送る、なんて申し出を誰かから受けたのは、果たして何年ぶりだろう。以前少しの間だけ御付き合いをしていた男性に送ってくと言われたのが、そういえば最後だったような気もする。誰しも異性から送っていくと言われると、そんな気が無くてもドキッとしてしまうのは恐らく不可抗力なんじゃないだろうか。

「……………え!?」

想像を遥かに超える大きな声が出た。淡々と電話口に向かって「送ってく。」と言い出した天然物のイケメンには、何をどう足掻いても敵わないようだ。頭がこんがらがって、轟さんからの言葉がいまいち脳に浸透してくれない。当たり前だ、だって私たちはそんな関係じゃないのだから。

しかし、だとしても。こうやって心配してわざわざ電話を掛けてくれた人のことを、「いや、結構です。」と切り捨てられるほど私はハッキリものを言える人間ではなくて。


「迷惑か?」

「迷惑なんて、そんな……ちょ、ちょっと待ってくださいね……!」


瞬時に頭を回転させる。この場に転がる様々な事由を加味して、最適解を導き出す。

今現在、私の置かれている立場といえば、会社の慰労会の真っ只中ということ。対して、私を送ると申し出てくれたのはクライアントであり、トップヒーローでもある轟さん。

悪いから結構です、というのはこの前の試写会の件で、彼にとって寧ろ悪手となる可能性があることを学んだ。だから要は、ふたつを天秤にかけてみてどちらの方が重いのか、という話なのである。

しばしの沈黙。轟さんはその間も受話器に耳を当て私からの返答を静かに待ってくれていた。

そしてようやく私の脳が導き出した結論は、どうやら会社より轟さんの方が重いということらしい。飲み会より仕事を、クライアントを取れ、との判断をこのアルコールが若干回り始めた脳内が下したのだ。


幸い、弊社のデザイナー班はまだ潰れては居ないようで。きっと駄々は捏ねられるだろうが話が通じないほどではないだろう。

間に少しだけ思慮を挟み、私は轟さんからの問いかけに「いえ、是非お願いしたいです。」と返す。是非、と無意識に付けてしまったお陰で何となく食い気味になってしまったような気もしたが、既に口走ってしまったことだ、気にしないようにしよう。










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「すみません、お待たせしました……!」

「いや、そんな待ってねぇから大丈夫だ。」


開口一番、そんな恋人紛いの言葉が口を突いて出る。随分と彼の雰囲気に慣れてきた今日この頃。自然な流れで会話が出来ていることもそうだが、特になにか理由もなくこうやって顔をあわせてもらえるというのは何だかんだ言ってもいいな、と自覚している自分がいた。

轟さんは既に一通り事後処理を終えたのか私服に着替えており、一見するとプロヒーローのショートがそこに居るとは思えない。相変わらず存在感を隠すのが上手い人である。スマホを片手に、壁に身体を預けたままこちらを向いた轟さんに「お仕事中なのに、わざわざすみません。」と頭を下げると彼は「いや、こっちこそ急に悪い」なんて言って私と同じようにぺこりと会釈をした。


辺りには未だ撤収の終わらない警官や関係者がうろついているようで、まだ少しだけ騒がしい。人目を避けながら駅方面までとりあえず行くか、と声をかけられたのでそれにつられて歩き出す。彼の背中を追いかけていくというのは、いつまで経っても慣れないものだ。



「名字さん、家どの辺なんだ?」

「ここから下りで5駅くらいのところですかね。」

「意外と近いんだな。」

他愛ない会話を交わす。アルコールの所為で若干浮ついた思考を剥がすのは、轟さんの透き通った声色ただひとつ。駅前は丁度金曜日で帰宅ラッシュの時間と被ったのか、やけに人が多い。

すいすいと人の波を避ける彼に対して、私は足取りさえ若干心許なくなってしまっているようで、対角から歩いてくるサラリーマンを避けるのにすらもたつく始末。避けきれず少しだけ肩がぶつかった拍子に睨まれてしまい、思わずごめんなさいとか細い声が出た。

「わっ、と」

「………大丈夫か?」

「はい……っ、て……、あ!」

「おっ、」

最早避けることも出来ない上、更には変に身を翻した所為でバランスを崩して轟さんにぶつかる。大丈夫だと自身で言った傍からこれか。あんまり酔ってないつもりだし、実際意識も明瞭ではあるのだがなんかもうそもそもが色々ダメみたい。恥ずかしいったらありゃしない。

