# # #


昔から桜は好きだった。記憶の限りでは我が家は春になると近所の神社でお花見をするという、毎年恒例の行事をおこなっていたように思う。それこそ近くに住む同い年くらいの子達と神社の境内で鬼ごっこをして、よく遊んだものだった。だから桜を見ると、あの頃は楽しかった、なんて感想が出るくらい随分自分も老いてしまったなと虚しい気分になるわけで。

と、まあ挙げたように私は桜が好きなのである。特に神社に生えている樹齢何百年を越えると噂の大きな一本桜は私にとっても特別な存在だった。そして、その事実が今起きているこの異様な状況に大きく関わっているであろうことを、私は無意識のうちに理解していた。




今日も昨日と変わらない平凡な毎日の一遍に過ぎないような日だったと思う。普通に仕事を片付けて、くたびれてヘロヘロのまま帰路について。行きと同じ道のりをなぞるようにして帰る。昨日をコピーして今日にペーストしても差異なんてほとんどないような、そんな一日だった。確かに私が記憶している限りでは。

だから予定では、今頃自宅に帰り、お風呂に入って適当にご飯食べてドラマ流し見しながら眠りについていてもおかしくなかったはず、なんだけども。


それをどう間違えればこんなことになるのだろうか。思わず現実逃避でもかましたくなる気分だが、障子の隙間にあまりにも満開に咲いた時期違いの桜の群生が視界に飛び込んできてしまい、そんな気すら失せてしまった。


今現在、私は日本風家屋の一室に居る。無論自分の家ではない、全く知らない場所である。

時刻は恐らく夜で、夜空は藤紫色に染まり大きな月が出ていた。夜とはいっても先程まで布団に寝かされていたからか眠気はない。こんな状況下で二度寝しようなんて思うはずもないけれど。

寝かされていた布団は何故か分からないがふかふかで、他に誰かがここに住んでいることを予感させる。というより、誰が住んでいるかについて実はもう既に検討がついているのだが。

衣服も件の人物が着せ替えたのか、くたびれたスーツから着心地の良い和装になっている。裸……見られたかな、と少し不安になったがそんなことも言っていられない。


不意に月明かりの差し込む廊下の方から足音が響く。静かに、しかし着実に此方へと向かってくるその主は、やがて部屋の前で立ち止まった瞬間嬉しそうな声を上げて私の元へと歩み寄ってきた。

ふわりと桜の香りが鼻を突く。薄い桃色の着流しを翻したその人は変わらずこの世のものとは思えないほど美しくて。

ああ、やっぱり彼なんだ。などと無意識に自覚してしまった私は、もう既にどこかおかしくなっているのかもしれない。



「起きたのか、良かった。」

おはよう、と囁く声。その声にふとなんとも言えない懐かしさを覚えて押し黙る。
綺麗に微笑む眦が月明かりに照らされ、影を鮮明に落とすその中に、底知れぬ恐怖を感じた。相容れない、とでも形容すれば正しいのだろうか。交わるはずのないものが私の中にくい込んでいるような。そんな感覚が、この人からはしていた。

一向に動けない私の様子を見て立ち止まる気配もなく、目の前の青年が歩いてくる。お互いの距離が残り1メートルも無くなりかけたところで、彼は私の頬を一撫でしてから「気分はどうだ?」と問い掛けた。


「大丈夫、だと思います……」

「そうか……無理やり連れて来ちまったからまだ安定しねぇと思ったが、その様子なら大丈夫そうだな。」

「………。」

「最初は慣れるまで大変だろうけど俺もついてる。だからお前は何も心配しなくていい。」


これからはずっと一緒だ、そう言って私の身体を優しく引き寄せた彼の微笑みも、仕草も、言葉の意味さえも。当の私は何も知らないというのに。それでも何故か縋るように絡まされた指と指は恋人のように離れることを寂しがって解けない。聞きたいことが山ほどあるにもかかわらず、その一つたりとも口に出すことは出来なかった。




