# # #


誰もいない共有スペースにただ一人。無論他には誰もいない。冷えた空気と独特な感覚が、この時間を自分だけの特別な時間だと錯覚させてくれて、なんだかとても気分が良かった。今この瞬間だけは私が王様、そんな気分に導かれるまま冷蔵庫に隠しておいたケーキを頂戴する。至福の時間っていうのはきっとこのことを指すんだろう。

人目を盗んで食べるケーキの美味しさったらないなぁ、なんて独りごちて静かにソファに沈む。私はやってはいけないと言われれば言われるほど破りたくなる性分だった。


時刻は0時ちょっと過ぎを指している。現在私はふと思い立ってこっそり共有スペースに降り立ちケーキを嗜んでいる最中である。

高校生、華の時代、そして全寮制ーー、
私を取り囲む毎日はそんな言葉で彩られている。全てが輝きを伴っている中で、また艶やかな雰囲気も併せ持つ女子高生という生き物は、思いの外青春を謳歌するより目の前の現実を生きていくのでいっぱいいっぱいで。


灯りは自分のいる所しか付けていない。スポットライトのようにここだけ夜の中にぽっかりと映し出されて、さながら優雅な女優のよう。…まあ、流石に言い過ぎなんだけど。
でもこんな小さなことでも箸が転がっても笑えてしまう自分がいる。そう考えるとやっぱり女子高生って不思議だよね。


とにかく今の私は有頂天だった。

これはきっと夜、家族が寝静まったあとのリビングで夜にしかやってない番組をこっそり見ているのと、多分同じような気持ちなのだと思う。背徳感とか、特別感とか。そういうものが入り交じった特別な感情。

だからこそ、愛おしいんだと思う。


昼間はたいそう賑わっているこの部屋も、今はなりを潜めている。大きな窓の向こうには静まり返った暗緑の森。そして部屋に佇むのは私だけ。

「ふふ、」


思わず気持ち悪い笑みがこぼれる。しかし笑ってしまった自分に気付いて慌てて口を噤んだ。今の笑みは独りだからこそ許されるようなものだ。誰かに見られていたら恥ずかしくて死んでしまう。


誰に誤魔化しているのか今ひとつよく分からない咳払いをして、少しだけ息を潜める。テンション上がってるのは良いけど流石にバレたらまずいよね、一応共有スペース利用禁止時間だし。食べ終わったケーキの箱を音を立てないように潰してゆっくりと立ち上がる。

名残惜しいけど、そろそろ本格的に撤収しないと。ぺたぺたとフローリングを鳴らしながら何処か遠く見えたキッチンまで向かう。冷えた床の冷たさが足を伝った。

(ふう、)

注意を払ってスプーンとゴミを片付ける。次いで唯一付けていた灯りを落とした瞬間、辺りは一面暗闇の中に紛れた。静まり返るその場。誰の声も響かない、というのはこんなにも寂しいのか。足を逸らせて自室へ向かうエレベーターを目指す。

(ん?)

ぺたり、ぺたり。自分の足音。あまり音を立てないように気をつけている自身の足音とは別に、もうひとつ違う足音が聞こえる。
幻聴…?それとも幽霊?耳を澄ませるとやはり私とは違う足音。エントランスから共有スペースに向かって歩いてくる音があった。

他に誰かここへ向かってきているようだった。

あちゃ、まずい。

こんな時間に誰か降りてくるなんて。
しかも言い逃れが難しそうなこの状況下で。

まずいまずい。

(やば、どうしよ……)

誰が降りてきたのかにもよるけど、とりあえず誤魔化さなきゃ……でも、一体どうやって。
まあこんな時間に誰も降りてこないだろうとたかを括ってたのが仇である。足音の主はもう時期部屋の電気をつけるだろう、そうなれば一瞬で私の姿が白日のもとに晒されてしまう。

考えた末、私はテレビ前のソファの上におもむろに寝転がって目を閉じた。

刹那、部屋の灯りが控えめに点灯する。

「誰かいんのか?」

部屋の灯りがつくと同時に足音と共に透き通った声が響いた。その声には聞き覚えがある、隣の席の轟くんの声だ。降りてきたのはどうやら轟くんだったらしい。……こんな時間に何してるんだろ。

明るくなった部屋の光が暗闇に慣れた目を刺激して瞼が震えそうになったけど、なんとか耐える。ぺたり、ぺたり、とまた気の抜けた音が近づいてきて、やがてその人物は私のいるソファの傍までやってきた。

