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昔から桜は好きだった。記憶の限りでは我が家は春になると近所の神社でお花見をするという、毎年恒例の行事をおこなっていたように思う。それこそ近くに住む同い年くらいの子達と神社の境内で鬼ごっこをして、よく遊んだものだった。だから桜を見ると、あの頃は楽しかった、なんて感想が出るくらい随分自分も老いてしまったなと虚しい気分になるわけで。

と、まあ挙げたように私は桜が好きなのである。特に神社に生えている樹齢何百年を越えると噂の大きな一本桜は私にとっても特別な存在だった。そして、その事実が今起きているこの異様な状況に大きく関わっているであろうことを、私は無意識のうちに理解していた。




今日も昨日と変わらない平凡な毎日の一遍に過ぎないような日だったと思う。普通に仕事を片付けて、くたびれてヘロヘロのまま帰路について。行きと同じ道のりをなぞるようにして帰る。昨日をコピーして今日にペーストしても差異なんてほとんどないような、そんな一日だった。確かに私が記憶している限りでは。

だから予定では、今頃自宅に帰り、お風呂に入って適当にご飯食べてドラマ流し見しながら眠りについていてもおかしくなかったはず、なんだけども。


それをどう間違えればこんなことになるのだろうか。思わず現実逃避でもかましたくなる気分だが、障子の隙間にあまりにも満開に咲いた時期違いの桜の群生が視界に飛び込んできてしまい、そんな気すら失せてしまった。


今現在、私は日本風家屋の一室に居る。無論自分の家ではない、全く知らない場所である。

時刻は恐らく夜で、夜空は藤紫色に染まり大きな月が出ていた。夜とはいっても先程まで布団に寝かされていたからか眠気はない。こんな状況下で二度寝しようなんて思うはずもないけれど。

寝かされていた布団は何故か分からないがふかふかで、他に誰かがここに住んでいることを予感させる。というより、誰が住んでいるかについて実はもう既に検討がついているのだが。

衣服も件の人物が着せ替えたのか、何故かくたびれたスーツから着心地の良い和装になっている。裸……見られたかな、と少し不安になったがそんなことも言っていられない。


不意に月明かりの差し込む廊下の方から足音が響く。静かに、しかし着実に此方へと向かってくるその主は、やがて部屋の前で立ち止まった瞬間嬉しそうな声を上げて私の元へと歩み寄ってきた。

ふわりと桜の香りが鼻を突く。薄い桃色の着流しを翻したその人は変わらずこの世のものとは思えないほど美しくて。

ああ、やっぱり彼なんだ。などと無意識に自覚してしまった私は、もう既にどこかおかしくなっているのかもしれない。



「起きたのか、良かった。」

おはよう、と囁く声。その声にふとなんとも言えない懐かしさを覚えて押し黙る。
綺麗に微笑む眦が月明かりに照らされ、影を鮮明に落とすその中に、底知れぬ恐怖を感じた。相容れない、とでも形容すれば正しいのだろうか。交わるはずのないものが私の中にくい込んでいるような。そんな感覚が、この人からはしていた。

一向に動けない私の様子を見て立ち止まる気配もなく、目の前の青年が歩いてくる。お互いの距離が残り1メートルも無くなりかけたところで、彼は私の頬を一撫でしてから「気分はどうだ?」と問い掛けた。


「大丈夫、だと思います……」

「そうか……無理やり連れて来ちまったからまだ安定しねぇと思ったが、その様子なら大丈夫そうだな。」

「………。」

「最初は慣れるまで大変だろうけど俺もついてる。だからお前は何も心配しなくていい。」


これからはずっと一緒だ、そう言って私の身体を優しく引き寄せた彼の微笑みも、仕草も、言葉の意味さえも。当の私は何も知らないというのに。それでも何故か縋るように絡まされた指と指は恋人のように離れることを寂しがって解けない。聞きたいことが山ほどあるにもかかわらず、その一つたりとも口に出すことは出来なかった。




