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※僕と溶けない約束をしよう続き

カラン、カラン
古めかしい扉のドアチャイムを鳴らす。扉を開けると独特の煙草と混ざりあったバー特有の匂いが広がった。こんばんは、気のいいマスターが声を掛けてくると同時に最後に来た時は泣き顔でしたねぇ、と穏やかな笑みを浮かべながら私と、私の隣に並ぶ人物を交互に一瞥した。

私と、彼は顔を見合わせる。互いに泣き顔だったあのひと時を思い出す。そしてその影に起きていた出来事を脳裏に描いて。


「お陰様で今は笑顔です。」


ゆったりと、笑う。私の顔もそれはそれはきっと穏やかなんだろう。

マスターは僅かに目を見開いてから「それは良かったです。どうぞごゆっくり…。」と呟いて、いつもと同じカウンターを示した。




数えてあれから丁度3ヶ月ほど経つだろうか。私たちの関係は最初こそ混沌とした出会いから始まってはいたものの、想いあってからは随分と航路順調に進んでいる。偏に彼のおかげだ。必要とされることの喜びは何ものにも変えられない。私は彼に愛されているのだと実感できるだけで、これ程嬉しいことなんて、ないのだから。

横顔をこっそり伺えば隣には優雅にマスターのオススメを傾ける焦凍くん。浮きでた喉仏が上下する。睫毛長いなぁ、そろそろ見慣れてきたかなとか思ってたけどやっぱりダメだ、かっこよ過ぎてクラっと来ちゃう。

後から聞いた話、バーで偶に見掛けていたからてっきりお酒を飲むのが好きなのかと思ってたら、彼曰く「なまえに会いたくてここに来てたから、普段はあんま飲まねえ。」とのことで…、そういうところとかがもう、本当ずるい。


話にも花を咲かせつつ、頼んだキールをこくりと飲んでいく。勢いがいつもより早いのはここが二人出会った場所で、そしてきっと隣に貴方がいるからなんだろう。私に向けてくれる微笑みを受容する度にカクテルを飲み干す回数が比例して上がるのは果たして必然だろうか。







「……なぁ、ちょっと飲み過ぎじゃねえか?」

「…………そぉかな?」

「そうだろ。」


そんなことないとおもうんだけどなぁ。まだこう見えてぎりぎりの理性は残してるつもりだ。まあ、本当ぎりぎりなんだけど。
カウンターから飛び出した脚を組み替えてチェアに掛け直す。フレアのスカートがレースを翻し音を立てて零れていった。


「マスター、水頼む。」

「かしこまりました。」

「聞いたことあるなあその言葉。」


出会いの瞬間が情けなく酒に溺れていた為か、未だに焦凍くんからはお酒に関してはあまり信用されてないみたい。まあ、こう見えて本当にまだちょっとだけ余裕があるのに、うん、まあほんのちょっとだけ。

……心配する気持ちは分からなくもない。

でもこの夜をしっとりと二人で楽しみたいのも事実で。そしてこのあと、どういう風になりたいのかも自分の中ではまだ種火として燻っている最中。まだ、帰りたくないと駄々を捏ねるけれども焦凍くんは困ったように視線を私に傾けるだけで。


「まだ大丈夫、こう見えてもね。ほら見ててこんなことも出来るから。」


訝しむ視線に思わずムッと来てしまって。
十分平常じゃない酔い回った精神が、理性を放棄して普段なら絶対に有り得ないはずの行動を起こさせる。

マスターから出されたマンハッタン。上に添えられたレッドチェリーのヘタを唇で挟んで舌で弄ぶ振りをした。その途端に彼の顔つきが変わる。その顔には見覚えがあった。少しだけ不機嫌なその中に、瞳の奥の僅かな欲情の色。



「飲みすぎだ。」

「そこまで飲んでないってば…。」

チェリーのヘタを特に意味もなく口の中でもごもごしながらやっとの思いで結んで見せる。「あっ、ほられ!れきた!」柄にもなく大きな声で舌をべ、と差し出してチャレンジ成功への喜びを全面的に押し出していたのもつかの間。やはり成人男性をお酒の勢いに任せて煽るべきではないのだと、改めて思い知る。


「…ちょ、」

「………。」


めいっぱいの欲に染まった目がじとりと私を睨む。その仕草に荒々しい作法は特段感じられなかったが、早急に、急いでいるといった雰囲気は掴み取れた。自身のグラスの底板に残った僅かなカクテルを飲み干してから、少しばかり熱を持ったその手で「行くぞ」と私の手を掴んで出口へと連れ始めた。


