私の名前は名前。どこにでもいる、と言うには少しばかり珍しいのかもしれないが、子爵の娘である。歳は今年で16歳。良くも悪くも価値のある年頃になったとして、現在とある侯爵家の御子息と絶賛婚約を正式に結ぶための会談にいざ挑もうとしているところだ。

ぶっちゃけ昨日までの私はまさかこんなことになるとは夢にも思っていなくて、将来の旦那様になるかもしれない殿方に思いを馳せていただけの小娘に過ぎない。貴族の娘である以上、好きになった人と一緒になることは出来ないけれど、それでもやっぱり夢を見ずには居られなかったという訳なのだ。

さて数日前から何やら明らかに浮き足立っている我が家だが、何を隠そう今日はハテノ地方を治める領主、エンデヴァー侯爵のご子息様と初めてお会いする日である。婚約の申し出はどうやら向こうのお家かららしい。噂によれば御相手は大層麗しいお方とのことで、侯爵家の御子息ともなれば王侯やら有力貴族の令嬢やらにこぞって婚約を申し入れられているであろうことは想像に難くない。

そんな何もかも揃っているような御方がどうして私なんかと、と最初はとても訝しんだ。私にもそれなりに子爵家令嬢としての自覚があったんだろう、あの時はまだ。
けれどまあ、父様母様がこれでもかとお喜びになるものだから、つい緩んでしまったとでも言いますか。
知らない方がいいことも世の中にはあるし、多分そういうことだってあるよね!なんて気軽に片付けスルーした昨日までの私を兎に角殴りたい。

とりあえずただ一つ確かに言えることは、今私をきつく抱き締めている御方が全く見覚えのない殿方であるということだ。そして、この御方に抱擁されるということも、全く身に覚えの無い行為だった。



「あっ……あの…!?」

正直何がどう転がったらこんな初対面の殿方に抱き締められる事態に発展するというのか。
応接間に入ってからは特段変わったこともなかったと記憶している、が如何せん初対面であるはずの御方が部屋にダッシュで突入してきてから「名前…っ!」なんて切なげな声を上げて私を抱き竦めるまでの時間があまりにも短すぎて(……え、抱き締められてる?)と頭が理解するまでしばしの間を要してしまった。

眼前には色鮮やかな緋と銀の柔らかそうな御髪。そして、まるでずっと前から焦がれていたとでも言いたげな雰囲気で「やっと会えたな」なんて囁いているのは透き通る黎明の様な声。どれも全て同じ人物のもの。

エンデヴァー侯爵家の御子息、私の婚約様(仮定)。お名前はショート様と言う。家柄、才覚、容姿まで全て兼ね揃えている、私のようなしがない子爵家令嬢には到底釣り合わない天上の御方ながら、何故か私に求婚してきて下さった物好き……否大変見る目のある紳士である。

と、そんな今日初めてお会いするはずのショート様なのだが、現在私は彼から何故か熱烈すぎる歓迎を受けていた。




「あああ、ああ、あ、の!!」

あまりにも許容範囲を超えた出来事を前にして、普段トラブルとは無縁の生活を送っていた反動なのか、ありえないほどに声が詰まる。
今までそれなりに勉学にも励んできたし、大抵の事は上手く対処出来るという自負もあった。けれどいざ想定を遥かに超える出来事と出くわしてしまうと人間誰しも頭が真っ白になってしまうらしい。

この行為が失礼に値するのか否かはさておき、詰められた距離を離そうと身を捩る。幸いにもショート様の腕にはさほど強い力が込められていたわけでもなかったようで、割とすんなり開放されることになった………のだが。

「ーーーふ、」
「え…………?」
「っ、悪い。」

ショート様が吹き出したのは、その時のことだ。

「悪い、笑うつもりは無かったんだが……」
「ショート様……?」

整った精巧な御顔が、楽しげに弛み笑っている。そしてその目には勘違いと呼ぶには不釣り合いな程に慈愛に満ちた色が浮かんでいた。
勿論、初めてお会いする方に向けられていい目ではない。婚約を申し込まれたとはいえ、私達はまだお互いのことを何も知らないのだから。……じゃあ、これは一体なんだと言うのだろう。しばし考えても、分かったことは結局“何が何だかよく分からない”ということだけで。

そのままわけも分からず無言でショート様を見つめる。ショート様はやっぱり優しげな眼差しをしていて、今になって彼の顔の良さを再認識させられた。
この先この御方の妻になる(かもしれない)のかぁ、いや考えたら急に恥ずかしくなってきたんですけど。

