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「これ良いよ、5回目超えてきたらキツくなるからナカに仕込んどくの。」
「へえー、知りませんでした。」
ソープ嬢になって3ヶ月くらい経った頃、だっただろうか。リ・ルージュのコンセプトの都合上、乱暴にされたりすることも無かったが、それでもあまり上手とは言えないお客さんを相手にしているとどうしても付きまとってくる、ソープ特有のえも言われぬ悩みに悩まされていた時期が私にはあった。
ソープ嬢たるもの、自分の身体は自分で守らねばならないのだと、当時それなりに仲良くしてもらった先輩嬢から教わるまで、その鈍い痛みと地味に戦い続けては負けて出勤を減らしたりと画策する日々。
あの頃は自分でも試運転期間だったのだと今にして思う。彼女が教えてくれたのはテクニックだけじゃなくて心構えとか自分の身を守る方法とか、そういう根源に関わる大事なことばかりで。あの人が居なかったら今頃ここで働いていないかもなぁ、と大袈裟にそんなふうに考える時も少なくない。
「おはよー」
「おはようございまーす。」
「あ、源氏名ちゃん久しぶりじゃん元気?」
「……、なんとか。」
栗色の髪と、同色の目をした女性が揚々と扉を開けて室内に入ってくる。女性はこちらを見るなり愛らしい顔をふわりと歪めて手を振った。
今、部屋に入ってきた彼女の名前はルナさんという。無論源氏名だが、私達は兎に角ルナさんと呼んでいる。ここ、リ・ルージュの紛うことなきトップ嬢で、私にソープのいろはを教えてくれた人。
それこそが他でもないこのルナさんなのだった。
綺麗に巻かれた髪がゆるりと揺れる。今日も綺麗にセットしてるなぁ。とまるで他人事のように柔らかそうな毛先に目線を移した。
ルナさんがテーブルの対角へと腰掛けたのを見計らって、手元にあった開いていないお茶を手渡す。対するルナさんが「あ、食べる?」なんて言いながらチョコレートを手渡してきたので「いただきます。」と手に取って私も同じように口に運んだ。
傍から見れば学生の昼休みのような雰囲気が漂う休憩室の一角。今日も明日も、出勤を控えている私だが、実のところあの日以来少しだけ調子を取り戻せないでいる。
「えっ、なんか元気無くない?」
「分かります…?」
「分かるも何も、」
聞いてほしさ100%を醸しておきながら何を今更、と言いたげな顔でルナさんは笑った。やっぱり見抜かれてるかぁ。案の定意外と鋭いこの人を前にしては隠すことも出来ないや。隠す気すらなかったけどさ。
苦笑いをひとつ零して「まあ、食べて食べて」とオマケで差し出されたポッキーを一本咥える。現時刻はこの前と同じくらいの8時頃で、ふとあの時を思い出しては赤面してしまう自分がいた。
あの日以来、自分が自分じゃなくなってしまったように心が落ち着かない。それは、多分不可抗力。
「でもあたしこの後指名入ってるからなぁ……」
「えっ、じゃあ聞いてくれないんですか!?」
「何、源氏名ちゃん結局あたしに聞いてもらう気満々だったんじゃん。」
「………えへ」
「いいよ、聞かせてよ。面白い話?」
ルナさんを土俵に上げることに成功した今。私の鬱憤晴らしを邪魔するものは次の指名客のみである。……まあ、指名は絶対なので、邪魔しているからといってどうにもすることが出来ないのだが。
聞いてくださいよー!と前振りもそこそこに口を開けばルナさんは自身の髪の毛をクルクルと弄ってこちらに顔を向けた。ルナさんは話好きだ。だからきっと今日も乗ってきてくれると信じて、私は切り出した。
