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大人の事情▼


お互いプロヒーロー、引っ張りだこ。休みが被ることと奇跡という単語は、私達にとって同意義である。

奇跡を明日に控えた本日、久しぶりに顔を合わせた焦凍の横顔を見るとどうしても頬が緩んでしまう。どうやら私は目に見えて浮かれているようだった。お互い休みが被った日は、焦凍の家に泊まりに行くのが恒例行事で、例に漏れず今晩も泊まる予定。
早い話それが私の浮かれ具合に拍車を掛けていた。

帰り道、必要なものがあるから寄り道したいと帰り道から少し逸れた焦凍に連れ立って最寄りの薬局に立ち寄ったのが先刻、つい20分ほど前の話だ。

「今日は、かき揚げ蕎麦にしよう。」
焦凍は放っておくと蕎麦を毎日食べるからたまには栄養に気をつけてあげよう、そう決意した日から結構経つ。必要なものをカゴへと無造作に投げ入れながら透き通るような彼の整った横顔を見るなり新婚夫婦みたいで悪くない、なんて思ってしまった私はやっぱり浮かれているんだろう。


隣を行く焦凍が「今日はかき揚げか?」と不意に聞いてきたので、かき揚げ蕎麦だよ、と小さく返す。何故青のりと小海老をカゴに入れただけで分かるのだろう。普段気づいて欲しいことには気付いてくれないのに、そういうときだけ勘がいいのは複雑である。

でもまあ輝いた瞳が子供みたいに開かれて、おまけで「そうか」という軽い一言が返ってきたので許すことにしよう。それは焦凍なりの感情表現、要は凄く楽しみにしてくれてるという合図だった。

アフターファイブとは程遠いぬるま湯のような時間。
それでも人の疎らな薬局内は私たちにしてみれば立派なオアシス。
学生時代とは異なる時間の在り方が、ちょっとした時間でもたまらなく愛おしく感じさせるのかもしれない。

「あぁ、あとこれも。」

ふと惚けている間もなく、焦凍がカゴへと箱を幾つか放り込む。その音に意表を突かれ、途端に宙に浮いた意識が現実へと連れ戻される。見るとそこにはお菓子とも違うシルエットで、ピンクやら赤やら色とりどりの箱が散らばっていた。

「へっ、」

箱をまじまじと見つめる。途端に久しぶりにこんなに赤くなったんじゃないかってくらいの、赤面。わりかし大きめの声が上がってしまって思わず口を抑えた。周りの視線が刺さるけど、こればっかりは仕方ないと思う。
だって、あの箱は…そういう、ものだから。

目を引くのは大きな0.01の文字。そしてLの表記。俗にいうと避妊具。平たくいうならばコンドーム、またはゴム。

「……………っ!」

そんな代物が他ならぬ焦凍から差し出されたのだから赤くなるのも無理はない。もう一度カゴへと視線を戻し現実逃避しようと足掻くものの。

残念ながらカゴの中は現在人参と青のり、小海老の袋、それからゴミ袋と焦凍の好きな香りの洗剤、そしてダメ押しのコンドームが3箱入っていた。

やっぱり間違いなくコンドームだ。これが何をする為に使われるものか、なんて言わなくったって分かってる。そして、箱を私にわざと見せつけたその意図も。
今日が休みの前日だということも。全部分かってる、分かってるけど!
焦凍は変わらず涼しい顔で私の顔を覗き込んでいた。

「いるだろ?」

「うえ、えっと、……」

いるだろ?なんて、そんな風に悪戯っぽく笑えるんだこの人…というかなにこの確信犯。私のリアクションを見て、少し楽しんでいるような素振りで首を傾げる焦凍。まさに清々しいまでの確信犯だった。いや本当、めちゃくちゃ確信犯。

あう、と変な声が漏れる。それでも何も言わない焦凍は、多分私のリアクションを待っているに違いない。

私は初心だった。焦凍の前ではただの女だった。無理だよ、開き直って上手く躱せる自信なんかない。彼を逆に赤面させられるくらいに上手く躱せるような大人だったら、私たちの関係性も少しは変わっていたのだろうか。

