生まれてこの方、ハプニングには幸か不幸か恵まれてきた。例えば血気盛んな亜人族に喧嘩を売られ、活火山の火口で戦わされたこととか、例えば領主の屋敷に言われなき罪で幽閉されたりとか、それこそ挙げたらキリがないような、そんな人生を送っていた。

とはいえ毎回何が起きても何とかしてきたし、取り返しのつかないような大惨事になったこともない。それらの結末はまあ、私にまだ守るべきものが無かったから、と言えなくもないのだが。

兎も角。ハプニングには慣れていた。こんな小さなトラブルで、伝説と謳われた召喚士が狼狽えるはずもないと思っていた。何事も落ち着いて、状況整理をして、それから対応策に着手すれば怖いものなんか何も無いのだと、私は知っていたのだ。

今や世の中は落ち着いて状況整理した者が笑うように出来ている。結局世の中アタフタするよりどっしり構えた者の方が強いということなのだろう。昔から英雄譚に名前を残すような人物は大体マイペースだと相場は決まっている。だから、今回もきっとそんな大事になんてなるはずがーー、






「いや、そんなわけないでしょ。」

今までのが全部前振りだとは言わない。


けど、やっぱり世の中には理解の範疇を超えるどうしようも無いことがあるのもまた事実らしい。

「まず説明していただけますか?」

先刻「幸いにも大事には至らなかったので御安心ください」と呑気に呟いたお医者様へと詰め寄る。その人は何ともおかしく口の端を曲げて「長くなるんですけど、大丈夫ですか?」と言った。

大丈夫じゃないことは火を見るより明らか。だがしかしそれよりも憂慮すべき事態が、どうやら私にはあるようだった。それは、あの数日前にお見合いをした私と瓜二つの顔をした令嬢がこの部屋にいることでもあり、またショート様が件のご令嬢の手を取って、さも愛おしげに微笑んでいるということでもある。どういう事か分からないって?そんなの、私にも分からない。

おかしいな、先程お医者様は“大事には至っていない”と確かにそう仰っていたはずなのだが。ねぇ、本当どういうことなんですか?

丸2日の昏睡から目覚めて早々これは、きつい。元々ショート様も私もトラブルメーカー体質ではあるけれど、やっぱりきつい。どうしてくれるのだろう。

とりあえず、私に現状残されている選択肢は状況把握、それしかないらしい。諦めて大きくため息を吐いてから、再度ショート様とこちらとの間に視線を泳がせたお医者様に向かい合う。刹那、背後から私ではなく、私にそっくりなご令嬢のことを何故か名前と呼んだショート様の柔らかい声が響いた。











ーーーーーーーーーーー

生まれてこの方、自分の身の回りの事で特段不自由をしたことが一度もなかった。それは幸か不幸か、自身の出自と運の良さが関係しているのかもしれないし、あるいは親父の元で働く使用人達が良くしてくれていたから、ということにもなるのかもしれない。

ところで聞くところによれば、どうやら俺は薬を盛られたらしい。それを名前によく似た顔の魔法使いの口から告げられて知ったのが、つい今しがたの出来事だった。

肝心の名前は、何故か親父に呼ばれたきり戻ってこず、そこに入れ替わるように入ってきたのがこの魔道士である。名前と見紛うほどに瓜二つな顔をしたそいつは俺の専属で付いている奴なのだが、部屋に来るなり「ご無事で何よりです」と呟いて、俺の側までやってくる。その問いかけに答えようとしたその刹那、自分の中の違和感に気付いて上手く言葉を出せなくなったのは多分さっきこいつが言っていた薬のせいだと思いたい。



屋敷の奴らは大体把握している。そして俺に直接仕えているこの魔道士のことも、知っている。ただ、俺が戸惑ったのはそういうことではなかった。


「おまえ、」

想像したより重く響く呼び声。眉を顰めて目の前の女を注意深く見つめる。

何かがおかしいと、そう思った。


こいつのことを知っているはずなのに、知らないのは、何故だろう。それこそ昨日交わした会話まで思い出せるのに、何故かそれが現実にあったことなのだと自信を持って認識出来ない、とでもいうような。

眉間にあからさまに皺を寄せて押し黙った俺の様子に気付いたのか、ふと目の前に立っていたそいつが「ショート様」と名前を呼ぶ。

「………何だ。」

「いえ、難しそうな顔をされていらっしゃるなと思ったので。」

「……いや、大丈夫だ。」


見抜かれた瞬間、どういう反応をすればいいのか分からなくなるのはきっと今に限ったことじゃない。それなのに、どうして何時も顔を合わせていたはずのこいつを前にするとこんなにも頭がざわめくのか。