記憶が確かならば私は一度彼に会っている。去年の春頃、丁度同じ場所で。その時のことを思い出したのはつい先程、帰路の途中で凄まじい眠気に襲われた時のことだ。

覚えていたのは実際、「拐われる覚悟が出来たら迎えに行く」という言葉のみ。
あ、そうだ。そういえばそんなことがあったような、と気付いた時にはもう遅く、不自然に襲ってきた耐えきれない睡魔に落ちていく最中、どこか懐かしい香りに抱き留められながら私は意識を手放していた。

再び目が覚めて、見事に全く知らない場所に寝かされていた時の焦りようといったら……。気を失う前に聞こえた声が、あの時の主と同じ声色をしていたというのも多分関係していると思う。まるで同じ柔らかな声で「やっと見つけた」なんて囁かれれば、誰だって生きた心地がしないだろうし。



声の主は相変わらず優しげな声で私の名前を呟いては、飽きもせず肩口に顔を埋めていた。家族以外の異性に抱き締められるという経験なんて生まれて初めてで、どんな反応をすればいいのか正直分からない。

「あの、」と控えめに問い掛けるが当の本人は「ん?」とさも愛おしげに眉根を膨らませて私の顔を覗き込んでくる。綺麗過ぎる相好にお似合いの少し低い艶やかな声が耳のすぐ側で聞こえてしまって、思わずたじろいだ。


前にも聞いた通り、この人は桜の精で現状私を神隠ししようとしているらしい。理由はよく分からない、けど前回の口ぶりといい今の状況からしても何らかの因果が私と彼の間にあるのは確かだった。

人智を超えた存在に気に入られてしまった人間が果たしてどうなるのか、答えはまさしく神のみぞ知るんだろう。一見話が通じそうな気がしないでもないけれど、如何せん“拐われる覚悟が出来たら迎えに行く”と発するような人だから、簡単に帰してくれるようにも見えない。直接的な逃げの行動に移せずいるのもそれが原因だ。

まあそっと障子から外を眺めたとして、外に見える広大な桜並木が私の逃走を許すとも思えなかったのだが。


「考え事か?」

「え、」

その時、しなやかな指が私の顎を掬った。見ればまだ余裕がありありと伺える長いまつ毛のその奥に、あの妖しげな光が灯っていた。ほんのりと唇を緩ませて、彼はそのままゆったりとした動作で私の身体を布団の海に倒していく。押し倒されているのは一目瞭然だが、それでも有無を言わせない瞳に魅入られたまま動けない。

そんな折不意に彼が薄い唇を開く。


「まだ、あっちに未練があるんだな……」

「……っ、」

「帰りてぇって顔してるぞ。」


顎から、輪郭を伝って頬をなぞる指。やっぱり愛おしい、という言葉がぴったりなくらいこの人は私に柔らかく触れてくる。何が彼をそこまでさせるのだろう。帰りたい、という感情を悟られているにも関わらず目の前の顔は全く変わらず震え上がるほど美しいままで。
頬を滑った滑らかな指が次いで喉元へと下ろされる。ぞくり、粟立つ背中。見下ろしてくる瞳の奥にただならぬ仄暗さを感じて思わず喉が鳴った。


「なぁ、」

「は、い。」

「俺じゃ駄目か?」

「………えっと、その」


喉にそのまま指を這わせられる。それが上下に往復する度にえも言われぬ圧迫感がせり上げてきた。誰かに慈しむように触れられることも、こんな風に非現実な愛情を向けられることも初めてだ。初めてだからこそ厄介で、
どうすればいいのか分からない。どうすれば、彼は諦めてくれるのだろう。考えが纏まらないまま困惑気味にその目を見つめ返す。

