# # #
無理は禁物だよ、とリカバリーガールが優しく微笑む。もらった薬とハリボーグミの小分け袋をカバンに入れてまだ僅かに痛む頭をひっそりと抑えた。
今日はやけに頭痛が酷かった。
普段なら持ち歩いている頭痛薬を切らしてしまったせいでリカバリーガールに無理を言って頭痛薬を貰うことになったのだが、依然続く緩やかな頭痛を思うと、やっぱりお願いして良かったなぁと頭の片隅で安堵する。
ぺこりと軽く会釈をして扉へ向かうと外は既に斜陽に照らされ丁度オレンジと紫の中間のような色に染まっていた。わぁ、綺麗……。こんなに綺麗な夕日、本当に久しぶりに見る気がする。
見惚れて立ち止まった廊下に、暗い私の影が長く、長く伸びていく。俗に言う黄昏時、あらゆるものの輪郭が水彩絵の具に水を流したみたいに朧気になる時間帯。学校終わりの放課後は、何処も彼処もほんの少しばかり異世界を内包していた。
好きな物は沢山あれど、この黄昏時に染まる見事な斜陽は、それだけで私の心を揺さぶるだけの力を充分に持っている。窓枠に張り付いてゆっくりと紫の色味が強くなっていく空を見上げていると、今だけは頭痛を忘れられるような、そんな気がするんだ。
「…………え?」
不意に廊下に伸びた影の先から、私の名前を誰かが呼ぶ。私の名前を呼んだ声はそのまま壁に反響して一瞬のうちに消えた。
私の方はといえば、窓の外を眺めるのに夢中になっていた所為で一瞬気付けなかった。「……ん?」もう一度素っ頓狂な声を上げ、咄嗟に挙動不審な素振りのまま振り向く。
「誰かいるの?」
声が聞こえた方向へと話しかけて振り返ってみたが、何故かそこには誰も居ない。そこには一度だけ呼ばれた名前を最後に再び沈黙に包まれる廊下が何処までも続いているだけだった。
聞き間違い……?では無いような。何かの物音が人の声に聞こえることは多々あれど、自分の名前をさも人が呼んだように聞こえるなんて。
私の問いかけに応じようとしないその誰かを確認しようと廊下の向こうまで目を凝らす。斜陽の先は真っ暗闇で、目を凝らしてもあまり良く伺えない。
黄昏時、見えない相手に向かって「誰ですか?」と聞く、絵に描いたようなテンプレートに思わず声が震えた。
怖い話は苦手なのに昔にどこかで聞いた“黄昏時は斜向かいの人間の顔すら滲ませる。出会った人間がこの世のものであるとは限らない”などという与太話を、よりによって今思い出してしまうなんて。ましてや思い出して怯えてしまうなんて。我ながらちょっと恥ずかしい。
「……あぁ、良かった。やっぱりお前か。」
「…………そ、の声ーー、」
しかし暗がりの中から返ってきたのは、意外にも私にとってよく慣れ親しんだ声で。え、もしかして……と瞬時にその人の声を拾い上げて判断する頭が途端に強ばった心を解した。
少しずつぼやけた輪郭がはっきりと此方へ近付いて、穏やかな表情を浮かべたその人が現れる。思わずにやついてしまいそうになった自分を律し両の眼で件の人物を真っ直ぐに見据えれば、そこには。
「今から帰りか?」
「轟くん……。」