何となく、盛られた薬のせいであることは分かっている。とは言っても同時に数日すれば治るとも言われているから特段慌てる必要も無いというのが実の所だったが。記憶に影響が出ているとして、今更当の本人に何か出来ることなんてあるのだろうか。話を聞くだけ聞いて、そして“ある人物のことを正しく認識することが出来なくなった“と言われたところで、実感なんか湧くはずもない。


とりあえず、何か言葉を発さなければ。
思い立った俺は無意識に口を開く。突いて出たのは先刻部屋を出た名前のことだった。


「なあ、」

「何でしょう?」

「アイツがいつ戻ってくるか知らねぇか?」


出口の扉の方を一瞥して、そう魔道士に問い掛ける。直ぐに戻ります、と囁いて部屋を出ていった彼女。あれから既に割と長い時間が経っているにも関わらず、名前が戻る気配はない。代わって入ってきた魔道士なら何か知っているだろうか、と。考えて聞いたつもりだったのだが、返ってきたのは俺にとって想定もしていなかった返答で。

「名前……あのご令嬢ですね?」

「あぁ、親父に呼ばれたっきり戻ってこねぇんだ。」

「あの方ならもう、ショート様のところには二度と戻りませんよ。」

「……は?」


当然のように告げる、透明な瞳が刹那真っ直ぐに俺の眼差しを射抜く。どことなく怒りを感じる眼光に、一瞬何を言われたのかが理解出来なくなった。名前がもう戻らない?こいつは何を言っているのだろう。

「おまえ、ふざけて言ってんならタチ悪いぞ。」

「ふざけてなんかいません。」

「なら、」


名前が戻らないなんて、そんなはずはない。今さっきもこの場に居たし、そしてこれからもずっと俺の傍に居る。そう豪語していた奴がどうして戻らない、などという到底繋がりそうにない結末に辿り着くというのか。

有り得ねぇだろ。


思えば先程から部屋には誰も入って来ていない。
通常ならメイドのひとりやふたりが様子を見に来てもおかしくないと言うのに。そして部屋には俺と魔道士だけが取り残されている。そう、丁度入れ替わるようにして入ってきた、彼女と二人きりという状況。
そういえば薬を盛られたという話を聞いたのもこいつからだったな。

まさか、親父の差し金だろうか。そう考えると合点がいく。何となくだが屋敷の奴らが皆グルになって、まるで俺から名前を遠ざけようとしているみたいな……、そんな雰囲気だ。何故そんなことをするのかという理由までは分からないが。

怒りを滲ませて尚も涼しげな顔をしながら何も言わない彼女に詰め寄る。勢い付いて思わず腕を掴んでしまったが、それでもそいつは顔色変えずに黙って俺の動向を伺っていた。


「名前が……俺から離れる訳ねぇだろ。」

「どうして?」

「……どうして……って、」

「ショート様の傍を離れないという理由が、あの方にあるのですか?」

「何言ってーーー、」


掴んだ腕をやんわりと制される。その指は細く柔らかいものの有無を言わせないような何かが感じられ、そこではたと自分の中に新たな記憶の矛盾に気付いた。

「………おまえ、本当に何なんだ?」


どうにも、記憶が食い違っている気がしてならない。名前との記憶と、この魔道士との記憶に関してだけがおかしい。ただ分かるのは、これらの違和感全部が薬のせいであることということだけだったが。そういえば、肝心の認識出来ないある人物とは、誰のことを指しているんだろうか。

もう数年も前の話、アイツと出会った時のこと。鮮明に思い出せていたはずの思い出が、既に信じられなくなりつつある。あの時俺が出会ったのは、本当に名前だったのか?記憶の中にまるでもやでも掛かっているかのように、最早顔さえ思い出せない。

聞くなり俺に背を向けて、「カーテンをしめましょうか。」と呟いた魔道士が、僅かに眉を下げて寂しそうに笑う理由も、俺に分かるはずがない。

ただ、少しばかりの沈黙を残して。
そんなに焦らなくても大丈夫ですよ、と弓なりの唇から紡がれた言葉だけが、やけに胸に突き刺さった。







「なぁ」


やがて思い立ったように今一度口を開く。そいつは俺に話しかけられた瞬間、一瞬だけたじろいだものこ、その後直ぐに何気ない顔で「なにか?」と微笑んだ。
特に何かすることもなく俺のそばに控えながら、部屋の掃除をしていたその後ろ姿を見つめ「おまえ、いつまでいるんだ?」と聞いてみる。返ってくる答えが分かりきっているにも関わらず、俺は疑問を口にした。

