出せずに押し黙る男。方や昨晩の全ての記憶を持ったまま、目覚める直前まで男の腕の中で抱いていたはずの淡い期待をこれでもかと打ち砕かれて絶望している女。同じ空間に、これほどまでのドラマが詰め込めるのだから人生とは不思議なものだ。目の前にはあからさまに不本意だったと言わんばかりの顔で私を見つめる焦凍の姿があって、私は、はたしてそれを、今どんな目で見つめているのだろうか。


「おまえに、その……酷ぇこととか、してねぇよな?」

これでもかと顔面を青く染めた焦凍が恐る恐るといった雰囲気で呟く。彼にしては珍しく、歯切れの悪い煮え切らない声だった。

回らない頭で昨晩の記憶を辿る。あいにく無体を働かれた記憶はない。確かにまるで何かそういう個性にでも掛かってるんじゃないかと思うほどに激しい行為ではあったが。そういった意味では無体と言い表してもあながち間違いじゃないのかもしれない。しかし、例えどれほど乱暴にされたとしても、彼に抱かれることを少なからず夢に見ていた私からすれば、焦凍に昨晩の記憶が無いという事実は到底受け入れられるものではなかった。

最早悲しみを通り越して笑えてくる。ここまで見事なぬか喜びもそうそう見れないだろう。片思いを拗らせに拗らせた末、遂に私にも報われる時が来たのだと確かにそう思っていたんだ、今朝までは。……あれだけ待ち望んだ可能性を私は一体どこに落としてしまったのか。

初恋は実らないとはよく言ったもので。まあ起きてしまったことを悔やんだところで、焦凍のあの表情からして事態はもうどうにもならないということは目に見えている。だからあとはもう私が諦めればそれで終わりに出来るのだが、生憎現実を受け入れられないと足掻き続けるままならない方の私が、先程から私自身の制御を振り切って暴れ回っていた。







慣れ親しんだ街を離れてからは、早いもので一週間。新たに私が新天地として選んだこの場所は、前に居た街よりもよっぽど静かで平和である。今日も特に何も起きなかったな、とごちながら夜の街路を歩く。借りたばかりのウィークリーマンションも、もう時期曲がり角の先に姿を現すだろう。


知り合いも誰もいない都内から遠く離れた地方の田舎町は、今の私にとってまるでオアシスのようだ。もういっそ、ずっとここで良いかなんて捨て鉢な考えが頭をよぎる。彼の言葉を半ば遮るようにして逃げ出した私は今、元いた地域から別の地域へと出向していた。姿を消すように出向を決めたのは過ちを犯したその日の翌日のことだ。



酒の勢いで、焦凍と身体を重ねた。焦凍と私は所謂同期という仲で、それ以上でもそれ以下でもないどこにでもいるような健全な男女だった。……実際のところ、私の方は残念ながら彼に淡い想いを抱いてしまっていたので、100%健全な関係という訳でもないのだが。

どうにかなりたい一心で酒に身を任せ、彼と何やかんやの関係を狙ってしまったのは認める。なんならそのまま忘れ去られてもいいから、思い出が欲しいと願ったことも。とはいえ、実際行動に移してみたらあれよあれよとベッドに押し倒されるわ、私の名前を幾度も呼んでくるわ。極めつけは情事中に「すきだ、愛してる」の台詞までいただいちゃう始末だったから、要は勘違いしてしまうのも無理ないよねってことを私は言いたい訳なのだ。

当時大層酔っていたらしい焦凍は、目覚めるなりまさに顔面蒼白といった雰囲気で弁明を始めた。今にも吐きそうなくらい二日酔い全開の癖して、それでも私に何かしでかしていないことを確認しようと兎に角必死だった。そのあまりの必死さに、“じゃあ、昨日のあれは何だったの“とそう思わず口にした瞬間焦凍が「あれって、」と呟き、同時に自身が盛大に口を滑らせたことに気付く。そこからは私も必死で、なんでもいいから焦凍の前から消えたい一心のまま気付けばキャミソール一枚にコートを羽織っただけの格好で外に飛び出していた。

そんな人生最悪の日から、今日に至るまでは少しでも気を紛らわせようと仕事に勤しむ毎日で。前いた地区は今いる場所よりも都内に近かった為それなりに事件も多く、出向する前は暇になるかもなぁなんて考えていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。むしろ常駐ヒーローが少ない分手が回らないことが増えたのだ。

忙しすぎるくらいが今の私にはちょうどいい。そうして新天地で焦凍のことを視界に入れなければいつかはこの感情も消えるだろう。だから、今だけは。そう思いながら、日々を無駄に浪費して、そしてやがては何もかもが無かったことになるだろうと、そう思っていたのに。