記憶が確かならば私は一度彼に会っている。去年の春頃、丁度同じ場所で。その時のことを思い出したのはつい先程、帰路の途中で凄まじい眠気に襲われた時のことだ。

覚えていたのは実際、「拐われる覚悟が出来たら迎えに行く」という言葉のみ。
あ、そうだ。そういえばそんなことがあったような、と気付いた時にはもう遅く、不自然に襲ってきた耐えきれない睡魔に落ちていく最中、どこか懐かしい香りに抱き留められながら私は意識を手放していた。

再び目が覚めて、見事に全く知らない場所に寝かされていた時の焦りようといったら……。気を失う前に聞こえた声が、あの時の主と同じ声色をしていたというのも多分関係していると思う。まるで同じ柔らかな声で「やっと見つけた」なんて囁かれれば、誰だって生きた心地がしないだろうし。



声の主は相変わらず優しげな声で私の名前を呟いては、飽きもせず肩口に顔を埋めていた。家族以外の異性に抱き締められるという経験なんて生まれて初めてで、どんな反応をすればいいのか正直分からない。

「あの、」と控えめに問い掛けるが当の本人は「ん?」とさも愛おしげに眉根を膨らませて私の顔を覗き込んでくる。綺麗過ぎる相好にお似合いの少し低い艶やかな声が耳のすぐ側で聞こえてしまって、思わずたじろいだ。


前にも聞いた通り、この人は桜の精で現状私を神隠ししようとしているらしい。理由はよく分からない、けど前回の口ぶりといい今の状況からしても何らかの因果が私と彼の間にあるのは確かだった。

人智を超えた存在に気に入られてしまった人間が果たしてどうなるのか、答えはまさしく神のみぞ知るんだろう。一見話が通じそうな気がしないでもないけれど、如何せん“拐われる覚悟が出来たら迎えに行く”と発するような人だから、簡単に帰してくれるようにも見えない。直接的な逃げの行動に移せずいるのもそれが原因だ。

まあそっと障子から外を眺めたとして、外に見える広大な桜並木が私の逃走を許すとも思えなかったのだが。


「考え事か?」

「え、」

その時、しなやかな指が私の顎を掬った。見ればまだ余裕がありありと伺える長いまつ毛のその奥に、あの妖しげな光が灯っていた。ほんのりと唇を緩ませて、彼はそのままゆったりとした動作で私の身体を布団の海に倒していく。押し倒されているのは一目瞭然だが、それでも有無を言わせない瞳に魅入られたまま動けない。

そんな折不意に彼が薄い唇を開く。


「まだ、あっちに未練があるんだな……」

「……っ、」

「帰りてぇって顔してるぞ。」


顎から、輪郭を伝って頬をなぞる指。やっぱり愛おしい、という言葉がぴったりなくらいこの人は私に柔らかく触れてくる。何が彼をそこまでさせるのだろう。帰りたい、という感情を悟られているにも関わらず目の前の顔は全く変わらず震え上がるほど美しいままだ。


「なぁ、」

「……は、い?」

「俺じゃ駄目か?」

俺ならお前の望むもの全て与えてやれる。そう紡がれた言葉は、彼からしてみれば本当のことなんだろう。俗世のしがらみを抜きにすれば数日前に欲しいと思ったスカートだって、大型連休だってなんだって、求めればきっと叶えてくれるに違いない。

だとしても。


「素敵な場所だとは、思います。」

「そうか、」

「それから、あなたもきっと私を大事にしてくれるだろうなって……」

「……当たり前だろ。」


短い応答を重ねるうち、少しだけ今までほとんど崩れなかった表情に陰りが見えた。ああ、この人もこんな顔出来るんだ、などど他人事のように感じた。やっぱりどこか大切な部分がおかしくなっていたのかもしれない。

恋人繋ぎになったまま、そのことすら忘れかけていた右手の指先にふと力が込められる。尚も切なげに細められた瞼から注がれる視線は変わらず少しだけ痛い。
いたたまれなくなって目を逸らした途端、彼の指先が胸元の合わせの部分に下ろされた。


