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我ながら巻き込まれ体質であると自負している。何事も全くの想定外から始まるより、ある程度想定された状態で挑んだ方がダメージが少なく済んできたから、巻き込まれ体質であることを認識しておくというのは言わば私の人生におけるコツのようなものだった。だから、正直なところ今回のこともまあギリギリ妥協できる範囲内ではある。たとえ今私の目の前に立っている“私”が、私のことを「なまえ、」と呼んだとしても、だ。

そして「あ、何?」と口走った自分の声が想像より低くて驚いてしまったとしても、それら全て想定の範囲内だったのだから、人間の適応力っていうのは素晴らしいと思う。要はただの個性事故。私と焦凍くんの中身がお互い入れ替わってしまったという、ありがちな出来事なのである。

「何やってるんだ?そんなとこで。」

「………ごめん、考え事。」


私のことをなまえと呼んだ“私”が、障子戸を手馴れた様子で開き、そしてこちらを振り向いた。表情からしてその顔は、これから付き合いたての恋人を招くというような人の顔には到底見えなくて。こういう時どういう顔をしたらいいのだろう。ただ薄らと見えてきた初めて入る彼の部屋を視界の向こうに収めて考え事だと返答を返す。彼が障子戸を開けたそばから鼻を突いたい草の香り。それがなんとも言えない気持ちにさせて、ほんの少し気恥しい。

こんな状況でなければ、まだまだとてもじゃないけど来る勇気なんて出なかっただろうなあ。私が独りごちたことに、彼はきっと気付いていない。

促されるまま畳の上に腰を下ろした。





「お邪魔します。」

「ああ、何もねぇけど適当にしててくれ。」

「あ、お構いなく。」

入れ替わり事故が起きた。
とは言ったところで既にある程度理解と対策が済んだからか、私も焦凍くんもさほど取り乱すこともなく今のところ済んでいた。これに関しては正直不幸中の幸いだったと言わざるを得ない。

今回の事故は無論個性による事故だが、この効果はあと数時間ほどで切れるとのことだった。
だから早い話お風呂とかトイレとかどうしよう、と肝心なことで悩む必要がなかったのである。それに気付いた時の喜びといったら。………想像に難くないと思う。
彼も流石に風呂はマズいと思っていたようで、効果は2時間程度で切れるよと聞いた瞬間の顔が明らかに安堵していたから、流石の焦凍くんでも焦るんだな、なんて思ったのはここだけの話だ。



「そういえば、俺の部屋来るの初めてか?」

「……ん?そう、だね。そういえば。」

そう言って、焦凍くんは自身が履いているものを気にとめず座椅子に腰掛けた。弾みでスカートの中にちらりと一瞬、自身のパンツが見えてしまったような気がしたが言うだけ野暮なのでとりあえず黙っておく。

突然の問いかけ。言葉ではああいったが、実の所そういえばでも何でもなく彼の部屋にお邪魔するという意識をしまくっていたことが恥ずかしくて、私は思わず見栄を張った。対する焦凍くんはさほど気にしていないのか、「そうか」とだけ呟いてすぐスマホに視線を落としている。

沈黙は私たちにとって別に苦ではない。お互い無言でもやりたいことが出来てしまうし、喋らないことが心地よいと思うことすらある。ただ、それが全てに当てはまるとは限らないわけで。

まあ、確かに今の私はどんなに取り繕おうとも焦凍くんの姿形をしてしまっているから、意識するとかそういう次元じゃないのかもしれないけどね。



一体どれほど時間が経ったのか。特に何か会話をするということもなく下りていた沈黙の中。ふと気になって彼の方を見る。その瞬間、同じようにこちらの方へと視線を遣った彼の、見慣れた鈍色と目が合った。

瞬きがひとつ、次いでふたつと落ちる。見つめあって気付くのは、私って意外と小動物みたいな顔してるんだなあということ。度々焦凍くんから小動物みてぇ、って言われていたけどこれはそういうことなのだろうか。

たっぷり、20秒ほど見つめあった後、遂に堪えきれなくなったのか焦凍くんがふ、と唇を緩めて笑う。「……同時に見ちまったな」と私の顔で笑ったその顔は、どこまでも特段可愛い訳でもない私の顔だと言うのに、言葉やら表情やら果ては雰囲気まで全部焦凍くんだと無意識に理解できてしまうのだからすごい。

「ごめん、なんか気になって……」

「俺もだ。」

「焦凍くんも?」

「ああ」


睫毛をゆったりと下ろしてスマホを机に置く焦凍くん。肘をついて頬を掛けてから私の方へと流し目気味に微笑みを向けるその人は、やっぱり私の姿だと言うのにカッコよくて。何故こんなにもドキドキしてしまうんだろう。私ってもしかして、思ったより重症なのかもしれない。

「お前が何考えてんのか、気になった。」

「そんなに顔に出てた?」

「まあな。やっぱり俺の顔してても中身はなまえだなって。」

「………直球で言われると恥ずかしいんだけど。」


私が気になっていたのと同じように、焦凍くんも私のことが気になっていたようで。さらっと言いのけられたら、私はもうどんな顔をしたらいいのか途端に分からなくなってしまうから、こういう二人きりの場所でそういうことを言うのはやめて欲しいと何度も願った、のに。