私の好きな人、轟くんが廊下の向こうから歩いてくるところだった。
ああ、なんだ轟くんだったんだ。
「なんだ、轟くんだったんだ。」
どうやら何も、心配するようなことなんて起きてなかったみたいだ。ぱっ、と笑顔を浮かべて彼に近付くと、轟くんは僅かに手を挙げてリアクションしてくれた。
柔らかな光を背負う轟くんは、教室で密やかに眺めている普段の表情とは異なり、何だか大人びて見える。そういえば放課後も放課後で、終業後のチャイムが鳴ってからは結構経つのに轟くん何でまだいるんだろう。
はっきりとした存在感をもってようやく私の側まで近寄ってくる轟くんに「どうしたの?帰らないの?」と気になったことを聞けば「いや、もう帰るつもりだ。」との返答が返ってきた。
「そうなんだ…。でもビックリしたよ、全然見えなかったから誰かと思った。」
「俺からは良く見えてたけどな。」
「ええ……じゃあもっと早く来てくれれば良かったのに。」
他愛ない会話はクラスメイトの特権だろう。夕暮れの廊下で立ち止まって、私たちは取るに足らない会話を投げあう。現れた轟くんの服装は丁度夏服にボストンバッグをぶら下げて正しくもう帰る、という出で立ちで。私と同じく用があって残っていたのだろう。
こっそり足元から頭の先まで一通り見上げて、様子を伺う。コスチュームを着てる時の轟くんもかっこいいと思うけど、放課後っていう時間の影響なのか、何だか今日は轟くんじゃないみたい。……いや、勿論轟くん本人に変わりはないんだけど、なんて言うかいつもより大人びて見える上に何だか、気だるげに見えるのは、果たして気の所為だろうか。
「帰んねぇのか?」
「ん、ううんもう帰る予定だよ。」
「折角だし一緒に帰るか。」
彼の持つ特有の雰囲気に充てられ、舞い上がっていたのも束の間。唐突に轟くんが一緒に帰ろうなどと言い出す。突然の問いかけに2度、3度瞬きを無意識にして、真顔で轟くんの顔を見つめ返してしまう。なんて言われたのか、言葉が上手く頭に入っていかない。
えっ、今一緒に帰るって言った?
私と轟くんが?そんな、本気で言ってる?
割と爆弾発言をかまされているのでは、と個人的には既に頭が軽いパニックだ。しかし私のそんな心境とは裏腹に、当の轟くんの顔色は特に変化もなく涼し気なままで。
私の顔だけが驚きに歪んでしまうのがなんだか悔しいけど。でも、同時にそれを本人言ってる場合ではない。
「……嫌か?」
「あっ、いや、そんなことは…」
しどろもどろに返すしかできない。好きな人から一緒に帰ろうと言われたら、なんて返すのがスマートなんだろう。嫌か?なんて聞かれたところで嫌じゃないよとただ素直に受け入れるのが正しいのか、それとも。
「じゃあ一緒に帰ろう。」
「う、うん。」
結局真意を聞くことも出来ないまま。とりあえず彼の後ろ姿を追いかけて斜め後ろを歩く。それにしても、まさか唐突にこんな、一緒に帰れる時が来るなんて。轟くんの横顔からじゃ意図はよく分からないけど、あながち嫌われてるわけじゃなかったりする、のかな?