「は?」
「………………、なまえ?」

深夜。マンションの駐車場を通り抜け、新たな住処へと戻っていた時のこと。ふとスマートフォンから視線を持ち上げ開けた空間のその先を眺めた拍子に、見慣れた人物がいたような気がして思わず声を漏らした。

今一番会いたくない件の紅白頭が、心無しか窶れた表情を浮かべてしゃがみこんでいる。ちょうどマンションに至る通路を遮るような形で、かの人物がそこに居た。

漏らした声に気付いたのか、焦凍が瞬く間に表情を晴らせながらこちらを見つめる。そのまま立ち上がろうと彼が膝をついたのが遠目からでも分かった。

「あ、おい!」

そんな馬鹿な、何故そこに。
刹那、私の身体はまるで弾かれたかのように動く。彼がこちらを見つけた瞬間に見せた表情の意味は、私には分からない。けれど世の中には分からないままにしておいた方がいいことが沢山あって、これは多分知らなくても良い事象のはずだ。

背後から「なまえ……!」と切なげに名を呼ぶ声がする。そんな声で呼ばれても立ち止まるつもりは毛頭ないのだが、何故か焦凍の声が心臓を揺さぶって途端に息が苦しくなる。はたして彼は今、どんな顔をして私のことを追っているんだろう。

この際なんで来たのとか、どうやって見つけたのとかは後で考えることにしよう。そうでもしなきゃ今すぐにでも追いつかれてしまいそうで、それがどうしようもなく怖い。

「いや……無理無理無理無理、無理!」
「待てって……っおい!」

待てと言われて待つような人間ならば、今頃こんな状況なんて生まれていない。先程までは少し遠くからその声が聞こえていたはずなのに気付けばすぐ後ろから声が聞こえた。それはすなわち、もう時期焦凍が私に追いつくということを意味している。

それは、それだけはまずい。

必死の思いでマンションのエントランスまで駆け込む。仕事終わり、疲労困憊の身体に突然の全力疾走は正直言って大分きつい。けど今は走らなければ。更に酷い事態に陥ることが目に見えているのなら尚更だ。
生憎この時の私は焦凍がたどり着けないところまで行ったとして、その先のことを考える余裕なんてものは全くなく、あと数メートルも走れば逃げ切れるなんてそんなことを考えていた。

不意にオートロックの扉を閉じようとしたその腕を勢いよく引いたのは、紛れもない彼の手で。その時私の口から悲鳴が漏れる。次いで焦凍の息遣いが耳元で響いた。抱き締められていると気づくのにさほど時間はかからず、やがて後悔だけが押し寄せてくる。
どうして、なんで、こんな。

最早逃げきれないと察した私は立ち止まり、されるがまま腕の中に収まった。焦凍は私を抱き締める腕に力を込めながらも途切れ途切れの呼吸を整えている。

「やっと……つかまえた」

吐息混じりに呟かれた言葉はやけに艶めいていて、あの日の出来事を私に思い出させた。苦し紛れに身を捩り抵抗を試みたものの、“やっとつかまえた“という言葉の通りに逃がすつもりはないらしく、より強い力で腕の中に閉じ込められる。つかまえる というよりは、縋る という方が当てはまるような雰囲気だった。しかし当の本人がそれに気付いている様子は無く。

「なあ、話だけでも聞いてくれねえか。」
「…………なんで」
「頼む。」

後ろから抱き寄せられている所為で焦凍の顔は伺えない。けれどもその声色からして、少なくとも私をからかうつもりはないように見えた。
ぎゅう、と込められる力。そして相変わらず近過ぎる距離と鼻をかすめる香り。あの日全て無くしたと思ったものが何故かまだそこにある。

ほらやっぱり。縋る の方が、よっぽど。





ーーーーーーーーーー

「で、何?話って。」

場所は変わり、私の新居。焦凍に半ば無理やり押し切られる形で中に招き入れたまでは良かったのだが、想像よりも思ったより冷たい声が出てしまって驚く。
焦凍は部屋に入るなり「いつからここに居るんだ?」と口にした。ここがウィークリーマンションであることに気付き疑問を抱いたのかもしれない。

「先週からだよ。」
「……ホテルに泊まった次の日か。」
「……………。」
「俺の所為、だよな。」

ここまで来てしまえば、どう足掻いても聞かれることだと自分でも覚悟は決めていたはずだった。けれどいざ本題に突っ込まれた瞬間、途端に返す言葉を失う。目の前で不安げに揺れる眼差しが、私の方へと真っ直ぐ注がれている。