「…みょうじ?」

はい、みょうじですこんばんは。…じゃないや。名前を呼ばれたことに肩が危うく跳ねかけたけど、バレたくない一心で私は狸寝入りに力を込める。
薄目を開けるのすら怖くて、轟くんの様子を確認することも叶わない。しかし想像より近くで聞こえたその声から何となく推し量れたのは、存外近い轟くんと私の距離感で。お、思いのほか近いぞ?
轟くんはソファの背もたれ側から、私のことを覗き込んでいるようだった。

黙ってひたすら呼吸する。轟くんはややあってもう一度口を開き「寝て、んのか?」と呟く。寝てるの、本気で。君にバレないように寝てるの。だから、触れないで。そう願った時、外でザァ、と木々が揺れる音がした。

「………。」

「………。」

何も言わない轟くんがここへ到達してからは、もう随分と長い時間が経過したように思える。絶対気の所為だって分かってるのに、それでも長すぎる狸寝入りが時の経過を狂わせるのか。一瞬たりとも気の抜けないこの時間が私の頭を少しずつおかしくしていく。

(なんで、ずっとここにいるんだよ!!)

もう勘弁して欲しかった。ソファで寝落ちたクラスメイトの寝顔を何故か無言で眺める轟くんの心境が、一ミリたりとも分からなかった。今は何時、私はどうしてこんなことをしてるのか。もういっそあたかも“今起きました”って感じで起きて逃げてしまおうか。


粛々と続く轟くんとの睨めっこ。
佳境に差し掛かってるかさえ、分からない。

そろそろどうにか保っていた集中力が切れそうだった。このままだと轟くんに寝てるフリしてるのがバレてしまう。それは避けなきゃまずい。でも、分かってるのに却っていつまでも離れない轟くんのことがどうしても私は気になってしまって、さっきからもう彼の様子を伺いたい欲に駆られている。その我慢は今まさに限界を越えるか超えないかの瀬戸際だ。そんなとこだけプルスウルトラってのも変なんだけど。

(目、開けちゃえ)

まあどうせバレないだろう。轟くんだし、と失礼極まりない思考のまま僅かに薄目を開ける。飛び込んでくるであろう光の光量に備えて万全の状態で薄らと開けた瞼。しかし意外にも私の顔の上には影が掛かっていて、視界は未だ薄暗いままだった。

顔に影がかかる、轟くんの動きに合わせて。
影が近付き、その前髪が鼻に触れたとき
私は目を開けたことを、酷く、酷く後悔することになる。

轟くんだし、バレないでしょ。そう思ったのは失礼ながら紛れもない本心だ。ここに来たのが勘の良い爆豪とかだったら多分アウトだっただろうなとも思う。だからこそ彼が居なくなるまで狸寝入りを貫こうと思った。でも、それがまさかこんな事態を引き起こすなんて。




(ーーーーーーは…?ーー、は!?え、な、ん……は?!)

現在の轟くんと私の顔、
その距離僅か数mm。
唇と唇の距離は、完全にゼロ。

ソファの上で狸寝入りを決め込む私と、Youは何故共有スペースへ?状態の轟くん。そんな私たちは何故か今紛れもなく、所謂キスという行為をしている。

理由は分からないから聞かないで欲しい。
とにかくキスされている、
それだけが確かな事実だった。


薄目を開けていたせいで、ガッツリ見てしまった、彼の顔。細められた瞼の隙間からはオッドアイの双眸が覗いている。どことなく優しげな色を纏ったその目はまるで世界中の何よりも透き通った宝石みたいだ。ていうかまつ毛、めちゃくちゃフッサフサ。羨ましいなぁ、なんて。誰もこんな至近距離で、轟くんの顔を見たことないんじゃないかと思うくらいに、私たちは近い。

そんな思考になってしまうのはパニックになってるから、なのかな。しかし呑気に思っているのもつかの間、至近距離で煌めくその瞳と、不意に視線が絡んでしまう。あ、やば、今目が合っーー、




「ーー、みょうじ。」

「………。」

「おい、起きろ。」

「ん、……う、ん…?」


轟くんが私の肩を揺らした。


「こんな所で寝てると風邪ひくぞ。」

「ん…?あ、ごめん……」

ゆっくりと上体を起こす。ソファはすっかり私の体重に歪みきっている。眠い目を擦りながら起こしてくれた轟くんを見れば、その人は普段教室で見る表情と同じ目をしていた。今ここにいる彼は、何処までも限りなく轟焦凍という人だった。