俺なら、お前の望むもの全て与えてやれる。

そう静かに呟いた唇が不意に額へと落ちてきた。慌てて顔を逸らそうとしても元々逃げ場なんてほとんど無かったようなものだから、結局避けることなんか出来なくて。

額に落ちた熱が伝播するように広がっていく。触れた彼の唇はどちらかといえば少しだけ冷たかったのに、対して顔は驚くほどに熱い。


「……って、言ったところでお前は帰りてぇって言うんだろうな。」

「っ、」


しかしそのまま危うく流されそうになっていた自分の弱さにどうしようもなく辟易した。刹那彼が自嘲気味にふ、と薄く笑う。何も言い返せない自分に気付いて一層うんざりした。

本心を見抜かれるほどに、私はきっと帰りたいと思っているのだ。それが恐らく全面的に出てしまったのだろう。彼のことだ、既にそれには気付いているはずで。

帰りたい、当たり前だろう。

今この瞬間、一生を、いや下手したら一生じゃ済まないような遠い年月を彼の元で過ごす決意など出来るはずもない。それに私はくだらなくて普遍的で、かけがえのないあの毎日が好きだったのだ。

だから、断らなきゃ。



「私、まだーー、」



帰りたいと正直に伝えられればどれほど楽だっただろう。いっそ清々しいほどに未練がある、ここには居られないとはっきり言えていれば、などと後悔した。結局全て後の祭りなのだと、この時の私はまだ知らなかったから。

不意に吐き出すはずの言葉が止まる。それまで優しかった彼の手が乱暴に私の顎を掴んだ。直ぐに有無を言わさない暗い瞳が降りてきて、瞬く間に唇を重ねられる。抵抗する暇もないまま冷たい舌が割り込んできて、気が付けば何も考えられなくなっていた。

「ふ、ぁ…っ、ん…ぅ!」

「は、……っ」

酷く艶かしい音。聞くに耐えない音と共に唾液が絡まされ、良いように舌を引きずり出される。視界が白く染まっていき、最早目の前の顔も上手く見えない。
兎に角夢中で身体を押し返そうとしてもビクともしてくれなくて。与えられる苦しさと目眩に生理的な涙が溢れた。

こわい、いやだ、助けて。縋れるものなど何処にもありはしないのに。それでもそんなことばかりが脳裏に浮かんでいく。

「いや、……ぁっ、や、め!」



ずるりと音を立ててようやく舌が引き抜かれた頃にはまさに放心状態。は、は、と肩で息を繰り返す私の唇をすらりと伸びた指が拭った。目の前にある顔は涙で滲んで良く見えないが、とりあえず笑っているんだろう。

どちらのものかも分からない唾液に濡れた艶やかな唇を舐めとる舌があまりにも淫靡で。

ああ、酷く、目眩がする。


「お前のことだから、俺を傷付けないよう色々考えてたんだろうな。」

「な……にを、」

「でも駄目だ、帰さねぇ。」


楽しそうな声だった。多分彼にとって今が最も待ち望んだ瞬間だったから、かもしれない。
大きな手が目元を覆い、途端に凄まじい眠気が襲ってくる。幾度か経験したことがあったから、この眠気がただの生理現象でないことはとうに理解していた。


「待っ、」

「ずっと考えてたんだ。どうしたらお前を永遠に傍に置いておけるのかって。」

耳元で楽しそうな声が響く。意識はもう途切れる寸前だったが今眠ってしまえば今度こそもう戻れないだろう。分かっているけど抗えない。ここに拐われた時から決まっていた結末だったのかも、そう思い込むことにして諦めてしまおうかな。

目覚めた時全てが夢だったらいいのに、なんて下らないことを考えながら前回同様彼に身を委ねる。最後に見たのは深い深い夜の帳が降りたような赤い瞳。

「あの時拐っておけば良かったな。」

鈍く光るその中には、確かに私に対する感情があった。ただ違うのは、それが歪んでいるか否かということ。

響く声は甘い。愛おしげに抱かれた身体が少しずつ現実味を失っていく。こうして私は世界から消されていくのだろうと、心ではやけに冷静だった。


星欠けの夜に堕ちる

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