「ごめん。」
「ごめんって、何が……」

ごめん の後に続く言葉が望んだ結果を生んだことは一度もない。聞かなきゃ良かったことも知らない方が幸せなことも、世の中にはこんなにも溢れているのに。

ふと焦凍が「一つ確認してもいいか?」と呟いた。これ以上聞いてもどうせまたどん底へ叩き落とされることが分かりきっていた私は無言で頭を横に振る。

「もう無かったことにしようよ。」
「……悪い、それは出来ねぇ。」
「どうして」

こんな事態になってからはもうずっと焦凍の思考が読めない。振り回すのも大概にしろ、言葉にはせずともきっと私の表情で彼は気づいてくれる。そのはずだと信じていたのに。しかし帰ってきたのはやっぱり伺うような眼差しと、縋るように触れた手のひらで。

私より少し冷たい手を拒むように窘める。焦凍はそれでも退かずに私の手を握る。再び唇から漏れるどうして、の一言が焦凍に届いた手応えはない。

「勘違いされたまま、おまえと居られなくなんのは嫌だ。」
「勘違いなんて……!」

だって、あの日を無かったことにしたがったのは焦凍の方だ。それを今更勘違いなんて、そんなはずないだろう。
極力目を合わせないようにしていたつもりが、勘違いなどと評されたことで思わず焦凍の方をガッツリ向いてしまった。いつ見ても透き通っている淡い目が、私の方を見ている。

「し、てな……い。」
「なまえ」
「ぅ、」

何も言っていないのに、ただ私の名前を呼んだだけなのに、その瞬間の焦凍の目は酷く雄弁だった。
そういえば話を聞いて欲しいと先程言っていたけれど、それは彼にとってこの気まずい関係を繋ぎ止めてでも必要としていることなのだろうか。だから、こんなにも真っ直ぐな目で私を見つめるの?

「さっき、一つ確認してもいいか?って聞いたよな。」
「…………うん。」
「おまえは聞く気ねぇかもしれねぇけど言わせてくれ。」
「…………やだ」
「なまえ、」
「や、だ……っ!」

何となくこれを聞いてはいけない、と直感めいたものが走る。聞いてしまえば最後、なんと言うか取り返しのつかない事態になる気がした。咄嗟に耳を塞ぎ目を瞑る。焦凍が僅かに近寄り私の耳に唇を寄せる気配がする。嫌だ、聞きたくない。けど、それでも届いてしまった一言は。

「…………は?」

ダメ押しと言わんばかりに今一度好きだ、と囁かれる。その顔はやっぱり何処までも真剣そのものだ。

今、好きだって言った?焦凍が?私のことを?
振り返ってみてもなんで?しか言葉が浮かんでこない。だって、如何にも不本意でしたみたいな顔して事実確認をしてきたのはそっちじゃないか!

「意味分かんなすぎる……!なんで、今……っ、」
「今じゃなきゃ二度と聞いてもらえないだろ。」

だからって、こんなこと。既に何もかもが終わった後に、こんなことを言うなんて全くもってどうかしている。いよいよ訳が分からない。この事態、一体どうしてくれるのだろう。

そんな私を尻目にさほど動揺したような素振りもなく、焦凍は落ち着き払った眼差しで、「あの日も俺はおまえに好きだって言ってたんだよな?」なんて呟く始末で。いやちょっと待って、なんて?

「なん、え、おぼ……っ」
「いや、全く覚えてねぇ。ただあの日の状況とおまえの様子を見て多分言っちまったんだろうなって考えただけだ。」
「当然のように言われても!……というかちょっと待ってこんがらがってきた。」

眉間を押さえながら備え付けのソファに腰掛ける。こんなくたびれたおじさんみたいな挙動したくなかったけれど、あまりにも焦凍の言うことが理解不能過ぎて頭痛がはじまってしまったのだから仕方ない。それもこれも全部焦凍の所為だ。

「私のこと、好きなの?」
「ああ、かなり前からだな。」
「じゃあなんで、あの日あんな不本意ですみたいな顔して何もしてないよな?って聞いてきたの。」
「だからおまえの勘違いだって言っただろ。」
「勘違い?あの顔の何が……っ、」
「分かった、聞いてくれ。全部話すから。」

気づけば私ばかりが冷静さを欠いていて、それがなんだかムカつく。ソファに座った私とわざわざ視線を合わせるように焦凍がしゃがみ口を開くけど、私の中に素直に聞く気はどうにも湧いてこないようで。

「ところで、おまえも俺と同じ気持ちだって思っていいんだよな?」
「…………返答による。」

可愛くない返事をしていることは自分でもわかっていた。でもこれだけは譲れない。好きと今更言われても、事前にあれだけ打ち砕かれているのだ。疑うくらいは許して欲しい。
焦凍がぽつりぽつりと語り始める。両手は変わらず彼の手に包まれたまま。先刻より少しだけ熱を取り戻した手のひらは最早あの日と同様私を追い詰める為の材料にしかならなくて。