「い、…る、ます……。」
「……なんだそれ。」

結局私は首を縦に振るしか出来なかった。
それでも焦凍は満足そうに笑って、私の手を引きながらすっかり人気のなくなった夜の道を歩いていく。それはそれは軽い足取りで。

さて、今夜は何ラウンドになるだろう。さすがに学生時代ほど若くはないので夜通しのはやめてくれと祈る他ない。






空を泳ぐ魚▼

秘め事とは、秘められているから艶かしいのだと思う。月並みな独白ではあるが、あながち間違っちゃいないのだろうなぁとどこか現実から剥離した理性が、私の投げ出された四肢を持ち上げて、膝へ、腿へと幾度となく口付けを落とす彼のすらりと伸びた鼻筋を、まるで絵画でも眺めるかのように記憶に焼き付けていく。裏腹に。徐々に下っていく唇の感触が、皮膚のごく薄いその場所を掠めていくその都度、私の身体の方はといえば呼吸の仕方を忘れて、ぽかんと浮かぶ吐息を何も無い空間へと吐き出した。

背徳感、たった六つの音から連なる言の葉。高校生には未だ難しい言葉であるけれども、それでも今この瞬間を形容するにはこれ以上の適任はないだろう。これは俗に言う、不純異性交遊。今、私と焦凍はその渦中に溺れていた。お年頃だし、そういうことのひとつやふたつは、以前から既に経験済だった。

「……ん、」

前に比べれば、艶やかな声を上げるのも大分上手くなったのではないだろうか。いや、無論この声をわざとたらしく出しているわけではない。しかし以前を思うとぎこちなさがかなり薄まったのでは、と自負していた。

「見せてくれ、」

そういったところで、結局のところは深い、深い碧に見つめられるとどうにも動けない。
なまえ、と焦凍が熱っぽく呟く。ああ何でだろう、私の名前なのに、私の名前じゃないみたい。ぞわぞわと背筋を這い上がる衝動は、一体誰のせいなのか。

元々抵抗する気はなかったのだが、無意識に内腿を撫でる手から逃れようと足を離してしまった拍子に、焦凍がまるで駄々っ子さながらの視線を向けながら、私の足首を高く持ち上げた。あ、と思った時にはバランスを崩して後ろに転がってしまう身体。私よりも一回り大きな体躯が覆い被さってくるのと、顎に添えられた彼の手のひらを私が指でなぞったのは、ほぼ同時だった。

月明かりさえも届かない部屋のそのまた奥の奥で二人こうして見つめあっていると、今この瞬間の中で、互いを繋ぐ言葉なんて必要ないのだと、そう思い知らされるばかり。焦凍は再度私の足首を掴んで自身の方へと引き寄せる。こんな行為の中でも、美しいと思えるのだから不思議だ。だからたとえ、ゆっくりと唇を近付けて、彼が私の足の甲へとキスをしたとして、いつだって美しいと感じてしまうのだろう。

唇が触れたそばから、そこを中心にして駆け上がる悪寒にも似た衝動。知らなければ開かれなかった扉だとは思う、でも、結局知らなかったという想定には今更戻れないのでそんなことは考えるだけ無駄なこと。

だからこそ、今だけは綺麗な言葉も薄っぺらな微笑みも、全て放棄してこの行為に溺れさせて欲しいと願うのだ。これはただの私のわがまま、けど存外焦凍なら、そんなエゴすら丸ごと食べ尽くしてくれるんじゃないかと、そんな淡い期待を抱いて今日も私は焦凍の思い描くままに、四肢を踊らせるのである。






はじめててをつなぐ▼


手を繋ぐって、一体どんな気持ちだろう。
電車に揺られる帰路の途中。お互い一言も発さずに無言のままシートの端っこに居座り続ける私たちを包む柔らかい日暮。心に渦巻くあらゆる感情を制御するのにはコツがいる。そして今隣に並んでいる彼に、制御し切れなかった気持ちをバレないように隠し続けるのも、同じくコツが必要だった。