「ごめんなさ、」

「怪我ねぇか?」

「は、はい!すみませんぶつかってしまって。」

「ああ、気にすんな。それより……混んできたな。」


すぐ様謝ってはみたものの、轟さんの方はといえばさほど意に介していない様子だ。ありがたい様な、複雑なような。まあ、このマイペースな雰囲気がこの人のいい所でもあるのだろうけど。

少し高い位置にある綺麗な顔。そのまま表情を崩さずに、私の肩を支えてくれた轟さんがふと辺りを見回す。彼が視線を向けた方向へ私も目を向けると、なるほど確かに。電車を下りた人と改札に入ってくる人とでごっちゃになったホームが見える。いつもはこんなじゃないのに。きっと近くでヴィラン騒動があったからに違いない。

「すごい人……電車も遅れてるし……」

「早く乗った方が良いな。」

「うーん、やっぱり私ここからは一人で帰り……って、うわ!?」


ぼんやりと面倒臭い気持ちを隠しつつホームを一瞥しため息を吐いたその時だった。この中を行ってわざわざ忙しい轟さんに最寄り駅まで送って貰うなど。やはり遠慮しておくべきだったのかもしれない。そう考えて、実際言動に移そうとした私の腕を不意に掴む手のひら。

次いで驚き声を上げた私を導いたのはしっかりとした足取りで。

「と、轟さん私やっぱり一人で帰りますよ!」

「……いや、もうここまで来ちまったし。」

「でもまだお仕事がーーー、」

明らかに私を気遣いながらプラットフォームを進む彼。慌ててやっぱり送らなくていいです、と告げたにも関わらず轟さんは歩みを止めてくれない。引かれた腕がなんだかむず痒くなった。
失礼になるかもしれないなんて考えもせず腕を振り払おうと画策する私だが、しかしそう簡単にいかないのが世の常というものなのだろう。

刹那人の波の中に大きく口を開けた電車が到着する。あ、と私が思うのとほぼ同時に、轟さんがこちらを振り向いて「丁度来たな」と呟いた。

これは最早話を聞くとか、クライアントの折角の申し出を断る訳にもいかないとか。そういう次元の問題ではない。だって、こんなの許されるはずないし。しかし誰に聞かせるでもない問いかけだったが、結局それさえ言葉に出すことも出来ないまま。

「送るって言ったのは俺だ。名字さんが気にすることじゃねぇだろ。」

力強い腕に引かれて歩み出す。あれほどもたついていた足だったのに、いざ肝心の電車に乗り込むステップだけは随分としっかりしていて、我ながら苦笑いしそうになった。

彼にしてみればきっとそういう、問題なのだろう。遠慮される所以などまるで無いと言わんばかりに、満員電車へと駆け込んだ轟さん。
私の方はと言えば。促されるまま壁に身体を預け、鞄をきつく抱き締めることしか出来ないでいる。

ドア閉まります、淡々と告げられたアナウンスを心のどこか離れた部分で聞き取りながら、窓の向こうに流れていく景色を眺めていた。






「あの、ありがとうございました。」

「………何がだ?」

「送ってもらってしまって、」

「ああ、だから俺が好きでやったことだから気にすんな。」


彼と扉の間に丁度その間に挟まれながら電車に揺られることおよそ5分が経過した頃。私は思い出したように、窓の外を見つめ無言で唇を結んでいた轟さんに投げかける。

まだお礼を言っていなかったことを思い出したのだ。すみませんと頭を下げたことは幾らかあったとはいえ、お礼を伝えていなかった。

流石にそれはまずいだろうと改めて口にした感謝の言葉だが、轟さんは「だから気にするな」と軽く笑って返してきた。一体どこまで良い人なのか、最近特に彼のことがよく分からない。今に始まったことではないのかもしれないが。


「でも、お陰で助かりました。」

ガタン、ゴトン。忙しなく揺れる地面。足元の覚束無い私に気を使ってくれたのか、壁際に位置取らせて貰ったおかげで現在なんとかよろめかず済んでいる。その意味も込めて助かった、と告げた瞬間轟さんは僅かに首を傾げ「そういや、今日名字さん顔赤いよな。体調でも悪いのか?」と呟く。本当によく見てるな、この人。そう思いながらも理由が若干酔っている、というしょうもない理由なので適当に笑って誤魔化すと刹那、ガタンと大きく車内が揺れた。