「ずっと考えてたんだ。」

「何を……ですか。」

「どうしたらお前を永遠に傍に置いておけるのか、って。」

ヒュ、と短く吐息が漏れる。
長い指が鎖骨へと伸びて、そして次は喉へ。



「やっぱり上手く行かねぇもんだな。」

「……まあ、人間ですから。」

「ああ。」

最後は唇に指を落とされたまま。彼は自嘲気味にそうだな、と笑った。相変わらず優しげな声だった。
残念だ、という風な素振りを見せてのろのろと私の上から退いていく。何故だろう、少しだけ寂しい。だとして、自分で選んだ答えなのだから、最後はきっとこうあるべきだったのだとそう思う。

ゆるやかに手を引かれて布団の上へと立ち上がる。まだ足元が覚束なかったのか一瞬ふらついてしまったが、直ぐに背中を支えてくれる暖かな温もりに気がついた。

昔からずっと、傍に居たような気がしたのはきっと間違いじゃないのだろう。名残惜しそうに私を離したその人は、それでも寂しげに微笑んでいる。


「それでも帰したくねぇって言ったら困るか?」

「えっ、えっ、……えと、困ります…、ね」

「……だろうな。」

きっと分かっているだろうに。それでも聞いてくるところだとか、返答に際し年相応らしく笑うところだとか。何となく人間らしいなぁ、なんて思いながら戸惑いつつ彼の顔を見つめ返す。くすくすと小さく笑みを零す唇が「残念だ」と呟いて私の頭を撫でた。


「あ………っ、」


刹那再び襲いくる強烈な睡魔。よろめいてしまった事に焦って傍らの袖へと手を伸ばせば、しっかりと力強い腕が支えてくれた。

ああ、私は、帰るのか。力の入らない足がくずおれて、彼に支えられながら床へとゆっくり横たえられていく間も少しの寂しさが尾を引いている。やっぱりちょっと拐ってもらえば良かったかな、なんて今更思ったって、全ては後の祭りだ。








ーーーーーーーーーーーー

目覚めた時には日が頭上まで登っていた。目が眩むほどの太陽が照りつけて、まさに夏入りというほどの日差し。

昨日は少し曇っていたから、晴れは晴れで少し鬱陶しいな、なんて愚痴を心の中で零した。

今回は前回と違って神主さんに発見されないまま桜の木の前で目覚めることが出来たので、今こうしてこそこそと帰路についている。

また神主さんに見つかったら「また貴方ですか!」と長いお叱りが飛んできそうだ。誰にも見つけてもらえなかった所為で大分埃っぽくなってしまったけどこれはこれで結果オーライかもしれない。


鳥居の真下まで歩いてきて、おもむろに私は後ろを振り返る。相変わらず大きな桜の木が緑を蒼々しく茂らせていた。きっと今も彼はどこかから私を見ているんだろうな、と直感でそう思った。


「また来ますね。」


誰に聞かれるでもない言葉。別におかしくなった訳じゃないけれど。記憶が残っている間は私だけでも彼を覚えていた方がいいんじゃないかと、そう思っての行動だ。だから誰かが聞いてくれていたとして、傍から見れば私の独り言なのだと、そう片付けてくれればそれで良かった。

ふう、一息ついて今度こそ神社を後にしようと歩み出す。とりあえず次はまた秋にでも来よう。きっと寂しがり屋な彼のことだからまた帰したくない、とか言い出しそうだけど、そしたら今度こそ拐ってもらうというのもありかもしれない。なんて、ね。


歩み出す私の背中を、不意に一陣の風が季節外れの桜の花びらを伴って押し出す。うわ、なんて間抜けな声が漏れてしまって思わず口を塞いだその時、風に混じって彼の声が聞こえたような、そんな気がした。







………Another end ??
星欠けの夜を駆ける

- ナノ -