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ふわぁ、とひとつ欠伸が出た。昨日はよく寝たつもりだったのだが、それでも欠伸は止まらなかった。
明らかに精神的な疲れが溜まっているのは一目瞭然で。ああ、思い出すだけでも憂鬱だ。

「はぁ、」

どーしよ…と独り言にもならない呟きをこぼす。呟きは重く、暗い室内に音も立てず沈んでいった。こうなった理由は自分自身分かりきっている。だとして対処のしようがないからここまで落ちているのもまた仕方ない事だった。

先程から何度も同じ画面を開いている。爆豪勝己、という人物の連絡先画面。今の私は画面を開いては閉じて、を繰り返しては一人でため息をつくという生産性の欠けらも無いようなことをして時間を潰している。その行為に特段理由なんてないのだが。強いて言うならこの爆豪勝己という人物が他ならぬ憂鬱の元凶だから、かもしれない。



あれから3日。長いようで短い時間が流れ、少しの休息を得て再び出勤の日がやってきた。予約の有無は昨日のうちにメールで貰っていて、今日はさほど重くない一日になりそうな予感がしている。そもそも彼の相手をしたあの日が異常だっただけで、いつもあんな風じゃないんだけども。

カレンダーに丸を付けながら、出勤日を書き込む。丁度今日に丸がある以外は2日ほど空きがあった。

とりあえず、少しは余裕がありそうな週になりそうだ。良かった。体力には自信があるけれど、それでもやっぱり連勤だとちょっとキツいのでこれくらいの頻度が正直ありがたいのだ。

未だかつてソープという仕事を選んだことに、後悔したことが一度もないことは自信を持って言えるんだけどなぁ、なんて。しかしソープ嬢という職業が決して楽ではないということもまた事実で。とりあえず今日も頑張らなきゃと心の中で零す。さて、そろそろ出る準備をしなければ。

メイクボックスを取り出す。そうだ、ついでに出勤前に実家に寄ろう、と考えてからメイクボックスを机の上に置いたその時。

「え、誰?」

不意に営業用のスマホが鳴った。

こういう時、あの人に会う前だったなら気楽に内容を確認できていたんだろうか。スマホの振動に際し、私の脳裏を駆けたのは言わずもがな件の人物で。
う、と一瞬手が止まるけど、そのままそろそろとスマホを手に取り電源をつける。ディスプレイにはメッセージアプリの通知が一件。

“本日予約、………様”



「……ふぅ、」

彼の名前じゃなかったことに胸を撫で下ろした瞬間、それに気付いてしまった私は無意識に顔を歪めた。予約の内容を告げる通知だったのだが、そこに書いてある人物の名前は日頃からよく予約を入れてくれる人だった。

全く、彼じゃないことに安堵するなんて、本当どうかしてると我ながら思う。お金が必要だからソープ嬢になったのに。




ここ最近私の頭を悩ませているのは、彼と連絡先を交換してしまったこと、それに起因する。

ソープランドで働いている嬢は営業用のスマホを持っていることが多いのだが、その際お客様と連絡先を交換することで直接予約を入れてもらえる、また売り上げが厳しい時に助けてもらえるかもしれない姫予約というものがある。勘のいい人ならもう分かってしまっているだろうか。

そう、先日爆豪さんに宣言された「これからはそっちに直接連絡入れる」という言葉のとおり、早い話彼は名実共に、私のお得意様になってしまったのだ。

予約という名前がついている以上はお店に話を通さなければならない。しかし話を通してしまえばもう逃げ場なんて無いだろう。かといって連絡先を交換してしまった以上は言い出す他ないのだが。

こういうのなんて言うんだっけ?
囚人のジレンマ?いや違うか。

ともかく、現状私には退路がない。そしていつ来るかとも分からない彼の来訪に怯えざるを得ないでいる。
地雷っていうわけでもないし、むしろ驚くほど(ソープ嬢にとっては)良客なはずなのにそれでも素直に喜べないのは全て私の心が許さないからだ。分かってる、分かってるけど。

「考えてる場合じゃ、ないか……」


出勤まではまだ時間がある。だから腹括るのも、それまでに出来ていれば問題は無いだろう。はぁ、なんか言い出すの嫌だな……などと口を開けばため息しか出ない自分を叱責して、重い腰を上げた。
とりあえず、久しぶりに母さんに顔見せに行かなきゃ。










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家族にはソープで働いていることを言っていない。それは心配させたくないのもそうだし、純粋にソープで働いていることを知られたくないからだった。
自分の意思で選んだ仕事、それに嘘偽りはないつもりだ。けどやっぱり親には知られたくなくて。

何故かと言われれば答えは至って単純明快。だって娘がお客さんにかなり乱暴に抱かれていたなんて母さんが知ったら、控えめに言っても卒倒するだろうから。



(っ、痛……)

唇を噛み締めて出したくもない媚声をわざとらしく上げて、お金のためだなんて自分に言い聞かせて。私はつい今しがた本日2人目のサービスを終えたところである。ネットからの指名でおよそ1時間30分、誠心誠意努めさせていただいた結果これか、となんとも言えない面持ちで現在ベッドに転がっていた。