「へっ?もう?やだもうちょっと…」

「もう充分楽しんだだろ。」

「えーー、」


私の飲んだ分まで全部スマートに支払った後、最初と同じようにドアチャイムを鳴らす。ありがとうございました、とカウンターから聞こえてくる。耳が拾ったその声の方向を、少しだけ歩くのが普段より早い焦凍くんに連れられながら一瞬だけ振り返ってみれば、妙齢のマスターと目が合う。その皺を程よく刻んだ目は、まるで悪さをした子供を優しく見つめているかのような、親のような柔らかさを纏っていた。



そして二人は夜の街の路地へ。辺りは誰もおらずひたすらに静寂だ。道をひとつ挟んだ反対の通りはまだまだこれから、といった様相を醸しているが、ここは全くの別次元だった。

あれ?帰り道こっちじゃないよ…と物言いたげな襟足に向かって声をかけると刹那腰を引かれ焦凍くんの腕の中に閉じ込められる。強く、強く私を掴んで離さない腕が背中から腰つきをゆっくりと確かめるようになぞり、浮ついてすっかり彷徨していた脳内がにわかに甘い悲鳴をあげた。


「や、え…なにす、」

「二人で来てて、良かったな。」

「どういう意味……、」


恐る恐る顔を見上げると、月明かりを背負った雄の顔。神秘的な顔つきなのに、まるでそぐわない劣情を伴っている。どくんと心臓が高鳴って、視線が反らせなくなる。


「なまえ独りだったら、こうやって…」

「え、しょ、焦凍くんここ外っ、ひゃ…!」

「悪いヤツに悪戯されちまってたかもな。」

「や…!」


お尻を鷲掴みにされてようやく、宙に浮いた夢心地の理性が私の元に戻ってきた。しかし平静を取り戻し始めたところでもう遅い。そして焦っても全ては後の祭りだ。

煽ったという事実に対しては自分でも自覚している。私はあの時、明確な意思をもってわざと“あんな真似”をしていた。酔っていても自失するほどはしたなく振る舞うつもりは更々なかったし、ああやって煽ることで少しでも私のことを考える時間が増えてくれたらな、と欲張った結果があれだった。

効果はどうやら的面のようで。


「んぅ、」

「ーー、っふ」

重なる唇と唇。柔らかくて甘いそれにいつだって酔わされている。アルコールに頼らなくとも、悔しいほど夢中なのに。果たしてこの溢れる想いはどのくらい貴方に伝えられているのだろう。
貪られるほどに激しいけれど、それでも吸い付く舌は優しい。何もかも、あの夜のまま。覚醒途中の思考でぼんやりと焦凍くんの長いまつ毛と背部の月を眺めてから、私は身を任せるように目を閉じた。


後悔はしていない。ただやり過ぎた、と思うだけ。しかし世間から隔離された路地裏での秘め事は、悪戯と呼ぶには刺激が強すぎて。回された腕が変わらず身体のラインを絶えずなぞり続けている。吐息が漏れるのを抑えられなかった。今誰か私たち以外の人にこの姿を見られたら……、そう考えるだけでぞわりと背徳的な悪寒が背筋を這っていく。


「んっ、ふ……」


うっとりと月を正面に見据えて、開放された唇で浅く呼吸を繰り返す。彼が支えてくれていなければ、危うくくず折れていただろう。身体を支える力さえも奪われてしまって、ちょっと情けない。キスだけでこんなにされるなんて本当変わらないなぁ。


「大丈夫か……」

「んん、らいじょぅぶ……。」


じゃない。何も大丈夫じゃないよ焦凍くん。縋るように熱の篭った瞳で真っ直ぐにその目を見つめる。その後に続く言葉なんて決まりきっている、濡れた唇を開いて涙目のままに私はこう告げるのだ。もっと私を見て、と。


「もっと、………欲しい、です。」



ジャケットの裾を握り締める。視界の端に見える人通りの疎らな路地にはお誂え向きのネオン街が連なっていることを私は知っていた。何も言わないけれど、きっと目で驚くくらいに愛してくれと語りかけているのは歴然だと思う。焦凍くんの喉が不意に上下した。


もっともっと深くまで。誰も届かない深淵までお互いにどろどろに溶けてひとつになってしまいたいの。まだまだ足りないんだよこれだけじゃ。口付けを強請り尖らせた唇を早急な仕草で彼が奪う。お酒の匂いとはまた違う香りが色濃く満ちた。


浅ましくてごめんなさい、でも、きっと貴方は許してくれるはず。薄らと開けた瞼のその先には同じく愛おしげに見つめる双眸があった。ああ、ほらね。やっぱりそうなんじゃない。

はなのいろは

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