今の私の顔を一言で言い表すなら、きっと百面相という言葉が相応しいに違いない。ただでさえも非現実的過ぎる状況なのだが、その時不意にショート様が私の頬へと手を伸ばしてくる。

「ひえっ、な……何を……?」
「…………。」

聞き返しても、彼は無言のまま。御顔は変わらず笑みを湛えていて、真意は読み取れない。
今一度「どうかされましたか?」と恐る恐る聞くと、漸くそこで頬に手をやったままのショート様が口を開いた。

「いや、本物かどうかちょっと確かめたくなっただけだ。」
「本物……?」
「ああ。お前にまた会える時が来るなんて、夢にも思ってなかったからな。」

漸く交わせた会話らしい会話なのに、彼の仰ることはやっぱりよく分からなくて。頬を軽く撫でられて、びくりと肩が震えた。最早瞬きと困惑しながら相手を見つめ返すことしか出来ない私。そんな私を尻目に、対してショート様は尚も続ける。

「名前……」
「は、」
「こっち、見てくれねぇか。」

ショート様の瞳は、なんというか上手く表現出来ないけれど思わず魅入るくらいに綺麗だ。魅入ったまま戻れなくなってしまうんじゃないか、とそんな要らない心配が私の頭を過ぎる。ふと怖くなって目を逸らしたが、目の前の御方はそれがどうやらお気に召さなかったらしい。甘すぎる言葉と共に顔を優しく持ち上げられてしまっては、いよいよ意味がわからない。

私たちは、本当に初対面なのだろうか。今になってその考えが出てきたところでもう手遅れであることに、変わりはないのだけど。

「ショートさ、」
「好きだ。」



次いでその後に囁かれた「ずっとおまえを待ってた。」という一言の意味さえ分からないまま。なんとか開いた唇から出た一言が何故か彼の唇に吸い込まれそうになった、その刹那。

「お取り込み中のところ失礼致します。」

背後から、おかしな空気を切り裂くかのように咳払いがひとつ。音の方向を振り向くと、そこにはにこやかな笑みを浮かべてこちらを見つめる一人の女性が立っていた。



「準備が整いましたのでご案内にまいりました。」
「…………。」

あまりの事態に声が出ない。呆然と立ち尽くしていると直後、何事も無かったかのように告げられる。一方私とショート様はといえば、まさにキスする一歩手前という状態。私に至っては更に呆けた表情で為す術なくショート様に身体を預けている真っ最中なのだが、対して彼は私の肩に手を置いたまま、何故か声の主を睨んでいる。

「おまえ、いつから見てたんだ。」
「さて?何のことでございましょう。」
「……わざわざタイミング図ったのかよ。」
「いらっしゃったばかりの花嫁様を怖がらせてはいけないと思いましたので。」
「……チッ、」


気付いたショート様が僅かに私から離れて女性に近付いた。見る限り、どうやら彼女はこの屋敷の使用人らしい。ぴしりと背筋を伸ばし、主人の詰問にもあまり動じていない様子の使用人さんは一通りショート様に聞かれたことを返した後、にっこりとこちらに向けて微笑む。つられて私も思わず会釈をしたが、嫌な笑顔には見えなかった。

私にとって目の前で繰り広げられた会話が一体何の話なのか全く理解出来ていなかったとして、お二人の間では話が通じているらしい。その証拠に、まるで阿呆面を晒している私を置いて双方の間にはひりついた空気が先程から漂っている。まさかこの御顔から舌打ちが飛び出す場面に出会すことになるとは。先刻まで私に向けられていた視線があまりにも柔らかかったからなのか、そのギャップには戸惑うばかりだ。


「さあほらショート様、あまり怖い顔なさらずに。既にお部屋のご準備は済んでおります、どうぞお越しくださいませ。」
「……分かった。」

使用人さんとショート様とを交互に見遣るしか出来ない私を置いてけぼりに、話は尚も進んでいく。聞くところによると、何やら別の部屋に通されるらしい。まだ侯爵様の邸宅に到着してから幾ばくも経っていないが、もしかしてそれなりに歓迎されているのだろうか。そのまま深いお辞儀をひとつ残して、使用人さんは部屋を出ていった。あとには私から絶対に一定距離を離れようとしないショート様と、間抜け面の私だけが取り残される。

