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何故か今日は風が強い。びゅう、と吹き抜けていく春の嵐が七分咲きの桜を揺らして、その重く実った花びらを遠くまで吹き飛ばしていく。勿体ないな、と夜道を歩きながら私は大きな桜の木を見上げた。お目当ての場所までは残り十数メートル程度。

この神社に来るのは何年ぶりだろうか。昔はよく友達と鬼ごっことか木登りとかして遊んでいたなぁ、美しい郷愁の中には、いつだってここ轟神社の中でも一等大きな桜の木がいた。


金曜日、週末仕事終わりの夜。

缶チューハイといくつかのお菓子を袋に引っさげて私は幼少期以来、久しぶりに桜の木の下で夜桜を見に来ている。なんとも言えない廃れた風景が心の中にすきま風を灯していく、その感覚が少しだけ物悲しかった。

それでも夜の神社に独りきりで、しかも夜桜を肴にというのはやはり大人にしか出来ない大人ならではの特権なのだろう。ベンチにたどり着き、夜桜の一等席に腰を落ち着ける。ちょっと寒い気もするけど、そんなに長居する気もないしまあいいか。

私はプルタブを押し込んで、月を背景に缶に口をつけた。途端グレフルレモンの風味が広がる。うん、我ながらナイスチョイス。

今日も月は変わらず綺麗だ。








ザア、と葉同士が擦れる音に、ふと目を覚ます。背中には冷え切った冷たいベンチの感触。朧げな視界の真上には雲が僅かに掛かってしまった月が私を見下ろしている。

何故か身体が重くて言うことを聞かない。目をいくらか動かして、千々の情報を寄せ集める。状況を理解すると同時に自然と寄る眉根、どうやら私はベンチに横になっているようだった。

いつから眠ってしまったのだろうか。……え、というか私まさかこんな所で寝落ちたの?嘘でしょ信じらんない。

疲れていたからかな?酔いが思ったより早く回った所為?飲み込めない状況と自身の危機感の無さに驚きつつ未だ醒めやらぬ思考を回転させる。
ああ、なんでだろう……何だかとても眠い。

理由は分からないが、とにかく動かない身体は、今は放置しておくことにしよう。再び襲ってきた不自然な眠気と格闘する為、閉じそうになった瞼を無理矢理開き、いざ今一度状況確認で頭上付近に視線を向けたその時。


「え」

後頭部の違和感と、信じられない存在の2つに気を取られ心臓が跳ねる。なん、え、なに?だれ?と喉の奥でいくつもの疑問が渋滞し、刹那詰まった。

なんとそこには震え上がる程に美しい青年が、ベンチに座っていたのだ。
しかもそれだけではない。一体どういうことなのかまるで理解が追いつかないが、何故か私はその青年に膝枕をされていた。後頭部が少し持ち上がって、眠りをより一層深いものに導かんとしている。
もしかしてあの謎の心地良さの正体ってこれ?

目を閉じ唇を僅かに開いて、青年は眠っているようだった。長いまつ毛が靡く白色の花瞼に囚われて、目も離せない。青年に縫い止められた視界が私から行動も、言葉も、まともな思考をも奪っていく。

不思議な色合いの薄桃と白銀の二色の髪色が月光を反射して鈍く光っていた。その一房が風に揺れる度、独特の花に似た香りが動けない私の鼻腔を擽る。

なんというか、これは


「きれい…………、」

思わず口にした言葉。我ながら、口が滑ったとはこういうことを指すんだろうなと思う。いくらパニックに陥ってるからってこんなことを零してしまうなんて。恥ずかしさのあまり、瞬時に我に返っては、と口を噤む。

私の声に気付いた青年が、不意に目を開けた。


「ん、起きた…のか。」

「……!」


想像よりも低い声で呟き、青年は私の瞳を真っ直ぐに見つめる。

青年は目覚めるなり微笑んで、私の額に手を置いて一撫でした。


「……ふ、」

ゆっくりと降りてくる掌が耳朶を緩く擽って、また旋毛の方まで遡っていく。同時に背筋を妙な痺れが走っていった。ぞわり、ぞわり、伝うなんとも言えない感覚と、それから。もうひとつの感覚には身に覚えがある。