「あっ……?」

「おっ、と……」


突然車内に響いた無機質な電子音。それは明らかに何かしらのトラブルを告げる合図で。
その時のことだ。轟さんが辺りを見回したのとほぼ同時に、室内灯が奥からひとつまたひとつと落ちていき、不意に暗闇が帳を下ろした。
急停車します、そう立て続けに響いたアナウンスは事態の割に随分と間延びしている。まだまだ浮ついた頭では、危機感など持てるはずもない。え、何?と思うよりも少し早く、一際大きな揺れが私たちを襲う。

「っ、!」

暗闇の中で何かに押された。ついでに鼻を強く打ってしまい、思わず顔を押さえる。何か嗅ぎなれない匂いが近くから漂った気もするが、それが何なのかは、目を瞑った私には分からない。
ざわめく車内、ふと上から轟さんの「大丈夫か?」という声が聞こえた。背中を壁に預けようやく目を開けると、そこには。


「ワリィ、ぶつかっちまった。」

「ーーーだっ、ぁ…」

目を疑う、というのはきっとこういうことを指すのだろうと思う。そして、やっぱり送って貰うべきじゃなかったとも考えた。そう、当初の目的が最早こんなことになるくらいなら潔く断っておくべきだったのだ。特に最近彼との距離感を掴めずに戸惑いっぱなしの私であれば、尚更。

こんな時ばかり嗅ぎ慣れない匂いの理由はこれか、と咄嗟に理解してしまった自身の頭が恨めしくなる。顔の両脇に突かれた肘と、暗闇に鈍く光る彼の目が思った以上に近くて目眩がした。全てを酔っているということの所為にして、現実逃避が出来ればどれほど良かったか。

急停車の弾みでただでさえも満員の乗客が、バランスを崩して私のいる側に雪崩たらしい。伴って、轟さんも一緒に波に押されたようでなんとか私を潰さないようにと対処してくれた結果、壁ドンという行為が双方の間で起きていた。

「悪い名字さん。少し我慢してくれ」

動けねぇ、と彼が呟く傍ら、こっちは目線を下に向けて俯くので精一杯だ。そりゃ、動けないだろうねと轟さんの後ろに控えるごちゃっとした人の壁が状況を一方的に物語っている。


「はい、……気にしないでください。」

気にしないで、自分で言っておきながら私の方がよっぽど気にしてるというのに。我ながら何を言ってるんだろう。途端に全てが馬鹿らしく思えて、乾いた笑いが零れた。
轟さんにそれが聞こえたのかは定かではない。ただ何を思うでもない表情でその人はそこに両肘を突いたまま立っていた。


「現在安全の確認をーーー、」

ありがちなアナウンスである。しかし、一度ここまで激しく急停車したことを鑑みると、恐らく電車はこのまま暫くは動かないだろう。

すなわち、この壁ドン状態はまだまだ続くらしい。

(はぁ、)

乗り込んだ時と同じように鞄を小さく抱きしめて、なるべく上を見ないように。そうすることでしか自分を守れないと知っている。……大袈裟じゃないかって?いや、あながちそんなことも無いと思うんだ。だって相手は、今をときめくトップヒーローなのだから。

間違いがあってはいけないとまるで思い知らせるように唱え始めたのは、果たしていつからだっただろう。少なくとも出会った瞬間から気を引き締めていこう!という気持ちは確かにあったはずなのだが、それが何をどうしたらこんなことになるんだろうね。

とりあえず考えるのはもうやめにしよう。何もかも思考を放棄して、電車が動くのを静かに待っていた方がボロを出さずに済むのだから。うん、そうしよう。

この後たっぷり30分にも及ぶ膠着状態が続くとも知らず、私は思考の一切を放棄した。轟さんも轟さんで、何を考えているのかよく分からない顔をしたまま、窓の外を眺めていた。

これは、後に私と彼の関係を一変させたあのスキャンダルがネットに流れ出す、僅か数分前の出来事である。無論、あんなことが起きると知ってたらきっと今頃私はここにいなかっただろうな、なんて。

今になってそんなことを思ったってどうしようも無いのにね。私ってほんと、詰めが甘い。

伏線回収 ※10話IF


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