ショート様は扉の方をバツが悪そうに眺めていたが、やがてため息を落とすと再度私に向き直って「ごめんな」と呟いた。

「何がでしょうか……?」
「いきなりで驚かせただろ。」

おまえに会って正直浮かれてた、とショート様。浮かれてた、で済ませるには生憎色々なものが足りてないと思う……てのは私の談だ。が、無論そんなことは口が裂けても言えないので「大丈夫ですよ。」とだけ伝える。到底大丈夫じゃないのは、火を見るより明らか。けれど私の返答を聞くなりショート様は明らかに安堵したような笑みを浮かべながら「良かった」なんて言うもんだから、それだけでこの後聞こうと思っていた疑問が全て霧散してしまうのも、まあ仕方の無いことだろう。

「ところで、先程の準備というのは……一体?」
「ん?……あぁ、そうだったな。」

ふと思い返したように、私は話を先程の準備とやらに戻す。何か私の為にご用意頂いたものがあるなら、引き伸ばしてしまうのも申し訳ないと思ったが故の発言だ。

「おまえの部屋を準備させてたんだ。」
「ええっ、わ、私の部屋??」

しかし、ショート様から返ってきたのは予想だにしていなかった一言で。……え、今私の部屋って言った?

またもや理解が追いつかない状況に陥り、今度こそ隠せないくらいの困惑に顔が染まっていく。ここまで来るともう、“そういうこともあるかもしれない“では済まされない。……いやまあ最初からショート様の御様子はおかしかったけども。

私の様子が途端に変わったことに対して驚いたのか、ショート様が「どうした?」と顔を覗き込んでくる。


「何故私の部屋までご用意頂いたのですか?」

ほぼ断れない縁談とはいえ、今日は一応正式な協定を結ぶための顔合わせの日だったはず。それが何故私の部屋を準備させるということに繋がるのか。恐る恐る聞くと、刹那彼の硝子玉の様な瞳が大きく開かれ、瞬く間に「?」という表情になった。如何にもどうしてそんなことを聞くのか分からないといった雰囲気で、私の目を見据えている。

「何故も、何も」

僅かに眉間に皺を寄せて、私と同じように少し困惑を滲ませたとして、この御方の御顔はやはり美しい。瞬きひとつ取ってもまるでミルククラウンのように見えるのだから不思議である。単純な話私は忘れてしまっていたのだろう。初めてお会いしたショート様が、あまりにも完璧過ぎていて余計に現実味を帯びてこなかったというのもあるかもしれないが。

「今日からうちに住むんだから、おまえの部屋を用意するのは当然じゃねえのか。」
「……はい?」


そういえば、この縁談は私が思っていたよりずっとお家的に重要なものであると以前父様が言っていた。あの時はそこまで気に留めていなかったけど、ある日突然相手方の領地に放り出されることになるって分かっていたらもう少しちゃんと考えただろうに。

「あ、あの……ショート様……」
「なんだ?」
「つかぬ事をお伺いするのですが、私とショート様は……その、」

今になって、漸く今回の縁談が断れないものだということを本当の意味で思い知る。そして、そういえば婚約を申し入れて下さったのはショート様からだったということも同時に思い出す。

私としては、今日はまだ未婚の身だと思っていたのだけど……しかしショート様の歓迎振りやら使用人さん方の態度から見るに、私と彼らではそもそもの前提が違うのかもしれない。

もしかして既に婚約成立しているのでしょうか。

聞けば刹那ショート様はさも当然といった表情を見せる。次いで「知らなかったのか?」なんて目を丸くしながらさらりと言い放った。

知らなかったのか、と言われましても。私は何も聞いていない。父様からも母様からも、屋敷の使用人さんからでさえ、何も。昨晩だって「明日は大事な日だからな」と早く寝るよう父様から言われただけで、既に婚約が成立していることなんて一言も言われていないのだ。

「何も、聞いておりません。」
「じゃあ今日から住むって話は、」
「今日は正式な婚約の取り決めだとばかり……」
「子爵からは結構な量の家財を受け取ったって聞いてるんだが。」
「えええ、い、いつですか!?」
「おまえの乗ってきた馬車の後ろに何台か荷馬車が居たらしいから、今日だな。」

何それ本当に聞いてない。……どういうことですかお父様!何かの手違いで伝え忘れただけかもしれないと淡い期待を抱いていたが、どうやらそういう訳でも無いようだ。明らかに故意で事実を隠蔽した節を感じ取った私は今朝の出来事を思い出そうと頭を捻る。出立の見送りの時、それから前日の夜。うーん、特に何もなかったなぁ、やっぱり。考えても婚約成立を伝えようとする素振りは微塵もなかった。

「なぁ、」
「え?……あ、はい!」

自身の考えに没入していたその時。不意にショート様が不安げに私を覗き込む。何となく、エンデヴァー侯爵のご子息がこんな御顔を為さるのかと呆けていたのもつかの間、不意に彼の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いた。

