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私は正直轟くんの事が苦手である。性格が、とかじゃなくて顔が良すぎるところと距離感がたまにおかしいところが苦手だった。


クラスメイトである轟くんの部屋に呼ばれたのは、実に昨日の出来事である。
そして今は彼と一緒に畳に正座して隣り合っている最中。本日のBGMは静かに響くシャープペンシルの走る音。私が彼の部屋にいる理由はただ一つ。それは勿論やましい理由などではなく勉強を教えてくれるとの申し出が轟くんからあったから、それに甘えただけに過ぎない。

ただそれだけの理由だった。



休憩もほどほどに。
勉強会という名の轟くんによるマンツーマン家庭教師は、丁度折り返し地点を迎えた所である。イケメンはどうやら出来損ないの頭にも分かりやすく知識を植え付けるスキルに長けているらしく、始まってから実に1時間が経過しようとしていたが、初めから根気よく私に苦手な数学を紐解いて教えてくれていた。

実際、上手く運んでいたと思う。それでもまだ理解の及ばない範囲は多数あれど、勉強を教えてもらう前と後じゃ雲泥の差があるくらいには、轟くんとそれなりに上手く勉強出来ていたのだ。


しかし反面今日も今日とて正常運転フルスロットルの轟節がなければ、ここまで疲れずに済んだかもしれないとごちて、私は誰にも気取られない程度にため息を吐く。
勉強の教え方が上手いのは感謝すべきところだが、どうにもなぁ、距離がなぁ、と今更どうにもならない愚痴が脳内で行き場をなくし消えていった。


自分のお顔がまさか相手の心臓にダメージを与えているなんて、きっとこれっぽっちも思っていなさそうな顔をして、彼が「これはーー、おい聞いてるか?」なんてすっとぼけながら私の顔を覗き込んでくる。

(ああもうこの人はこういう人なんだ)と諦めたのはいつ頃だったか。要は天然イケメン怖い、その言葉に尽きるのかもしれない。

ところで本当に大変なのは
今までじゃなく、ここからみたいなんだけど



「ごめんね、もっかい言ってくれる?」
「キスしてみてもいいか?」
「うーん、何回聞いてもやっぱりキスしてみてもいいかって聞いてるよね。」
「そうだな。」

突然の出来事だった。
私のペンの進み具合を、頬杖を突いて静かに眺めていた轟くんがふと思い立ったようにその言葉を投げかけたのは。
こちらを真っ直ぐに見つめるその目は、私の姿を映すには勿体ないくらいに綺麗で。私達が付き合っている男女だったなら、きっと今は“そういう雰囲気“で、そういう行為をするのに一番適している時間なのだろうと思う。

しかし生憎何一つ全く轟くんとそんな関係などではない私にとって、この雰囲気はただただ苦しいだけのものに変わりはなかった。

正直言われたことへの対応について頭を回すので精一杯だ。というかどうしてこうなった。おかしいな、ただ勉強してただけなのに。


「キスしてみてもいいか?」
「逆に聞くけどどうしてそう考えるに至ったのかまず教えてくれると助かる。」


とりあえず理由を聞かせて欲しい。許すかどうかは別として。何事も大事なのは順序である。うん、昔国語の先生が言ってたからきっと間違いない。
一見唐突に見える「キスしていいか」発言にも理由があるはずで。それを聞いてからでも遅くはないはずだった。無論、許すかどうかは別だけど。

一旦休憩、と自らお願いして少しの間だけ息抜きをさせてもらったその直後。別に変な感じも、そんなことを言い出せるような雰囲気も何も無く、轟くんは普段と変わらないまま急にそんなことを言った。変わらないからこそ、何かがおかしいのは明白で。


「理由…?」
「うん理由。いきなりキスしたいなんて思わないよね?」
「……そう、だな。」
「だよね…」


私の問いかけに、轟くんが顎に手を当てて俯く。「理由……」と続けて独り言を呟いた口ぶりからして、やはり何かしらの理由はあるようだった。
まあ、それでも彼自身に答えを求めたとして、果たして私を納得させるに足り得るほどの理由にたどり着けるのかは分からないのだが。……轟くんのことだし、何となくとか言われそうで怖いな。