ねぇ、君と初めて手を繋ぐのってどんな気分になるのかな。その感情の名前が知りたいと思うこの気持ちは、きっと間違いなく恋なのだろう。
でも、言えない。
手を繋ぎたい、口にすれば僅かな単語の羅列なのに、何故か言えなくて。恋は段階を踏んでいくものなのだとテレビで誰かが言ってたけど、とてもじゃないけどAどころか小文字のaのステップにすらこの調子じゃ立てなさそうだなと独りごちる。無けなしの勇気が、いざと言う時に二の足を踏んで、最後の一歩を踏み出さないのだ。

結局双方の中間地点から最後の一歩を踏み出すのは、いつだって彼からだった。

ふと焦凍くんの温かい左手の小指が、私の小指に触れる。

「っ、」

それは偶然にしては出来すぎたタイミングだった。指の先が僅かに触れ合っただけの事故みたいなものだったのに、そんなちっぽけな一歩を踏み出されただけで、私は全身が椅子に根を張るみたいに動けなくなる。
心臓から吐き出された熱量が通常とは異なる速度で身体を巡っていく。私の異常事態を知ってか知らずか。それでも焦凍くんは何も言わずにただ前を見ていた。

触れ続ける小指。意識してしまった瞬間から、もう上手く息が出来ない。平静を装って指を離してしまおうか。今なら気の所為ですむんじゃないか。

しかしそんな小狡い考えすら、彼には見透かされているらしい。


「手、」
「……え、」
「繋ぎてぇ」

真っ直ぐに前を見据えていたはずの、二つの色違いの星が不意に私の方を覗き込む。きらりと一つ、夕暮れに煌めきを灯したそれは、今この瞬間、間違いなく私を見ていた。

繋ぐってどんな気分になるのかな。その時の感情の名前は?恥ずかしいとか、嬉しいとか、どうせそんな在り来たりなものなんだろうとたかを括っていたけれど、どうやら違うみたい。

有無を言わせない雰囲気で、繋ぎたいとだけ呟いた彼の手が、今にも震えそうな私の手を包む。

ああ、甘い。
手を繋ぐ、という行為はこんなにも甘いのか。
心臓が早鐘を打つ。この現状はきっと神様がくれたチャンスなのだと、無意識に理解した。今度こそ勇気を出して一歩を踏み出すべきなんだろう。だって、私だって彼と手を繋ぎたいのだから。

勇気を出して、重ねられた手のひらから指を絡める。恋人繋ぎで繋がった身体の一箇所が、私たちの境界線を否定していく。たった一箇所だけ、それだけで素晴らしい充足感に満たされていく心。恋って単純じゃないって聞くけど、案外そんなこともないんじゃないかな。

電車がもう次期私の最寄り駅に到着する。早足で停車駅の文字がディスプレイを駆け抜けていった。せっかくの一歩だとしても、踏み出してしまえば存外小さな一歩だった。その小さな一歩が、明日の私たちにはきっと大きな一歩になってるんだろうけど。
無機質な到着を知らせるアナウンスが響く。名残惜しいけど、さよならだ。明日もまた同じ顔で突き合わせる毎日がやってくる。繋いだ手をゆっくりほぐそうとした刹那、焦凍くんがほんの少しだけ染めた頬を向けて、ぽつりと呟いた。


