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※ローズオブメイ続き


昼想夜夢とはよく言ったものだと思う。今はまだ昼とも夜ともつかない時間ではあるが、すぐにでも沈み切ってしまいそうな斜陽を背に受けながらそんなことをふと思った。

昼に限らず朝から、強いて言うならば数ヶ月前からずっと。抱き続けた想いが今左手から繋がる温もりに帰結している。前から危なっかしいなと思っていた、行きでも帰りでも変わらず爆睡していた通学中に出会う女子の姿から、目が離せなくなったのは少し前からのことだ。


そして今日、最寄り駅の凝山中央駅にいるはずのない姿を見つけてから、その想いは加速した。

正直いつかやるんじゃないかと思っていた状況に、女生徒もといみょうじが陥ったのは、今思えば声を掛ける為のまたとないチャンスだったのかもしれない。
しかも乗り換え最終電車を逃し駅前で途方にくれていた、とそいつは言った。

時刻は19時を回ろうとしている。
日が沈み本格的な夜の到来を告げる時間。

放置するという選択肢があるわけもない。自宅を目前にしたこのプラットフォームで、回り出す歯車の歪な音を聞きながら、俺は無意識に華奢な腕を掴んで連れ出していた。


そして

「いやぁー!大丈夫ですから、放っといてくださいー!」

「明日も学校あるだろ、今日良くても明日どうすんだ。」

「全力で何とかするから大丈夫!」

「大丈夫じゃねえよ。」


先刻半ば無理やり腕を引いて連れ出した丸い目の女生徒は、依然物凄い顔をしながら抵抗を続けていた。想像より激しい抵抗を受けて、より一層離さねえようにしっかりと握りしめた手のひらは存外小さい。至って女子らしい手をしている。

顔は赤とも青とも取れない色合いで。どうやら掴まれた腕を引き抜こうと必死らしい。

最初こそ早口でよく分からないことを吐き喚いていたのだが、何故かみょうじはプラットフォームから、降り立った凝山中央の街中へと連れ出したそばから直後、一転して途端に静かになった。

それでもなお腕を離そうと弱くもがき続けていたのに、急に抵抗が緩んだかと思えばみょうじはふと、遠くに望む山あいが藍に染まっていく様を眺めて、一言「あぁ…」とボヤく。

眉間には深い皺。
そして女子らしからぬ低い呻き声。

百面相だな、と面白い生き物を見るような目で、大人しくついてくるその姿を眺めていたのも束の間、みょうじは再び黙り込んで目を強く閉じ破顔した。

空いた片手で額を押さえ俯き加減にまた唸りながら。割り切れない様々な感情を嚥下するのに苦労している、そんな顔だった。


抵抗を見せていたのもわずかの間だけだったらしい。
項垂れながら歩く背中が引かれるがままに後ろをついてくる。大人しくなったすぐ後に、みょうじは「お、お世話になります…。」と一言呟く。家までのこり300mもないような現在地での出来事だ。


その事実が俺にとってはすごく好都合だということも知らずに、見慣れない街を俺の隣に歩む困り顔。どこにも行けずただただ戸惑うばかりの致命的なミスをおかしたその顔を、みょうじには悪いが可愛いと思っちまったんだ。

夏、ひぐらしが鳴き連ねる桜道を、一人の女子の腕を引いて自宅を目指す。行きなれた道は、何故か今日だけ足取りが軽かった。

こんなにも家が待ち遠しいと思うのは最初で最後かもしれない。





「着いたぞ。」

「…………。」


見慣れた自宅の大きな門の前に立つ。

面識がない女子を家に招くのは初めてだった。そもそも友達を呼んだりなんかした記憶がねェな。誰かを家に招くという行為自体初めてだ。

そういや確か姉さんが今日は学校の宿直で帰らないって言ってたような気がする。……デカ過ぎる家に年頃の男女が一組、それは流石にまずい、だろうか。
飯田辺りに知られたらすげぇ怒られそうだと他人事のように思いながら顔には出さずにみょうじの様子を伺う。

重要なことをよりにもよって今玄関先で思い出すという俺の内情を知ってか知らずか、みょうじは和造りの豪奢な門構えに萎縮していた。


「これは、旅館かなにか……で?」

「そんな、大層なモンじゃねえ。」


好奇心と遠慮を織り交ぜたなんとも形容しがたい目で俺の顔を玄関先を交互に一瞥するみょうじ。まるで落ち着きのない小動物だ、と思わず微笑ましくなった。

………やっぱりこんな危なっかしい奴を一人駅前で野宿なんかさせられるか。連れてきてよかったと今になってそんなことを思う。

まあ、連れて来ちまった以上はしょうがねえし…なるようになるだろ。


鍵を片手に後方に小さく控える少女へ声を掛けると、彼女はビクリと肩を震わせて「あ、お邪魔します…!」と駆け足で近付いてきた。それはもう無防備な表情で。丸い目がいつだって印象的だった。

