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20時10分。瞬きをする度に天井にぶら下がるキャンドルライトの明るさが虹彩に染みる。些かやり過ぎな気がしないでもない豪奢な浴室とキングサイズのベッドが鎮座するこの部屋の中は、言わばソープ嬢にとっての王国だ。そして、その王国の中では、私は一人の女王であると共に客との疑似恋愛を演じる女優でもあった。

別に好き好んでこの色恋ごっこに興じているのだから、そこに不満なんてひとつも無い。お金は貰えるし、いい人だと「ありがとう」って感謝もされるし。でもずっとこのままでいてもいいの?と問われれば素直にうん、と頷ける程の覚悟は無い。もし仮に聞かれた時は素直に「うーん…?」と黙るしかないのもまた事実で。要は誰か白馬の王子様の1人や2人、私を迎えに来てくれてもいいんじゃない?ということである。



と、関係ない話はここまでにして、いい加減現実と向き合わなければならない時が来たみたい。閑話休題。これは眉間に微妙にシワを寄せたお客さんの手をいつも通りにエスコートしようとして、割と徐に拒否され一筋縄では行かなかった先刻から数分後の出来事だ。

「あの……、」

「あ?」

「お風呂入り、ま…せんか…?」


気分は既に帰りたいMAX。

普段なら、もっと上手くことに運べてるお風呂誘導が、びっくりするほど上手く決まらない。なんとも扱いづらい明るい生成色の髪を突き立てた外国人チックなお顔立ちのお客さんと、私は現在部屋の入口付近で立ち尽くしている。傍らには折角整いまくってるのに、それら全てを台無しにしかねないくらいの鋭い眼光と眉間のシワが刻まれたお客さんの仏頂面。近くで見ると信じられないくらいのイケメンなのに、なんでこんなことになっているのだろう。

せっかくのロングでちょっと浮かれてたのに。
しかも凄いイケメンに指名されて嬉しかったのに。

お客さんが、めちゃくちゃ扱いづらい。
たった一つのシャレにならない欠点があるだけで、ここまで人間のテンションって落ちるものなのか。



リ・ルージュでは事前のプレイスタイルやらオプションやらの希望を全てアンケート形式で提出いただく寸法で、無論今回もボーイからお客さん直筆の事前記入アンケートを受け取っていた。それを見れば大体の希望に沿った振る舞いが出来るくらいに私たちにとっての生命線となるのが、アンケートだった。と、そんな素晴らしいお力を持つアンケート様なのだが。

(ダメだ、何度見てもアンケート何にも書いてないわ、ロングコースとしか書いてない…。)


実は私、ここまでアンケートが通用しないお客さんに未だかつてお会いしたことがなかったのである。

今回の方(以下ロングさんと名付ける。)はまさにその通用しないタイプの人で、どんなプレイをご希望なのかが、部屋に辿り着いて尚未だ1ミリも判明していない状況。言うなればスタート地点すらどこなのか分かんないという現状だった。

いや、本当にまずい、帰りたい引っ込みたい。お金いらないから解放して欲しい。だってこの人と3時間この調子なんて耐えられない。ソープ嬢としてあるまじき事態に、思わず頑張って繕っていた笑みが苦笑いに変わっていく。


無けなしの勇気で振り絞ったお風呂という言葉にさえも眉間のシワを深めるだけのリアクションで返してきたロングさんに、「え、えへ…」と乾いた笑いが漏れる。もうダメかもしれない、折れかける心。

お風呂も嫌なの?ソープなのに何なのよ貴方。危うく言ってはいけない言葉の破片が口を突いて飛び出しそうになって、今一度強く唇を噛んだ。



ただの横暴な地雷客なら普通にやだな、の一言でいくらでも耐えられたんだけどなぁ。如何せんこのロングさん、一向に希望も出さずだんまりで、かといって乱暴に道具みたいに扱っても来ないから本当にタチが悪い。なにか見落としてたりすることがあるんじゃないかとアンケートを二度見したり、様子をチラチラ伺っては見るけれど、それでもやっぱり事態は一向に前進しないままだ。


暫し無言で頭を回す。しかし頑張っても出てこなさそうな正答。まるで弄ばれている気分になる。いや、もしかしたら遊ばれてるのかもしれない。もしくは、察して欲しいと思われているか。……いや、面倒くさいなそれは。

そうこうしていても事態は一向に好転しない。
悩んでいてもだれも助けてくれないのなら。


(あーーもーー!!)

もうどうにでもなれ、だ。


「気が付かなくてごめんなさい。何か御要望ありますか?」

意を決して恐る恐る素直にあらぬ方向を向いている横顔に「御要望は?」と聞いてみる。合わせて「お風呂より先にベッド行きます?」とも聞いてみた。
即ベッド・インはアンケートに書かれていなかったけど、好きな男性は少なからず多いものだ。とりあえず聞いてみよう。言わなきゃ分からないってことを、この人に教えてあげないと。


即希望ですか?と濁して聞いてみたその瞬間。

さっきまで聞いてるんだか聞いてないんだかよく分からないリアクションしかしてこなかった彼の眉がぴくりと一瞬だけつり上がった。

正直回せる限りの頭を回してしまったので、もう最後の砦とばかりに素直に聞くしか私にはもう打つ手が無かったのだが、何故か一見直球すぎる問いかけが、どうやら彼に何らかの影響を与えたらしい。