「今更こんなこと言うのもおかしいとは思うんだが、」

最初から既にどこかズレている顔合わせである。だから今更何に驚くことがあるというのか。けれど仮に頭で分かっていたとして、実際口に出して本人から改めて告げられると、どうにも私は平静を保つことが出来ないらしい。
言葉とは裏腹に言い淀むような雰囲気は無く、僅かに瞳が揺れただけだった。無言でひたすらに彼の紡ぐ二の句を待っていたその時、ショート様が「俺と、結婚してくれねぇか。」と呟く。

「えっと、」
「悪い、今はおまえが断れねぇってこと分かってて言ってる。」
「それは、どういう……?」
「そのままの意味だ。おまえが戸惑うのも分かるけど、俺もこれだけは退けねぇ。」


どうしてそんなに私を、と思った。けれどそこまで言われてしまうともう、何も言い返せる気がしない。まあ、元々言い返すつもりも毛頭なかったのだけれど。
ただ黙って御顔を見つめ返すしか出来ずにいると、ショート様が再びそっと近付いてくる。そのまま掬うように手を取られて、指に何かが嵌められたような感触が走る。

「これで、俺が本気だって信じてもらえるか。」

一体何の話だろう。なんて、聞ければ少しは楽だったのかもしれない。
ふと自身の手を見ると左手の薬指に、立派な指輪が輝いていた。ガーネットらしき大きな赤い宝石を中央に湛えた指輪、造りからしてもかなりの逸品であることが伺えるそれは、今しがたショート様が私の指に嵌めたものである。

「え、あの、これってもしかして、」
「婚約指輪だな。」
「ええ、そうだと思います……思います、けど!」

見た瞬間から婚約指輪であろうことは何となく察していたが、問題なのはそこではない。どうして今のタイミングで渡されたのか、私にとってはそれが重要だ。

こういうのは、いくら決定事項であるとはいえちゃんとした場所で然るべき流れを踏んでから受け取るべきなんじゃないの?そもそもまだ肝心のエンデヴァー侯爵にすらお会いしていないのに勝手に話を進めて問題は無いのだろうか。

「まだ納得出来ねぇか?」
「いえそんなことは!ただその、勝手に進めるのはアリなのかと思いまして……」
「おまえの家からは結婚について承諾も貰ってるから大丈夫だ。」
「そういう問題ではないような……。」
「いや、そういう問題だろ。」


そう言ってショート様は私の手を取り、あろうことか手の甲へ唇を落とす。思わずひえ、と間抜けな声が出た。こういった出来事に、私は生憎慣れていない。

「俺がおまえと結婚したいってだけの話だ。」

こちらを覗き込む整った顔が、眼前に迫った。「あと、おまえは知らなかったみてぇだけど、」尚もショート様は続ける。私は覚束無い思考のまま、彼の言葉に耳を傾けるしか出来ずにいる。

「そもそも全部決まっちまったことだしな。」
「と、言うと?」
「色々考えてるところ悪いが、おまえはもう俺の妻ってことになってる。」
「……なるほど。」

考えるだけ無駄だということ、そんな肝心なことを私はどうやら忘れていたらしい。
ああ、そうだ。そうだったよ。これは、そういう話だった。衝撃で忘れかけてたけど、話によると私達はもう結婚していることになっているんだった。

今度こそ分かってくれたか?なんて呟くのはショート様の僅かに緩んだ唇で。先程危うく重なりそうになっていたことを忘れさせるくらいの柔らかい笑みを浮かべたまま、かの人は私を愛おしげに見つめている。

もうこのままどうにでもなっちゃえばいいか、なんて考えが一瞬芽生えた。そんな風に考えてしまった理由は多分、ショート様から絶えず注がれているあの熱っぽい視線に充てられたからだ。

ショート様からの問いかけに私は無言で頷く。顔は尋常じゃないほどに熱を持っていて、明らかに赤面していることが自分でも分かった。

元より選択肢は存在していない。だから私が彼に返す言葉も、最初から何も変わるはずがなくて。

「どうぞよろしくお願い致します。」
「ああ、」

必死で赤面を隠そうと頑張っても、まさに時すでに遅しというやつである。どうしようも無いほど真っ赤になった私と、それを見て吹き出すショート様。初対面では美しい人だと思ったけど、笑うと意外と年相応に見えるんだな、なんて。まだまだお互い知らないことばかりだけど、まあこれから追々知っていけばいいか。

この後私はショート様のことを嫌になるほど思い知らされる羽目になるのだが、それはまだしばらく先の話。



運命の人※ーー話IF


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