ああ、また、まただ。


(ねむい……)

目の前の不思議な人が起きたというのに、どうしてこんなことになっているのか聞こうにも、身体は動かないし声も出ない。それだけで終わらず、折角冷めたあの眠気がまた襲ってきている。本当何が起きてるんだろう。

起きて、彼に事情を聞いて、直ぐ帰らないと。そう思っても、まるで魔法に掛けられたように身体は思うように動かなかった。

多分彼は私の物言いたげな視線にきっと気付いているんだと思う。しかし一向に何も言わず頭を撫で続けるだけ。慈しむような手つきが逆に恐ろしくて、心地良い。

限られた視界から確認出来たことといえば、青年の整いすぎている顔立ちと、後ろに眩く映える月の大きさくらいか。あれから何時間寝てしまったのかも、青年がどこの誰なのかも、そして今が何時なのかも、知ることは出来そうにない。



わけも分からぬままとりあえず青年の顔をじっとよく見れば、彼の頭には薄桃と白銀の髪の毛に混じっていくらか桜の花びらが積もっていた。わあ、凄く似合う……って言ってる場合じゃない。

何となしに身体の方をふと眺めて、そして再度驚愕。なんと私の身体にもびっくりするほど大量の花びらが積もっているではないか。

いや、いくら結構な時間寝てしまったとはいえ、こんなに積もる?そんな訳…ないよね。風だって強いんだし。じゃあなんでこんなに桜が……。

考えれば考えるほど益々こんがらがって。



もしかしたらこの人は桜の精なのかもしれない。そんな跳躍した思考にたどり着いたのは他でもなく私の脳内が既に正常ではなくなってしまったから、なのかな。

でもそう思ってしまうほど、この世のものとは思えないくらいにこの人は、あまりにも綺麗すぎるんだ。


「あの、」

「……どうした?」

勇気を出して、口を開く。

「あなたは、桜の精…、ですか?」

聞きたいことは山ほどあったのに。それでもいざ口に出来た疑問はたったのこれだけだった。

聞いてどうするつもりなのか、自分の中でも未だ答えは出ていないにもかかわらず、出てしまった問いかけが桜吹雪に消えていく。

桜の精だって言われても、この人になら納得しちゃいそうだよなあ、なんて。………いや、もし本当に桜の精だったら、どうしよう。

夜桜が人を拐うとは良く言うけれど、まさか本当にあることだとはこれっぽっちも思っていなかった。あれ、もしかして私地味にピンチなのでは。

しばし沈黙した青年は、ふと頭上の桜を見上げる。透き通ったその横顔に再び意識を縫い止められた。彼は桜を一瞥し、そして私の方へと視線を戻す。一拍置いてから、ふ、と静かに笑って、

「似たようなもんだ。」

と一言呟いた。


(ーー、そっか、やっぱそうなんだ。)

これがお昼時のオフィス街に一本突っ立った桜の木の下で起きた出来事ならきっと、下らないと一蹴出来るのかもしれなかった。まあ生憎今の私にはもう、笑い飛ばすなんて真似、絶対無理なんだけど。

夜桜、昔馴染みの神社、そして美しい薄桃の髪の青年、浅い眠り。

これだけ揃っていれば、人智を超えた何かが起きている、と思ってしまうのも無理はない…筈。彼は確かに桜の精に似た何かしらの存在なのだろう。あれほどに美しく儚い容姿が、既に充分過ぎるくらい事実を肯定しているのだから。


「そう、ですか。」

「ああ。」

「……、」


私はこれからどうなってしまうのか。先程から襲われていた強い眠気がピークに差し掛かってきていて、気を張ってないと今にも寝落ちてしまいそうだった。

今眠ってしまったら、
二度と人の世には戻れないかもしれない。

現世と幽世の狭間で揺蕩う意識を懸命に繋ぎ止めるけど、あまりにも優しく慈しむ手が心地良いものだから。

(もう、拐われてもいいかな)

諦めてしまうのも、仕方ないよね。


もう何もかもがどうでも良い。このまま彼に拐われるのも、ありだなあと思う自分がいる。拐っても、いいですよ。と覚束無い舌先で伝えると、不意に彼の瞳が怪しく煌めいたような気がした。