「今日、うち来るか?」






▼君じゃないんだよごめんね


その人はこう、なんというか随分自分勝手な人であった。一目惚れをするには向いていないタイプなのではないかとそんなふうに思う。

「好きだ、付き合ってくれ。」
「うん、ありがとう。ごめんなさい。」

この会話を繰り返して幾星霜。
馬鹿の一つ覚えみたいに毎日毎日飽きずに愛の告白を続ける轟くんは、言っちゃ悪いけどやっぱりちょっとどこかおかしいのかもしれない。

断っても断っても聞かないこの厄介者は、私のことが好きらしかった。無論ライクじゃなくてラブ。そして本人曰く“重度“だと言う。

過ごした日々が愛情を育むなんてのは幻想だ。だってあの人会って3日目にしていきなり告白してきたし、今だって毎日断ってんのに来るんだから。



何がそんなに良かったの?ていうか毎日飽きないね?とは、言いたくても言えなかった。否言ったとして聞き入れられなかっただけなのだが。

「なんでこんなに言っても駄目なんだ。」
「いや、逆にそんなに言わない方が絶対良いでしょ。」
「たくさん言われた方が嬉しいんじゃねえのか?」
「好きな人ならね。」

顔は良いと思う。
しかしその実頭の方はどうにもネジが足りてない気がしてならない。なんだろう、本当勿体ないなぁと思う。

「あのね、何度も断ってるけど、轟くんとは付き合えない。」
「なんでだ」
「なんでと言われましても……そうだなあ、酷なこと言うけど許してね。」

そう言って僅かに間を置きながら。
心にはやっぱりこういう事を言うのははばかられる自分がいるけど、でも仕方ないよね。だって、これで何度目の告白だろう。だから、もうそろそろ、止めさせた方がいいと思うんだ。私の為にも、轟くんの為にも。

「なんて言うかさ、轟くんじゃないの。」

理由は単純にして明快。
彼じゃない、ただそれだけ。

しかも何となく彼じゃない、というニュアンス付きだ。だって仕方なくない?何となくこの人じゃないなぁって思ってしまうんだもの。

「だから、ごめんね。」

もう諦めて、と言葉の端に滲ませる。
こんなにも思ってくれてる人に、酷いことを言っている自覚はさすがにあった。轟くんは、何も言わず止まっている。ピクリとも動かない、そのお綺麗な相好のままに。

さすがに傷付けてしまったらしい。
まあ、当たり前か。だって望みないよ、って遠回しに言ってるようなものだし。

ごめんねと心で謝りながらも、私は存外冷静だった。結局のところ、私は彼のことを何一つ知る努力も、好きになる努力もしなかったのだから。

まあ、考えたって始まらない。
気を取り直して何も言わない彼に「じゃあまた」と小さく告げる。不思議と無言を貫く彼の後ろ姿には何も思わなかった。

足早に隣を通り過ぎようと足を踏み出す。
これ以上居ても平行線で、轟くんを傷つけるだけならば。ここに私の残り香は要らない、必要ないのだ。
そう思って背中を向けたけれど。

「なあ、」

それでも、やっぱり轟くんは頭のネジが飛んでいるんだろう。告げたのは、確かに彼の唇だった。

それは、一息をつくよりも前の出来事。刹那道のりを阻もうとする確かな足取りに絡め取られて、行き場を無くした私の足が彷徨う。不意に光のさした廊下の片隅に、止まる二つの影が重なった。

「俺は、お前が良い。」

壁際に追いやられて初めて気付く。
轟くんって、ああ見えてとても、情熱的な目をしているんだ。

真っ直ぐに見つめてくる目は眩くて。本当、顔が良いのは得だよね、なんてどうでもいいことを考えて。掴まれた腕は振り払えなくて。ただただどうしてこうなった、と悔やむばかり。何を間違えなければ彼を選ぶことが出来たのか。

答えは誰にも分からないけど。

「好きだ、だから俺とーー、」

この会話を繰り返して幾星霜。馬鹿の一つ覚えみたいに毎日毎日飽きずに愛の告白を続ける轟くんは、言っちゃ悪いけどやっぱりちょっとどこかおかしいのかも。そして、絆されかけている私も、きっと同じくどこかおかしくなってしまったのかもしれない。





▼ヨアケインザウォーター

夜のネオンの中でしか生きられない猫を拾った。そいつは無理やり日向の中へと連れ出そうとする俺を、酷く威嚇した。どうやら名前はないようだ。
正確には ”あった“らしいのだが日くよく覚えていないとのことで、俺が拾ってやってからもその後も、本当の名前は誰も知らない。
猫を拾ったのは今からもう半年も前の冬晴れの日だった。

「何してんだ……?」
「何って……脱走?」
「危ねぇからやめろ。」

事務所から帰宅するなり、一階にあるべランダの手摺へと手をかけ身を乗り出す猫と目が合う。
俺を見ているその猫は、さも当然のように、昼の散歩にでも行くかのように手摺を超えて庭へと着地する。一見すれば、まずいことのように見えるだろう。しかし、猫と半年も過ごしてきた俺にとって、この出来事は日常茶飯事だった。
また性懲りも無く逃げるつもりなのだという着地の音と共に駆け出そうとしたそいつの腕を取り、すぐさま部屋へと抱えて連れ戻す。暴れる細い腕を掴みその顔を覗き込んでみれば、猫は如何にも不服そうな顔をして俺を睨んでいた。