「………そうですね、」

案の定、口元を引き攣らせて固まる顔。何と伝えようか、迷っているような素振りで彼女は視線を狼狽させている。さて、どう出るか。大方親父から俺を見張っていろ、とでも命令されているであろう魔道士は、尚も言いたいけど言えないという表情で俺の目を見つめている。




「………俺のおかしくなった記憶ってのは、そんなに大事なことなのか?」

「え、」


結局のところ、俺は多分苛立っていたのかもしれない。屋敷の連中が揃いも揃ってまるで俺と名前を腫れ物みてぇに扱うことにも、アイツが二度と戻らないと言われたことにも。全てが腹立たしかったんだ。どちらかと言えばそれが何故こんなにイラつくのか自分自身よく分かっていないということが一番の理由かもしれない。

分かっているんだろう、本当は。今の自分の記憶が正しくないことを。ただそれを認めちまったら名前への想いが偽物なんじゃねえかって、気付いてしまうのが何と無く怖かった。


「俺の記憶がおかしくても、アイツを大切に思ってることに変わりはねえはずだよな。」

「ショートさま……。」

「おまえの名前が一向に思い出せねぇのも、恐らく何か関係してるんだろうが……それとアイツに何の関係があるんだ?」

「私はーー、」


八つ当たりにも似た感情だと自負している。けど、今はただ名前に会ってこの感情を確かめたかった。

「もういいだろ。」


半ば吐き捨てるように、ため息を吐いて告げると刹那魔道士は酷く傷ついたような顔をした。瞬きの間にもその表情は消えてしまったが、その顔はまるで銀板のように瞳に焼き付いて離れない。

何故コイツを見ているとこんなにもイラつくのだろう。顔は確かに似ている。とはいえコイツは名前じゃねぇのに、なんで。
どれだけ繕っても気になって、記憶に焼き付いた大きな眼が瞬きを一つ、二つ。そして三つめを落とすよりも早く。絞り出されるようにして零れたのは、


「関係なくなんかないです……、私は……、」

「………何、言って」


今にも泣き出しそうだと感じたのは、果たして。気の所為であって欲しい反面、心のどこか奥深くがじわりと熱を持つ。

「ショート様、」

今一度名前を呼ばれた。眼前に迫るのは名前にそっくりな顔立ちで。そっと乗せられた折れそうな手のひらが、不意にふわりと肩に触れる。

キスしようとしたのだろうか。………なんでそんなこと、そう思っても何故か口に出せなかった。その時、直前で唇が止まり、ただ浅く呼吸を繰り返しているだけの時間が過ぎていく。
お互い何も言わないまま。動かない理由を探しても、自分自身が分からない。

「っ、」

やがてどちらからともなく息を飲む音がしたかと思えば、女が弾かれるようにして身体を離した。

「いえ、何でも……ありません。」

「は、」

「突然のご無礼をお許しください。」


結局唇が触れることはなく、だとしてそれに名残惜しさを感じる程の思い入れなんて、無い。無いはずだ。それなのに、今俺の中を駆け巡っていった感情の名前は、残念ながら紛れもなく“後悔”だった。

「外におります。」そう呟いて、そのまま部屋を出ていく後ろ姿を見つめる。無意識に口を突いて出た「名前、」の呼び掛けに、背中が振り向くことはなかった。俺にとっての名前は確かにこいつでは無いのだから、振り向かないのも当たり前ではあるが。

自分でも分からなかった。どうして今、この瞬間に彼女のことを名前と呼んでしまったのか。その背中が何故だか酷く頼りなさげに見えて、思わず心からそばに居たいと思ってしまったのは。これも薬のせいだと言うなら、じゃあ俺の知っている記憶とは一体何なのだろうか。

閉まるドア。そして刹那取り残される。背後では先程アイツが開けた窓から風がひとひら入っていた。

外にいる、ということは完全に出ていったわけじゃ無いらしい。ということは今追いかければまた直ぐその背中に追いつけるということだ。

別に、追い掛ける必要なんかない。けれど。

(……クソ、)

フラッシュバックが起こる。笑った顔、赤くなりながらも俺を渋々受け入れる顔。それから、先程焼き付いた、悔しそうな、悲しそうな顔。

まるで降りしきる雨が止んでいくように記憶の中の靄が晴れていく。気がつけば扉へと向かっていた。いまだ、確信めいたものは何一つない。けれど、それより大事な何かがその向こうにあるような、そんな気がしたから。俺は扉を開けて、その下にしゃがみこんでいた物憂げな顔へと声を掛けた。不思議と迷いは無かった。


去る脳裏※11話IF


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