「寝ちゃってた…ありがとう…」

ははは、と嘲笑を零す。それは照れ笑いを偽っているようで、その実狸寝入りを貫いた自分自身への嘲笑だった。茶番だ。何もかも。
分かってる、けど分かりたくない。これだけは許してほしい。だって、キスされたなんて事実、到底受け入れられるはずが無かったのだから。

誰でもいいからさっきのあれは間違いなのだと言って欲しかった。でも残念ながらこの場にはそれを証明してくれる人なんて誰もいない。当の本人は至って何事も無かったかのように普通に私を起こしただけでなく、今も「早く寝ろよ」なんて呟いてそのポーカーフェイスに拍車をかけている始末。いやもう本当何が何だか分からない。この顔で私にキスしたなんて、嘘でしょと白昼夢の中に取り残されたような気分だ。

轟くんに「うん、ごめん。」と何とか返して再度欠伸をする振りをする。とりあえず繕うのでいっぱいいっぱいな私の様子を見てから轟くんは「じゃあな」とだけ告げて、来た道へと引き返していった。


「………。」

嵐が去る、とはこのことを指すのだろうか。誰もいない共有スペースにただ一人。無論他には誰もいない。再び訪れた静寂の中で独り先程の出来事を思い出してから、そして。

「っぁーーーーーー、」


言葉に出来ない感情とともに、私は深く深くため息をついた。あーもう、受け入れられない。明日からどんな顔して轟くんに会えばいいの。轟くんは明日も変わらないままなのに、私だけギクシャクしなきゃいけないなんて。

思い出しては頭を抱える。火を吹きそうなほど熱い顔を覆ってソファに腰掛けながら項垂れた。


「あぁ、そうだみょうじ。」

「っっっひゃい!!!?」


しかし本日二度目の衝撃はあまりにも突然にやってくるもので。独りで頭を抱えながら、呆けてすっかり気を抜いていた私の元にまたもや轟くんが戻ってくる。いやもう、ほんとなんなの。神様いないの?

噛んでしまった返答はこの際目をつぶってもらいたい。対する轟くんの方はといえば、通路の角から顔だけ出して私を見つめている。

「な、何かな…?」

じっと暗闇の向こうから、光る目だけがこちらを見ていた。ちょっと轟くんじゃないみたいに思えて怖い。というか、早く帰って欲しいなぁ、これ以上喋ってるとボロが出てしまいそうだし。彼の顔がまっすぐ見れないというのも本音のところではあるのだけど。

轟くんが戻ってきてから、しばしの沈黙。
その間も私は貼り付けた笑みを浮かべてソファの上に腰掛けている。不自然なほど伸びた背が、私の余裕の無さを感じさせた。

「みょうじ、」

「何?」

「あんま夜フラつき過ぎるなよ。」

「はい、気をつけま……、え?」

「あとスプーンとフォークは片付けた方がいいぞ。」

「あっ、はい。」


それだけ言って、轟くんはエレベーターホールの向こうへと消えていく。今度こそ「また明日な」とだけ呟いて、完全にその姿は見えなくなった。

言葉が反響し耳に残って、そしてなんとも言えない羞恥心だけが後から押し寄せてくる。え、今のどういう意味?と今度は私から聞こうと思っても、そこにはもう誰もいなくて。あるのは暗い空間ただ一つ。

冷えた空気が鼻を掠める。その中でも顔だけは湯気が出るほどに熱を帯びていた。呼吸は途切れ途切れでそれどころじゃない。抑えきれないやるせなさと恥ずかしさで、これからどうしたらいいのやら。

答えは彼に聞けば分かるのだろうか。

「ハァ、さいあくだ……」

心とは裏腹に、私の心の中を閉める彼の存在内包量はどんどん質量を増していく。とりあえず明日は轟くんとは顔合わせないようにしよ。行きより疲れた足を引きずり、彼が消えた方向へとあゆみ出す。あれだけ名残惜しかった空間から何故か一刻も早く抜け出したくて仕方がなかった。

教訓、どうやら狸寝入りはそもそもバレるものらしい。真偽はどうか不明だけど、少なくとも今日から私はしばらく彼の顔を見る度この夜の出来事を思い出しては眠れない夜を過ごすことになりそうだ。





真夜中の嘘一つ

- ナノ -