「何か用でもあったのか?」
「うん?何が?」
「リカバリーガールの所から出てきただろ。」
「あぁ、…ちょっとね。薬貰ってたの。私実は頭痛持ちでーーー、」
歩き出してから廊下の角を一度曲がったその時、思い出したように轟くんが私に向かって問いかけてくる。医務室の方に視線を僅かに向けた轟くんが、不思議そうな顔をして私の目を見つめた。そういえば、と痛みをふと思い出す。まだやっぱり痛むような気がする。今日はちょっと長いなぁ。
雨が降ったり、天気が悪くなったりすると時折襲ってくる痛みだったが、いつもは薬を持ち歩いていたから、しょっちゅう体調不良で保健室に行くほどではなかった。痛くなりそうな時に薬をサッと飲んでいるので、きっと轟くんは私が頭痛持ちであることをまだ知らないかもしれない。
不審に思われないためにも、リカバリーガールから貰った薬を轟くんに見せる。
「あぁ、確かに頭痛ぇってよく言ってるな。」
「そうなの。これが結構めんどくさくて。」
あは、と眉を下げて笑いながら取り出した薬をしまった。轟くんは「大変だよな、頭痛って。」と相槌を打って、少し先を歩んでいく。そうなんだよ、大変なんだよ頭痛ってさ。
「頻繁に薬飲んでる姿も見られたくないから、いつもは痛くなる前にコソッと飲んじゃうんだけどね……、」
カバンに薬を戻した時、同時に触れたのはハリボーグミの袋で。そういえば貰ってた、部屋に帰ったら食べよう。そう思って再び前を向き直したその時だった。ずんと色濃く染まった私と轟くんの影が紫の斜陽の中に不気味に伸びていく。
「ん、…………?」
「………どうした?」
刹那違和感が、まるで静かな水面に石を投げ込んだみたいに大きく膨れ上がった。同時に、脳裏を掛けていくのは廊下の先から轟くんが現れた瞬間のこと。映像として記憶に焼き付いたその存在感は、私がよく知る轟くんそのもので。鮮明に思い出せる先刻の風景は私にとって特段違和感なんて、無かった、はずなのに。
思わず足を止めて立ち止まった私を心配して、轟くんも隣で足を止める。
他愛ない会話が出来るのはクラスメイトの特権だ。片思いしている相手と、そんなくだらない会話だけで一緒にいられる時間が伸びていくのだから。
ただ、もしその会話の中にたとえば平穏をひっくり返してしまうような異常が潜んでいて、その綻びに気付いた時には既に手遅れっていう事態に陥っていたとしたら、あなたはどうする?
「わたし、轟くんに“頭痛い”なんて喋ったこと、あったっけ?」
「………………。」
「あと、気の所為なら良いんだけど……さっき、私のこと、轟くん名前で呼んだ?」
いつもは私のことを苗字で呼ぶ彼が、さっき廊下で出会った時、はたして私をなんて呼んだだろうか。もしかしなくとも名前で呼ばなかっただろうか。
今日に限って名前で呼ぶなんて、そんなこと。
何となく嫌な予感がして、恐る恐る表情を下から伺うけれど、特に何も変化はない。
その横顔は別におかしな雰囲気なんて微塵も感じさせないものではあったが、それでも改めて“大人びている“と感じた。何故そう思ってしまうのかは分からないけれど、それが却ってたまらなく背筋を冷えさせる。
「あぁ、そうだったな。間違えた。」
「まち、がい?それは、どういう……え、轟くん……?」
「忘れてくれ。」
心臓が痛いくらいに鼓動を刻んでいく。こちらをちらりと一瞥したかと思えば次の瞬間、轟くんが私の手を握って足早に歩き始める。それは恋人同士が想像するような柔らかいものじゃなく、強い力で逃がさない、と言っているような、そんな加減だった。
「ちょ、」
「行こう、もうすぐ暗くなっちまう。」
たそがれどきの終わり際。もうすっかり沈んだ日が遠くに消えていくのを見送っている最中も、心の中を渦巻く焦燥が警鐘を鳴らし続けている。尚も現実味を帯びて私の手を力強く、轟くんは引いて歩いていくけど、生憎今は抵抗出来るほどの冷静さなど何処にもなかった。
……この人は、誰?
最早今目の前にいる轟くんは、私の知る轟くんではないのだと、確信持って言えてしまう自分がひたすらに恐ろしい。いっそ夢とか妄想の類であることさえ願ってるのに、それでも一向に変わらない状況と握られた手の冷たさが、現実を思い知らせてくる。
妄想でも幻覚でも、今ならなんでも大歓迎だから。
だから、誰でもいいから。
今私の瞳に映っている彼の頬に、今日あったはずの実地演習で作った傷が忽然となくなってしまっていることについて、納得出来る理由を誰か説明して欲しい。
「ご、めん…!わたし、予定思い出したから一人で帰るね!」
ダメだ、確実についていっちゃいけない。手を握られたことより、もっと重要なことがある。もう、好きな人と過ごせる二人きりの空間なんてものはかなぐり放り出して逃げ出したい気分だった。
大人びて見える、なんて生易しいレベルじゃないじゃん。だって目の前にいる“轟くん”は私の知ってる轟くんとは別人なんだから。
顔も見ずにそう告げて、やんわりと手を離そうと画策する。しかし想像以上にがっちり掴まれた手首はそう簡単に離せそうになくて。ああ、やっぱりなんかおかしい。
「あの、ごめん…離して…?」
「………、そうか。」
「とどろき、く……」
もう一度私は緩く手を振り解こうとした。でも、それは叶うことは無かった。
震えた唇から、怖々と彼の名前を呼ぶ声が消える。それはそれは、頼りない吐息のように。
恐怖で竦んでしまった訳ではない。ただ、私が吐いた息を吸いこんだ人がいただけ、それだけの話。
与太話だと、思うだろうか?