アーモンド型の瞳孔がくわっと大きく広がって、不意にゆっくりとこちらを振り向くロングさん。あ、やっとこっち見てくれた。と少しほっとしたのも、つかの間。


「俺が即なんてサルみてぇな真似するわけねェだろが!」

「ヒエッ!?ーーーすみませっ!」

予想以上の収穫と、同時に対して欲しくもない真実が刹那飛び込んでくる。やっとリアクションしてもらえた嬉しさと、急にキレられた衝撃で予想より大きな間抜け極まりない声が出た。


「つかこの店即もやってンのか、クソ。」

(えええ即地雷とか初めて見た……。)


明らかにさっきより機嫌が悪化した。もともとあまり宜しくなさそうな機嫌が、先の即即質問のせいで更に地に失墜した。なんてことだ。ただでさえもすり減らした精神に、この追い討ちは中々にきついものがある。

何やら私の知り及ばない悪態を吐きながら、その人は細く切れ長な瞼を更に細めていた。即即のこと、サルみてぇってさっき彼は言ったけど、……まさかソープランドでも人気のある即ベッドプレイを嫌いな人がいるとは。そりゃ嬢からしたらお風呂にも入らずいきなりベッドインになっちゃうから嫌われるプレイではあるけど、お客さんで嫌いって言う人いるんだ。


何だかプレイが始まる前から色々と疲れてしまったな。先程から私は何も言わず和やかにロングさんの隣で押し黙るしか出来ない。そんな精神崩壊待ったナシの状態でも、無遠慮にどんどん時間は進んでいく。

不意にロングさんがまた少し黙りこくって私の顔をじっと見つめ直してきた。何か言いたげに歪められた唇が、言葉を発するまではいくらの時間も無さげに見える。今度は何かな、怖いな、なんて頭の中で次に来る問いかけに身構えつつ「……?」とまたも繕った笑みを持ち直して見つめ返すとその人は私に「NGは」と問いかけた。

「へ?」

「NG、一つくらいあんだろ。」


NGなんてセリフを言われるとも思っていなかったせいで面食らう。まさかお客さんの方からNGについて聞かれる時が来るなんて、ちょっと思わなかった、なぁ。


「いや、あんまり無いです…よ?」

「あぁ?ンな訳ねーだろ、正直に言えや。」

「いえ!本当にないです…あ、あまりにも乱暴にされたり、ドレスとか髪の毛汚されるのは嫌ですけど!お店のルールの範疇なら別に……」


ソープにNGもクソもあるものか。本番強要でさえここでは合法になる以上、ここのルールに従っていただければ大抵のことは許すつもりだ。勿論ディープなキスも。化粧ゴッソリ落とすほど激しくされなければ別にいい。

あまりにもサラッと私が言ったからか、ロングさんは再び眉間にシワを寄せて「そーかよ、」と呟いた。ため息混じりの、なんとも言えない顔。心配されているのか、それとも貶されているのか。
何だかよく分からない。雰囲気さえもソープランドにあるまじき神妙な空気に染まっている。

ただ分かるのはこのままほっといても埒があかなそうということだけ。この人は私と何がしたいんだろう。ソープランドに癒しを求めに来る人は大抵受け身な人が多いから、こっちが上手くサポートしてあげる必要も多いんだけど、それにしても埒が明かなくて困惑する。


「私とシたいこと、全部しても良いですよ?」


もう正直、悩むのも面倒だ。今度は私の方から問い掛けた。わざわざ私にロングでの予約を入れてくれたくらいなのだから、私とシたいと思っているに違いない。なら、別に隠さなくてもいいのに、というのが本音のところだった。

(仕掛けちゃえ)

少しは効くだろう。わざと直球で伝えずにフロントジップをゆっくりと下ろしながら、誘うように微笑んでみせると刹那、ストロベリーに綺麗に染まった瞳が大きく見開かれる。

「テメ……」

「ほら、お時間勿体ないですから。」

ね?と甘えるように彼の手を掴み自身の胸元まで持っていく。これをするとたとえばしどろもどろの童貞君でさえもすこし積極的になることを私は知っていた。

「お風呂?それともベッド?」

「……いい度胸してんじゃねェか。」

「私、こう見えて結構積極的なので。……ね、言ってみて。私と何がシたい?」


唇の端がピクリと歪んだ彼の口から、低い声が響く。「抱かせろ。」と明確に吐き出したその顔は、言葉とは裏腹に随分とヴィラン的だ。

「お風呂は…っ、」

「要らねェからはよヤらせろ。」

鼻先が触れ合ってしまいそうな距離に、ギラついた顔がある。先程の言葉の後、胸元に寄せていた腕を絡め取られ、あっという間に壁に縫い止められた身体は全く動けない。食う、と揶揄した言葉からもわかるくらいにまるで捕食者みたいな顔をした彼を見ていると、良くも悪くもソープランドに来る男性らしくないな、なんて思った。続けて「煽ったからには、覚悟出来てんだろうな。」と嗤う悪人面。


素早くフロントジップを一番下まで下ろす音が聞こえる。こんなにも早く服を脱がされるなんて、ソープ嬢になって割と経つけど、そういえば初めてな気がする。

噛みつくほどの凶暴なキスを喰らってしまって、息が少し苦しい。でも、何故だか彼としているキスは想像したよりずっと優しくて甘かった。

なんで、そんなふうに感じるんだろう、と頭の片隅でそんなことをぼうっと考える。

時計の針は20時15分。残り、約2時間45分。

嘘つきの舌は甘いか
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