「ただ、」
「ただ?」
「何となく、してぇなって」
「ええ…………」

しかし想像に堅くない、とはこのことを指すのだろう。ここまで想定内の返答がかえってくると、もう呆れるを通り越して笑えてくるもんなんだなと思い知る。轟くんは机に転がしたシャーペンへと無意識に視線を向けてから、何となくだとそう言い放った。

何となくでキスしたいと思えるような関係って、なんなんだ。何となくでファーストキスがあげられると、この人は本気で思っているのか。

少なくともただのクラスメイトにそんな風に思ったことのない私には、彼のことを1ミリも理解出来る気がしない。

「そうですか、ダメです。」

一呼吸置いた後、顔色を変えないように僅かに期待しているらしき轟くんへとそう返す。
轟くんはと言えば、私の返事を聞くや否や一瞬眉を顰めてすぐさま口を開いた。

「どうしても駄目か?」
「……ダメです。」

食い下がる程の理由が私にある訳でも無いだろうに。たかが一クラスメイトの唇が欲しいという目の前の少年は、思いの外なかなか退いてはくれない。まるでおもちゃでも強請る子供みたいな口振りから、そぐわないセリフを吐き出して、彼はさながら子犬に似た目を私に向けている。

そういうのは好きな人とするものではないのか。もしかすると轟くんは本当に好奇心で言っているのかもしれないけど、だからといってファーストキスをあげられるほど私はお人好しじゃないので、


「そういうのは好きな人とするべきだよ。」
「…………。」
「好奇心?で簡単にキスとかしちゃダメだって。……ね?」
「俺は、」

そう言って言い淀む轟くんの顔は、やっぱり綺麗だ。私はあのお顔が苦手だった。でも、苦手だけど、逸らせない。そんなことがあるなんて、轟くんに会う前の私はきっと想像もしなかっただろう。

机に置かれた冷たい麦茶が汗をかいて雫を垂らしていく。夏、暑くも涼しくもない部屋の中で、不自然なまでに身体に熱を持ち続けている私を置き去りにして進むのは時計の針のみ。


「前からお前が笑ってたり、真面目な顔してたりすると、何か良く分かんねぇけどお前から目が離せなくなっちまってて。」
「……うん。」
「最近じゃ、何も無くてもお前のこと目で追ってて、」
「………うん。」
「緑谷に聞いてみたら、俺がお前のことを“多分好き”なんじゃねえかって教えてくれたから、」
「……………う、ん。」
「確かめたくなった。」


カラン、氷がガラスの中で揺れる。時計の針とグラスの音、そして轟くんが静かに吐き出したため息以外は聞こえない。自分の心臓だけはうるさく鼓動を刻んで、それが逆に静寂の中でも煩わしく自己主張していたけど、そんなことは全てはどうでも良かった。

大してよく知りもしない、それこそたまに会話したりする程度のクラスメイトのひとり。自分はそんな立ち位置にいられれば別によかったのに。好きとか、惚れた腫れたとかそういうことはよく分からない。でも、今確かに心の内を包み隠さず話してくれた目の前の男の子は、その感情に名前を付けたがっている。

額をつう、と冷や汗が伝った。

意外と轟くんはずるい。だってそんなに真剣な眼差しに射抜かれてしまったら、もう動くに動けないじゃないか。


「それ、今言っちゃう?」
「悪い。」

雰囲気とかそういうものはあまり気にしない質なんだろう。いやまあ、二人きりの室内で隣合っている以上は雰囲気は既に形成されていたのかもしれないけど。


「なあ、キスしてみてもいいか?」


今度は確かな声色で、彼が言った。


「……確かめるために?」
「……そうだな、確かめるのもそうだが…お前とキスしたいって思った、それだけだ。」
「ずるいな……それ」
「駄目か?」


果たして轟くんの中に生まれたそれが恋なのか、そうでないのか。早い話彼にとってはそこが重要な問題ではないらしい。

まるで「じゃあ勉強再開しよう」と言わんばかりにシャーペンを転がして。轟くんの手が私の肩にゆっくりと触れた。迫り来るその顔を、今までで一番近い場所から眺めてみる。やっぱり苦手だなあ、なんて。ああ、馬鹿みたいだ。

これが恋なのか否か。君の中で答えが出たらその時は一番に教えてよね。


人差し指のその先の話

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