くりっと大きな目がチープな休憩室の電灯を反射して輝く。今日はスミレ色のシャドウを目元に施して、とてもよく映えている。唇も少し厚めで、胸も私よりあるルナさん。ネットの写真だって彼女の方が何倍も美しく写ってるのに、なぁ。
本当なんであの人、私を選んだんだろうか。
「正直聞いて欲しいというか、聞きたいことがあるいうか……」
「なになに、地雷客?」
「………ある意味。」
脳裏に思い浮かべるのは、あの鋭いストロベリームーンの瞳。あの夜私を意識を無くすまで苛んだ、捕食者みたいな顔つきのお客さまのこと。
最初から横暴で、物凄く対応に困らされたあの人。その癖態度の割に驚くほど繊細な手つきで、いやらしいくらい徹底的に堕とされてしまった、あの人。
残念ながら抱かれたあの夜からずっと、私の中を渦巻いている身体の感覚をどうにかしたくて。それで精一杯だった。やや強引ではあったけどルナさんを呼び止めた理由はそれだ。……正直地雷と呼んでもいいのかは微妙だったが、兎に角あの人の所為で接客に影響が出てしまっている以上は一応地雷と言ってもいいだろう。
「ルナさんって、」
「うん?」
「お客さんにイカされたことあります?」
「う、……ん??」
「意識無くすくらい上手い人とかいました?」
「いや…あたしはないけど……え、待って源氏名ちゃんそれマジの話?」
「え?」
頬杖をついていたルナさんの眼差しが不意に訝しげに歪む。ただ椅子に腰掛けていただけの体制が、気付けば前のめり気味になっていた。ずい、と身体を伸ばして「マジ?」と興味ありげに聞いてくるルナさんの勢いは、先程とは打って変わって驚くほどで。え、なんでそんな?と考えるより早くルナさんが遮るように口を開く。
「フィクションでしょ?」
「んな、これが嘘言ってるように見えます?」
「だって、ここソープだよ?」
信じられない、と明らかな目が物語っていた。いや、そんな顔されても本当のことなんだけどな。とは思ったもののとりあえず態度には出さないでおく。どうやら私より歴の長いルナさんでも、やっぱりにわかには信じられないようなことだったらしい。
ただでさえ大きな目を丸くして、もう一度念押しのように「マジなの?」と聞いてくる。
「だからマジなんですって。」
「やっば、ロマンスじゃん。」
「ルナさんふざけてます?」
ロマンスってなんだ、ロマンスって。
ルナさんなら分かってくれると思ってたのに。はぁ、とため息を吐いて対角の彼女から視線を落とし、私は頬杖をついた。どうにもあの出来事を誰も信じてくれないんですけど。気絶した私を発見したボーイさえ、「滑って転んで気絶でもしたんでしょ」とまともに取り合ってくれなかったし。
本当なのに……、なんなら鮮明に思い出せるのになぁ。まるで初めて行為を知って、戸惑い恥じらう乙女みたいに、わざとらしくない高い声で喘いだベッドの中を、今でも思い出せるのに。あー、なんか思い出したら情けなくなってきた。
「ごめんね、ビックリしただけだって。」
「どーですかね。案外信じてないでしょ。」
「………まあ、」
「ほらね。」
なおも微妙に信じていない雰囲気を纏うルナさんに、ジト目で抗議の視線を向けた。彼女は「でもさ、本当ならソープなんて必要なくない?イッちゃうくらいってことは別に生理的に無理な感じでもなかったんでしょ?」と素直な疑問を私に投げかけてくる。その問いかけには私を確かに、と納得させるほどの何かがあった。
彼女の言うことは最もだ。何を隠そう私だってあれは一体何だったんだろうなぁって思ってるのだから。
「それどころか寧ろカッコよかったんです……。」
「カッコイイんだ……これはもういよいよ本格的にフィクションかな?」
「ルナさん、怒りますよ。」
「ごめんってば。で、ところでそのお客さんって誰似?聞きたーい。」