黙って静かに聞いていれば、刹那焦凍はあの日の全部忘れたわけじゃねえんだと呟いて私の様子を伺うように覗き込んできた。いや、そんな顔されましても。全部忘れたわけじゃないのなら、尚更あの言葉と表情の意味は何だというのだろう。わ、訳が分からないんですが。

焦凍が続ける。

「酒の所為だとしてもおまえとそういう風になれるならそれでも良いって思ってた。だから、」

不意に彼がここまでは理解したか?と目で聞いてきた。私はそれに同じように目で答える。多分今の私は上手く顔を作れていないと思う。

「じゃあ別にあの夜は不本意ではなかったと?」
「ああ、俺にとっては願ってもないことだったしな。」
「……ソウデスカ」
「ただ、さっきも言ったけど途中までの記憶しかねぇんだ。」
「ん?……うん。」
「……やっぱこれじゃ伝わんねぇか。」

さっきまでは確かに淡々と話をしていたはずが、今度は彼が再びこちらの様子を伺うような素振りを見せた後に、突然納得した表情を浮かべる。今の態度と言葉で私に何かを伝えたかったらしい。

いや、流石に分からない。分からないって。
何度でも言うが今の焦凍の台詞だけで意図を100%汲み取れていたならば今ごろ私達はこんなことになっちゃいないのである。

肝心なことを切り出すのにしばしの助走が必要だったのか、やがて焦凍が「聞いたら多分逃げたくなるだろうけど、頼むから逃げないでくれ。」と前置きを述べた。どんな前置きだと思ったものの、とりあえず無言で頷く。次の瞬間、僅かにため息を吐いた焦凍が再び口を開きゆっくりとあの日の真実を口にし始める。


「…………あ、あー、なるほど、ね……?」
「これで分かったか?」
「なんとか。」

まあ確かにあの日焦凍は“何もしてないよな”とは聞いてこなかった気がする。“おまえに酷いことしてねぇよな”と、そう聞いていたような、気がする。だとしても、だ。あの時の彼の表情と聞き方を考えれば、誰だって悪い方向に事態を捉えてしまうのも仕方ないことだと思うのよ。

あん時はおまえが嫌がることまで無理やりしちまったんじゃないかと思って聞いた。とは先刻焦凍が語った言葉だ。起きてみたらおまえの身体すげえ跡だらけだったし、俺も俺で途中から全く記憶がねえからやらかしたんじゃねえかって不安になったんだ。と、これも同じく焦凍の言葉だった。

乾いた笑いが零れる。大どんでん返しとはまさにこのことを言うのだろう。こんなことになるくらいならそれはそれで逃げておいた方が身のためだったかも。
言葉の意味を理解してしまった瞬間から焦凍の顔を真っ直ぐ見れなくなった。挙動の全てがおかしくなる。

「これで、おまえの勘違いだって分かってくれたよな。」
「へあ、」

あさっての方向を向いていた私の頬を、長い指が掠めた。あの夜散々私を苛んだ、焦凍の指。先程までとはまた違う視線を感じて指が触れた方を向くと、そこには。

「ならさっきの返事聞いてもいいか?」
「へ、返事?」
「ああ。」

おまえも俺と同じ気持ちなんだよな。そう言って、僅かに焦凍の身体が傾く。同時に、私の身体も床に倒れる。押し倒されていることは一目瞭然。ただ一つ問題だったのは、酒の力抜きに行われるこういった行為に私の耐性が無いことだった。耳から直接脳に叩き込まれるみたいに響く彼の声はいつまでたっても上手く頭に入ってこなくて。ただ呆然と頭上の双眼を眺めるばかり。

「わ、私も、すき……なの、かもしれない。」
「……なんだ、それ」
「今出来る精一杯の返事です。」

吃りながら紡いだそれは、彼の望む100%を補完する言葉には到底なっていない。とはいえこっちの100%は出したのだから大目に見てくださいというのが私の本心だ。
焦凍がにわかに吹き出しながら分かったと呟く。さも仕方ない奴めと言いたげな眼差しで。その目が何となく癪に触った私は、目の前にあるその薄い色をした唇に噛み付いた。焦凍の目が途端に丸く、見開かれていく。へえ、そういう顔も出来るんだ、なんて他人事のように思った。

もう少ししたら私達の間に「※この後めちゃくちゃxxした」って注釈が入るかもしれないけど、まあそれも不可抗力ってことで。
この後めちゃくちゃxxした

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