せめて顔が赤くならないようにと俯いた。刹那、彼の特徴的な柔髪がカーテンのように視界を覆う。相変わらず綺麗だなぁ、なんて。今なら触っても許されるだろうか。いや、流石にやめておこう。こんなところ見られたらどんな顔で見つめられるか分かったもんじゃないし。

僅かに俯いた私を置き去りにして、再びの沈黙。あと数時間で切れるとはいえ、やっぱり早く元に戻らないかなぁなんて思っていた矢先、不意に焦凍くんが「……あ、」と声を上げる。何事か、と真っ直ぐこちらを向いた顔を見つめ返すと彼はおもむろに立ち上がり私の顔に手を伸ばしてくる。

「な、に……どうしたの」

「なまえ、」


名前を呼ぶその声すらまるで幻聴さながらに焦凍くんの声で再生されるのだから、もうどうしようもない。肩に細い指が触れて、そのまま少しだけ頭を引き寄せられる。雰囲気は最早キスする直前の雰囲気と言っても過言でなかった。
いや、入れ替わってるのにキスなんて嘘でしょ、急にどうしたの。と、思ったところで普段の私からは到底かけ離れた艶を纏う焦凍くんに向かってそんなことを問い掛けられるほどの余裕なんてないのである。

「ちょ、ちょっと……」

「じっとしてろ。」

自分が今、誰の体になっているのかというのはこの際忘れた。中身が変わらない以上は取り繕おうにも限界があるし。恐らく現在、私は焦凍くんの顔でとんでもない間抜け面を晒してしまっているのだろう。

よくよく見知った顔が目の前まで迫ってくる。頬に触れた柔らかな指が、本来は自分のものであること。何もかもが頭から飛んでしまった。焦凍くんはやっぱりすごい。そして私は、やっぱり彼にどこまでも惚れ込んでしまっているらしい。

半開きの唇から目が離せなくなって。意を決して私は目を瞑った。じっとしてろ、と言われてからは数秒後の出来事だった。いつ来るか分からない刺激に身構える。時計の秒針だけがやけにうるさい。

やがて空間にぽつりと落ちる、「お、取れた。」という一言。そして遠慮がちに訪れた瞼に触れる指の感触にわけも分からぬまま困惑していると、その時焦凍くんが「ほら」と呟いた。

え、何?どういうこと?

「取れた、……もう目開けていいぞ。」

「………え?」

「お前の指、思った以上に細いんだな。」


目の前には焦凍くん、というか私、というか。とにかく彼が手を伸ばし、こちらを覗き込んでいる。丸い目が見つめるその指先には、ものすごい長さの睫毛が一本摘まれており、先程まで私の顔に付いていたものであろうことを想像させた。

「……睫毛?」

「ああ、付いてた。」

「……………ありがとう、ございます。」


どうやら、恥ずかしい勘違いをしていたらしい。彼は私にキスを迫ってきたのでも何でもなく、睫毛を取ってくれたに過ぎなかったみたいで。いや、冷静に考えれば分かる事だったのに、どうして思い上がってしまったのだろう。

こんなことを考えていたなんて、絶対バレたくなさ過ぎる……!ついでに穴があったら入りたい。赤面しそうな顔を必死でごまかせただけ、まあ私にしては良くやった方なんじゃないかな。もう手遅れみたいだけど。

一瞬、ほんの一瞬だけれども、目が泳いでしまった私を焦凍くんが見逃すはずもなく。不意に「ふは、」と男の子らしい控えめな笑い声が響いた。

「キスされるとか思ったんだろ?」

「いや、そんなことーー、」

「嘘つけ、顔に書いてあるぞ。」

言うなり焦凍くんは私の頬に指を這わせて満足気に唇を結ぶ。悪戯っ子みたいだなぁ、なんて。多分その感性はあながち間違っていないと思うんだ。二人きりだと彼は存外私に甘いから。

「正直こんな状況じゃなけりゃ多分してた。」


でも流石に自分の顔にすんのは無理だ。そう言って彼はまた笑った。やっぱり悪戯っ子みたいだ。最早言わなくても私の考えなんてお見通しだろうに。それをわざわざ言葉にしてこちらの反応を楽しんでいるあたり、本当に敵わない。

「続きは元に戻ってからだな。」

「も、言わなくていいって。」


中身が入れ替わったところで、そう簡単に私たちの本質は変わらないらしい。もう、本当勘弁して。焦凍くんの顔をしながらそんなことを思ったとしても中身が私である以上、願いが受け入れられることは金輪際無いんだろう。

「お前の身体が細すぎて、壊しちまいそうで怖ぇし。」

悪びれない様子の彼もまた、変わらない。焦凍くんは手のひらを見つめて暫し黙る。やがて「早く戻りてぇな。」とため息混じりに吐き出して、スカートを履いていることなど気にも留めず再び椅子に腰を下ろした。

もう、いい。分かった、分かったから……!心からの叫びが果たして君に届いたのか否か。それは誰にも分からない。ただまるで様子を伺うように向けられたその視線だけが、全てを物語っているような、そんな気がした。

今宵、全部駄目にして

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