「いいのか。」

弧を描く口元。背後には満天の月が寂しげに私を見下ろしている。空は藤紫に染まっていて。人世最期の光景が、この世のものとは思えないこんな綺麗な光景だなんて、私はきっと恵まれてるんだろうな。

問いかけには答えずに。目を閉じ、身を委ねた。あれだけ動かなかった身体が少しだけ動いたので、私は肯定の代わりに目元を覆う彼の大きな手に自身の手を重ねる。

桜の切ない匂いが濃くなっていく。もう数秒たりとも耐えられないだろう。深く沈みかけた意識の水底に、私は抗わず落ちていく。

彼が耳元で何かを呟いた刹那、
瀬戸際だった意識が完全に途絶えた。













「お……さん、お……えさん…」

「……ん」

「おねえさん、」


起きなさい、といつぞやの母親らしき台詞が聞こえる。回帰にも似た懐かしい感情に、何故か涙を流している自分がいた。

「お姉さん、起きなさい!こんな所で寝るなんて不用心にも程がある!」

「ぐえっ!」

背中を強めに叩かれて、危うく呼吸の仕方を忘れかける。何事?!と身構える暇もなく、ベンチの上から転がり落ちて間もなく地面に顔を打った。

え?あれ?ここどこ?なんて酔っ払いさながらの台詞を吐き連ねていると頭上から長いため息が落とされる。痛む頬を押さえてため息の方向を見ると、あら懐かしい、神主さんが立っているじゃないか。

昔ここの桜の木に登ったところを見つかって、めちゃくちゃに叱られた人だ。


「お、はようございます。」

「おはようございます、目が覚めたならさっさと帰りなさい。」

「へ、あ、すみません………?」


何が何だか…という顔で神主さんの顔を伺うと、またため息。これだから酔っ払いは…みたいな顔でじとりと視線が向けられる。

「夜桜を見るのは構いませんが、独りきりで来るのはやめなさい。危ないですから。」

「え、」

「何か事件に巻き込まれたらどうするんですか、本当にもう。あ、荷物全部あるか一応確認してくださいね。」

「あ、あぁ…そういう。」


はい、すみません。気をつけます。ぺこぺこ頭を何度も下げて、物凄い怒り心頭の神主さんに見送られながら鳥居へと向かう。荷物は幸いにも全て揃っていたので、お世話になりましたと重ねてお礼を述べて、回らない頭のまま、とりあえず神社の外へ出た。

土曜日の昼下がりを照らす太陽は、天高く真上まで登っていた。




(なんか、全く記憶がないな…。)

腑に落ちない違和感が胸の中に燻っている。
素敵な夢を見たような気もするし、何も無かったような気もしている。
飲みすぎて、神社のベンチで寝落ちて一晩明かすなんて確かに女性に有るまじき失態なのだが、その割に傍に転がっていた缶は一つだけ。

「ほとんど飲んでなかったのになぁ、昨日の私、そんなに疲れてた…?」


頭をがしがしと掻いて帰路につく。あーもう、ほんと信じたくない。ぶつぶつと独り言を吐き出し、桜まみれの全身を叩きながら玄関の鍵を探しカバンの中を漁る。

「うわ、こんなとこまで桜が……」

頭のみならず、至る所に花びらが入り込んでいた。畜生桜め…こんなに花びらまみれになるんなら行かなきゃ良かったよ。

先程まで自分がいた神社の大きな桜の木を振り返りお門違いな恨みを込めた目で見つめる。桜は変わらない存在感で鳥居の横に咲き誇っていた。……ん?あれ?そういえばあの桜、昨日はまだ七分咲きだったような…なんで今日いきなり満開になってるんだろ。

デジャブのように、誰かの声が脳内で響く。私の名前を呼ぶ、優しい声で。
あの声はなんと言っていただろうか。



「……?」

まあいいか、とりあえずお風呂入ろ。気を取り直して鍵を回し、玄関に入る。閉まった扉のその向こう側に、降り積もっていた桜の花びらが一枚落ちた。

「拐われる覚悟が出来たら、そん時にまた迎えに行く。」そう囁いて消えた誰かの言葉を忘れたままに、こうして私は今日も日常へと戻るのだ。


晩生の桜は美しいか

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