ああ、やっぱ小動物みたいだな。




居間まで進むと食卓には既に焼き魚と副菜がいくつか並んでいた。姉さんが用意してくれたものだというのを瞬時に理解して安堵した。今日も変わらず姉の料理は美味そうだ。

一人で食べるには少し多いような気もしたが、何分今日はみょうじがいる。
ちょうど良かったと並んだ皿を程よく自分の方と対角の向こうへ寄せて、部屋の端に棒立ちになっていたみょうじに再び軽く声をかける。

「先風呂入るか?」

「あえっ、いやお気になさらず!」


ぎこちない反応を見せるみょうじ。よく見ればその大きな目で部屋の外や隣の部屋の様子を探る素振りをしていた。

「どうした?」

「……いや…その…」


言い淀み、引き続き目を泳がせる。後ろ手を組んだかと思えば、目線を空間の端から端まで漂わせてみょうじは眉を顰めた。


「ご、ご家族の方とかは?」


挨拶とかお礼とかしたいんだけど…。至極まともな言葉を苦笑いと共に彼女が呟いた。あくまで俺とは目を合わせず、心なしか青かったり赤かったりどちらとも取れない色合いに顔を染めながら、依然襖の前に立ち尽くしている。

薄々、違和感に気づき始めているのだろう。家人の気配が何処にもないことに。


「……あぁ、」

……本当のことをそのまま伝えたら二言目には帰るって言いそうだな、と独りごちる。

それは、ここまで連れてきた以上出来れば回避したい。しかし嘘をついてまでみょうじの心につけ込みたくないと思う自分も同時に存在している。どう伝えるのが一番だろうか。



「親父は基本あんま帰ってこねぇんだ。普段は姉さんがいるけど今日は仕事で家に居ねぇ。……俺以外は今日誰もいねぇな。」


結局のところ素直に話すしかなかった。
事実をそのまま単語で並べて述べればみょうじの顔が面白いくらいに歪んで、形の良い唇が横に引き伸ばされていく。頭に浮かんだのは帰る、と駄々を捏ねるみょうじの顔。

スローモーションにも似た感覚に研ぎ澄まされ、次の言葉を待ってみれば


「やっぱり帰ります。」

僅かに逡巡したような間が流れた後、迷うことなくみょうじはそう言い放った。出てきた言葉はまさに想像通りの言葉で。同時に流石にそれは色々まずい、といった顔が現れる。

勿論放り出すなど微塵も考えていない俺も被せるように食い気味に反論する。このあたりはいくらさほど治安が良いといっても今は夜だ、制服の女子が彷徨けるほど安全ではない。



「駅前、なんもねぇのにどうやって一晩過ごすんだ?」

「駅構内ならなんとか…」

「終電過ぎたら閉まるぞ、あそこ。」

「……公園のベンチ、」

「危ねぇだろ。」

「うぐ、」


言い負かしてその場に留めるまではあと一押し、と言ったところか。「悪いことは言わねえから泊まってけ。」と追加で言い添える。みょうじは更に後退して百面相を再開した。

くぐもった声を発して押し黙る目の前の人間は、自分とはまた違った存在だと思った。

何もかもが違うからこそここまで惹かれたのかもしれない。

折角姉さんが作ってくれたのに冷めちまう、と皿に盛られた夕食を一瞥するとつられてみょうじも卓上を見た。……沈んでいた瞳が僅かに揺らぐ。次いで響き渡る素知らぬ腹の音。他でもない彼女が腹を鳴らしたということは一目瞭然だった。

「……。」

直後恥ずかしそうに見つめてくる目と視線が交錯する。………腹の音には、あえて気付かないふりでもしとくか。表情を変えないようにして不安げな瞳を真っ直ぐ見つめ返す。


「…みょうじが気にしねぇんなら俺は別にいい。」

「……ほ、本当に?知らないよ?」

「気にしてたら連れて来てねぇ。」

「………確かに。」


その言葉に漸く本当の意味で全てを諦め悟ったらしい。


本日二度目の「……お世話になります。」という台詞が彼女の口から遂に飛び出す。「助かります」という礼と共にきっちり90度近いお辞儀が添えられた。


灯されていた緊張の糸が解ける。なんとか引き止められたな、と気付かれない程度にため息を吐き出してから、取り繕うように俺は「気にすんな」と告げて再度皿をみょうじの方へと寄せた。


気にするな、というのは無論本心から出た言葉だ。まあ、けして下心がない、という訳ではなかったが。困ってる人がいるなら助けたい、それが気になる相手だとしたら尚更だと思う。

みょうじのこと、知りてえと思った時から、強いて言うなら、行きと帰りの車内でふと俺の肩にもたれかかって眠りについていたあの日から。

こうしてみょうじと面と向かってちゃんと話せる日を、俺はずっと待ち望んでいたんだろうな。依然まだ借りてきた猫のように縮こまるみょうじの顔を見ると不思議そうな顔をして「…なにか?」と呟いた。

今日の我が家は今までの恐ろしさや怒りが少しだけ生りを潜めている。それは紛れもなくこの場にいる白昼夢さながらな女生徒のお陰なのだろう。


「いや、なんでもねぇよ。」

不意に溢れる笑み。みょうじは尚も首を傾げてこちらを見てきたが、俺はあえて何も言わずに話題を逸らして夜に繋がる襖を閉めた。


デイドリーム

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