私の息を吸い込んだのは轟くんと同じ顔同じ声の持ち主で。夏の陽炎に紛れて揺れる整った顔を鼻先で眺めながら真っ先に停止していく思考と裏腹にどう足掻いても身体は熱を持つ。かき抱かれた背中を這う、確かめるような手つきが制服の皺を緩く刻んだ。
「な、ん……」
「悪い」
「え?」
まさかキスすることになるなんて、流石に想像してなかったよ轟くん。予行練習も、心の準備だって何一つ出来てない。だって私たち、そもそも付き合ってないんだから。
呼吸が上手く出来ず、右も左もよく分からない状況で、私よりも随分と高くなった背丈の彼の腕の中でしなだれていると轟くんがぽつりと呟く。
「怖がらせるつもりじゃなかったんだ。」
「それっ、て…」
どういうこと、と聞こうとしたところで今度は瞼に口付けられた。手馴れた手つきだった。彼はやっぱり大人、なんだろうか。
「………会いたかった。」
ドキドキすることも出来ないまま。切なげに吐き出された台詞は、私には理解が及ばない。やがて開放された身体がじわじわと冷めていく感覚が襲ってきて、浮ついた思考がゆっくりと下降した。
耳元に唇を寄せて、何かを囁いた轟くんの顔は、見れば恐ろしい程に整っている。この世のものじゃ無いみたいな、そんな雰囲気。
吹きかけられた吐息にびくりと肩を震わせた瞬間、身体を包む暖かな熱がするりと尾を引いて消える。
そして後に残るのは、
「え、うそ。」
ーーーーーーーーーーーー
「大丈夫か?」
「………轟くん…なんで?」
「なんか、お前の声がしたから。」
背後から突如声をかけられて、茫然自失となっていた私は途端に肩を跳ねさせる。いや、そんなまさか。振り返ると先刻目の前から消えたばかりの轟くんが、背後に立っていた。いや、ほんと、そんなことって……、
「轟くん、さっきもここにいたよね?」
「いや、今来たところだ。どうかしたのか?」
「うそ、だって……さっき」
先程の“彼”より少しばかり幼い相好。轟くんは取り乱した私に「落ち着け」と優しく声をかけてくれているけれど、あんなことが起きてしまった以上はもうそれどころではない。
今目の前に居るのは本当に轟くんだろうか。同じ声同じ顔の、似て非なる別人ではないと言い切れる根拠は?私にはもう分からない。何もかも。とりあえず言えるのは何故かあの一瞬の間だけ、私の前に私の知る轟くんとは別の“轟くん”がいたということだ。
「じゃあ、あれは一体……」
これは本当にあった怖い話、と呼ぶにはちょっとチープ過ぎる話。とはいえこの目に、この身体に充分過ぎるほど植え付けられた記憶と、あの熱は今後どうやったって二度と私の中から消えることは無いのだろう。
ああ、暑い。背中を汗が伝っていく。そういえばもうすぐお盆の時期になるなぁ、なんて。ちなみに私が見たあの人が、はたして誰なのかっていうオチはこの話にはない。だからこの話はこれでおしまいにしよう。
失せ物探し