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「え、なんでいんの?」
女子力の欠けらも無いと思う。我ながら帰宅直後の荒み具合は凄まじいなと玄関に荷物を投げ出して、入口の鏡を横目で見ながらため息を吐いた、これはその直後の出来事だ。
「遅せぇわアホ」
言葉を交わすのも数日ぶり、姿をこの目で直視するのも実に数週間ぶりだという、男が我が家にいた。その男は似合わぬ薄いブルーのエプロンを着て、まだ半脱げのパンプスを爪先に引っ掛けたままの私を一瞥し、不機嫌そうな表情を浮かべている。「遅せぇわアホ」先刻言われた言葉を脳裏に思い浮かべても、彼がここにいる理由にはちっとも到達できない。呆気に取られ玄関で停止し尽くした私を見て、勝己は顎でリビングの扉を示した。
「お、お邪魔します……」
「お邪魔します」と思わず発してしまったことに大しては深い理由はない。けれどもどことなく威圧的な、かの男を久しぶりに目の前にしてしまうとどうにも普段の調子が保てないのもまた事実だった。
そうこうしている間にも勝己は再び出てきたキッチンへと消えている。
自分の家なのにいたたまれない。お陰でお風呂も入れない。というか件の自分の家じゃないのに、我が物顔で私のエプロンを着ていたあの人は一体キッチンで何をしているのだろう。縮こまって彼の帰りをリビングで待っていると程なくして無言で机の上に乱雑に置かれた皿が目の前に飛び込んでくる。
平たい皿の上には美味しそうなロールキャベツ。それは冷凍らしからぬ、手作りの雰囲気で。
「なにこれ」
「食え」
食え、と言われましても。改めて何故彼がここにいるのかが分からなくなる。困惑し、フォークに手を延ばせないでいる私を再度一瞥したのち「食わねぇんか」と言葉を投げ掛ける勝己。その目は帰ってきたばかりの私に向けられたキツいものではなく眉間に僅かな皺を寄せただけの心無しか柔らかな表情に切り替わっていた。
「ひっでェツラ晒してんじゃねェよ」
食ったら寝ろ、それだけ告げて勝己が私の頭をぐしゃりと一撫でする。決して丁寧とは言えない手つき。彼が乱した頭頂部を確かめるようにもう一度自分の手で整えると、途端に広がるじわりと侵食するくすぐったい様な気持ちが、泡のように弾けていく。
相変わらずの素っ気なさ、でも
そんな素っ気なさが、私は嫌いじゃないみたい。
彼女がどうやらズタボロを極めていることに心配して、来てくれたようだ。わざわざ電車で30分はかかる距離を移動して。
そんなこと出来る人だったっけ?…なんて一瞬失礼なことを考えたけれど、よくよく考え直したら、勝己はそんなことが出来るような人だ、そう、そういう人だった。思い出したわ。
「うわ神」
「良いから食え、んで寝ろ。」
こんな風にされてしまった日には多分緊張の糸が緩んで明日爆睡しちゃいそうだな、なんて。まだ明日も仕事だから爆睡は遅刻に直結してしまうのでそんなことしないけど。
言われた通りに私は勝己お手製のロールキャベツに手を伸ばす。兎に角美味しかった。それはそれはとても、と手放しに絶賛出来るレベルで。
多分疲れてるから尚更舌が麻痺してるのかもしれない。
ロールキャベツなんて作ったことないや、その辺やっぱり勝己は何でも1人でこなすよなぁと独りごちてからフォークをせっせと動かしていると、勝己はなんとも言えない柔らかな目線を向けた後、テレビへとすぐ視線を戻してしまった。
勝己は、結構二人きりだと笑う人だ。それからストイックで真面目。その癖意外と身内には優しい。
そういう人なんだと知った時から、もうずっと。私はさっきのような表情を見る度になんとも言えない気分になるのだ。
それはそれで私一人だけが惚れていると錯覚しそうにもなるけど、今日のことを考えれば、あながちそんなこともないのかもしれない。
「美味しい」
「………そうかよ」
「こんな美味しい手料理食べさせてくれるとか、いいお嫁さんになるよ勝己は。」
「ざけンな嫁じゃねェわ死ね」
「ノンブレス!」
「良いから早よ寝ろ」
「あーい、」
久しぶりに会えたとして、別れが来るのはいつだって寂しい。ベタベタといつも暑苦しいような付き合いではないが、それでも寂しさを感じる程度に私は彼にベタ惚れだった。本人には言えないけど。
もう時期帰ってしまう勝己の背中を横目で流し見てから、私は「今日はありがとう」とその背中に投げ掛けてスーツを脱ぐ。寝ろと口うるさく吐いたその口が、本日幾度目かの寝ろを紡ぐ前に。お風呂に入って、そして。パジャマへと着替え終わってからもう一度リビングへと戻る。
するとそこには。
「え、なんでまだいんの?」
「あ?」
「帰ったんじゃないの?」
「喧嘩売っとんのかテメェは」
未だソファに腰掛けてテレビを眺める勝己が何故かいた。
意味が分からない、てっきり帰ったと思ってたのになんでいるの。時計の針は丁度0時10分前を指していて、最早帰れる時間ではなくなっている。本日二度目となる問い掛けにも喧嘩腰でガラ悪く「喧嘩売っとんのか」と、そう返してきた勝己の顔を理解不能といった目付きで見つめれば、彼の眉が再び不機嫌そうに歪んだ。
「泊まってくに決まってンだろ。」
「えええ、なんで?!」
「自分の女の家泊まんのに、理由なんか要らねェだろうが。」
良いから寝んぞアホ、とボヤきながら彼はこちらへと歩んでくる。片手間にテレビのリモコンを乱暴に机へと置いた腕が、次いで私の首根っこを掴んで引き摺った。いつもマイロードを突き進んでるとは思ってたけど、今日はいつにも増して乱暴だ。
……まるで、優しい暴君。でもそんな表現が似合う人なんて、きっと君以外どこを探しても見つからないんだろう。
「ふふ、」
「何笑っとんだキメェ」
零れた含み笑いにすら君は毒舌を巻く。言葉使いも態度も相変わらず。ついでに言うなら掴まれた首根っこが締まって苦しい。でもその手のひらが誰よりも暖かくて大きいことを知っているのは、世界中の誰でもなく私だけでいい、私だけがいい。
と、そんな風に思うのだ。
「押しかけ女房……」
「ざけンな嫁じゃねェわ死ね」
「ノンブレス!」
月の群れ