「うわ……」

恐る恐る下へと手を伸ばしそこへと触れてみる。潤滑剤のぬめりが嫌にリアルで、本当に最悪な気分だ。下腹部の気持ち悪さもさることながら、ひりつく痛みが事後の今も鮮明に残っている。

無理に突っ込まれた挙句「これがいいんだろ?」なんて冷めるような言葉責めで乱暴にされた所為で腰もデリケートな部分もどこもかしこも痛い。

「はぁーーー、」

こうやって虚無感に苛まれ暫くベッドに横たわり呆然としてしまうこと自体大して珍しくなかったのだが、いつまで経っても慣れることなどないのだと改めて思い知る。
無心に響く秒針の音を聞きながら、立ち上がる気力も出ずそのままでいると部屋の内線が鳴った。

「はい……」

「あ、源氏名さん!すみません終わりましたか!?」

「え、…あ、終わりました…けど」

「よかった、また次予約入ってるんですぐ向かいますね。」


もうちょっとだけ呆けて居たかった私を待ち受けているのは今日も明日も予約客だ。そういえばこの後まだもう一件予約が入っていたことを思い出して、仕方なく起き上がる。

メイクもヘアセットもぐちゃぐちゃで。とりあえずこれも何とかしなくちゃいけない。爆豪さんの時もなかなかぐちゃぐちゃだったけど、状況は似て非なるものだ。痛みと苦痛に苛まれると、こうも酷く崩れるものなのか。


はぁ、今日何度目か数え切れないため息が漏れる。鏡に映る自分を見て、思わず自嘲した。


なんだかんだ言っても彼は、決して私に痛みなんて与えなかったんだよなぁ、そういえば。苦痛は?と言われるとまあ、イッた後も容赦なくされ感じ過ぎて辛かった、というのはあったかもしれないが。
少なくともこんな風に虚しくなることなんて無かった。

いろんな液体まみれのまま放置することも無かったし、なんなら綺麗に服まで着せ付けられていたレベルだ。
ある意味風俗らしいと言えばらしいのか、自分が出せれば後は知ったこっちゃないというお客さんも実際かなり多いのだけど、その中で、彼だけは違っていた。

とにかく異質、ということなのだろう。それは無論いい意味で。




「……うん、」

やっぱりちゃんとお店に話そう。こんなのは私のただのわがままだ。抱き潰されて価値観が変わるのが怖いとか、そんなこと言ってる場合じゃない。
何より私にはお金が必要で、そして爆豪さんは(振る舞いこそアレだけど)決して悪い人じゃない。悪い人じゃなくて、しかもお金を沢山払ってくれるお客様なのだから、こちらもそれに応えるべきなんだ、きっと。

漸く腹が決まった私をまるで急かすように再度内線が鳴る。出てみると先程言葉を交わしたばかりのボーイが更に忙しさを伴った声色で「部屋入って大丈夫ですか!」と叫んでいた。……どうやら今日も相当忙しいみたいで。

「はーい、今出ますー」

キャミソール一枚だけ。ほぼ下着と同等のまま部屋の外へと出る。ボーイの前に出るとしても恥ずかしいとかそんなことは言ってられない。次の予約まではあと30分程度。部屋の掃除をしてもらったら、私はメイクと髪型を直さなければ。

呼ばれるがまま外に出る。さて、どれほど稼げるだろうか。帰り際にでも爆豪さんのこと、報告すればいいかな、なんて思いながら扉を閉めた矢先、手持ちのスマホが振動した。

今日はなんだか良く鳴るなあ。特に何も気にせず通知を開くと、そこには。


「え、」

なんというか、間がいいというか悪いというか。タイミングでも図ってたんじゃないかと不安になるような、そんな感じだ。
いや、だって今連絡してくると思わないじゃん。確かに次からはこっちに直接連絡するとは言ってたよ?言ってたけど、こんな……



“明後日18時空けとけ、5時間”


こんなタイミングがあるか。



「あれ?予約ですか?」

「………まあ」

明らかに様子が変わった私を見て、ボーイが早足ながらも問い掛けてくる。なんと答えればいいのかよく分からないまま、とりあえず苦笑いを返して再びスマホへと視線を落とすと刹那「なんか嬉しそうですね」などという不本意極まりない返答が返ってきた。

嬉しそうって、どこを見て彼はそんなことを言っているのだろう。どう見てもうわっ、て思った顔してたでしょ!と思わず勢いで言い返してしまいそうだったが、しかしそんなことも言えるはずもなく。
「えへ、」なんて適当で、情けない返事しかできない私はやっぱりまだまだ未熟者だ。

5時間てことはまたベリールージュね、はいはい。了解しましたよ。すぐさま“ありがとうございます、楽しみに待ってますね“と二割増のお世辞、それからハートマークを添えて送り返す。直後メッセージは既読になった。しかし返事はそれ以降返ってくることはなかった。


ここまでが以下略


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