これはもう本格的に信じられてないな。仕方ない。カッコイイ、というワードに反応されてしまってはもうこれ以上真剣に話を聞いてもらうことは出来なさそうだった。
結局しょうがないことなのだろう。何を隠そう私だって信じられない訳だし。あれが夢なら、それで納得できるのにと、自分でも思ってる。
残念ながらあれが夢じゃなくて現実だったから、どうしたらいいのか分からなくなっているだけで。
もういいや。諦めて開き直り、もう一度あの人を思い浮かべる。熱の篭った鋭い眦を脳裏に描く度、同時に植え付けられた指使いや吐息混じりの言葉責め紛いな行為を思い出しては身体が疼いてしまうのを、そろそろ何とかしなくちゃいけない。
誰似、と言われてもなぁ。そういえば何となくどこかで見たことあるような気がしなくもないけれど。一体どこで見たんだっけ。
「芸能人じゃ、例えようがないですね。」
「ふーん?」
「ただ日本人っぽくない感じの、こう…クリーム色のツンツン頭で、同い年くらいの男性でした。」
「へぇ、フリー予約?」
「まあ、ネットから。」
「ネットかぁ。そんなのが来るなんてねぇ、案外源氏名ちゃんがそのお客さんの初恋の人に似てたんじゃない?」
その時ルナさんのスマホが鳴った。
「いやぁ、あれほどのイケメンの初恋相手ですよ?もっと信じられないくらい傾国の美女ですって」
「ケーコク?……あ、ごめん。電話出るね。」
それだけ呟いてルナさんは電話を取る。第一声の雰囲気からして、電話相手はルナさんご贔屓のお客さんのようだ。
ケーコク……そりゃあもちろんあんなイケメンな人なら、初恋の人も国を傾けるくらいの蠱惑な美女にきまってる。ルナさんには傾国の意味が通じなかったけど、ともかく私が初恋の人に似ていたのかもしれない、なんてそんなことありえないだろう。うん、ありえない。
ルナさんが一際高い声で電話をしている隣で、暇を持て余しスマホを弄る。月よりもう少しだけ明るい金髪の俳優を片っ端から調べて見たけれど、ピンとくるような人物は見当たらなかった。
どこかで見たことがある気がしたのに。果たして気の所為だったのだろうか?もうよく分からないや。
「うん!ありがとね、待ってる。」電話を終わらせたルナさんの声がして。その顔は先程まで喋っていた気さくな彼女とはまた違って、トップ嬢のルナさんという顔になっていた。あぁ、指名が入ったんだろう、雰囲気で何となく察する。
電話を切った後、すぐさましたり顔で「じゃあ色々大変かもだけど頑張ってね源氏名ちゃん!」とスマホを片手に、来た時と同じく揚々と肩を弾ませながら、ルナさんはおもむろに立ち上がった。
「他人事みたいに言わないでくださいよー。」
「他人事だもん。まあ、いいじゃん。そのイケメンのお客さん、多分また来てくれるよ。」
去り際のルナさんの笑顔はやっぱり可愛くて。
たとえとんでもないことを発していても、誰が見ても愛らしい笑顔だった。
よかったね〜、なんて呑気にとんでもない事を言うルナさんの背中へ向かって「なんでそんな怖いこと言うんですかぁ!」と声を大きくして叫ぶ。
いやほんと勘弁してください。二度目はごめんですよあんな人。次またあんな風に抱かれたら、今度こそ私が私じゃなくなっちゃうじゃない。
しかしそんな私の胸中など知る由もなく、悪戯な笑みを浮かべて彼女は「だって間違いなく気に入られちゃってるし!大丈夫大丈夫、地雷客よりマシじゃん!」と続けてから、部屋を後にする。
本当、最後にとんでもない爆弾落として行ったなあの人。謎のトップ嬢の予言を残し、人の消えた控え室に沈黙が降りる。あーもー、これから接客なのに。何となく沈んでしまった気分を振り払うように、スマホを今一度覗いた。
そういえば、結局あの人どこで見たのか分からなかったな。
甘い痺れは期待はずれ