「ちょっと、邪魔しないで。」
「こうでもしねぇとお前逃げるだろ。」
「そりゃそうだけど……」
「だから駄目だ。」

少し目を離せばすぐこれだ。とりあえず窓の鍵を後ろ手に閉めて猫をソファへと下ろす。不本意なのかむくれ面で機嫌を損ねたその口からは尽きない悪態が尚も吐かれているが、その実表情は意外にも柔らかい。
それこそ拾った当初を思うと随分人間らしい顔をするようになったと思うけれど。それでも毎回探しに行かされる俺の気持ちも少しは考えて欲しいもんだ。

「今にお金貯めて出ていってやるから。」
「無理に出ていかなくても、俺がずっとお前を守ってやるっていつも言ってるだろ。」

言いながら、抱えていたコスチュームケースを乱雑に投げ飛ばす。やや気だるげな足つきで猫の隣をすり抜けて、俺はリモコンのボタンを押した。そして下らないバラエティが映し出されるテレビ。俺が居ない間も生活に支障が無いようにと用意してやった家電に活用された形跡は無い。

独りでいる間、こいつが何をしてるのか、考えたことはあれど実際のところは知らない。振り返れば猫は先刻脱走を企てたことすら感じさせないくらいに退屈そうな顔をして、窓の外を眺めていた。


「テレビ、消して」
「何でだ?」
「うるさいから」

一瞥もくれずに呟いたその横顔が、今にも消えちまいそうで。思わず名前を呼ぶ。無論、俺がつけた名前を。途端にじとり、と細められた重い眼差しが返ってきたとして、それでも満足出来るくらいには、我ながら重病を患っているらしい。

猫は家につくという。
だから、恐らく彼女の家はまだ、あの暗い路地裏であって、俺の家じゃないんだろう。だからこそ、焦がれるのだ。あの夜の街角に。
昼の世界では上手に呼吸が出来ないのだと泣いていたあの日の面影が薄れても、決して消えることは無く。今も昔も猫はあの家"に縛られ続けている。

なら、いつかここがお前の居場所だと思えるように。これ以上お前に優しくない世界を見せないように。

「明日は雨らしいぞ。」
「ええ……私雨嫌いなんだよね」
「だから家出なんてするな。」
「……なに急に。」
「お前を傷つけるもんは、全部俺が消してやる」

思えば初めて出会ったあの日は大雨だった。
死んだような表情で俺を罵倒したそいつの穢れ一つとしてないオブシディアンの瞳の奥から、涙が一筋零れた瞬間からきっと俺はどっくに落ちていたんだろう。
助けを求められたら、手を差し伸べてやるのがヒーロー。だから、陽の射さない街中の隅で必死に生きてきた奴に手を差し伸べない理由なんかねぇ。
でも、それはこじつけだ。
俺はただ、あいつの笑った顔が見てみたいだけだった。抱き締めると、途端にぴくりと震える肩が愛おしいと思った。時折焦がれたあの“家"を思い出してはため息をつくそいつを、心から守ってやりたかった。

「俺がいる。」

お前のこれからは、俺が守るよ。そう抱きしめながら囁くと、人馴れしていないそいつはやっぱり頬を赤らめて抵抗する。しかしその手には本気の色が見えなかった。まるでお遊びみたいな抵抗で、腕の中に収まる小さな身体。文字通り折れそうな肢体をモゾモゾと揺らし、猫はじっとこちらの目を見据えたままゆっくりと瞬きを落としている。

尖らせた唇が、開かれる。
「ばかじゃないの」
やがてぽつりと投げ出されたのは、そんな他愛ない一言だった。

ああ、俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。
でも……馬鹿でいいんだ。
お前が俺を見てくれなくても。いつか、守れればそれで。
ああ、願わくばこいつが俺無しで生きていけないようになればいいのにな。

そんな仄暗い想いにすら、気まぐれな猫は気付かない振りを続けていくのだろうか。

誓いの代わりのキスはまだ出来ない。不意にゆっくりと近付けた唇は、残念ながら直前で腕の中から逃げてしまった彼女のそこへと届くことは無かった。


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