/ / / /



今更ながら昔の話をしようと思う。

これは本当につい先日思い出したことなのだが、ソープ勤めをはじめて間もない、怪我をしてすぐの頃合に私は一度爆豪さんに会っているらしい。
ほとんど朧気な記憶しかないが、入院中私を救出したというヒーローが、母のもとを尋ねてきたことがあった。その人は自分の失態だと母に深く頭を下げ、中央にある大病院への転院を提案してきたと言う。
その時の私はといえば、あらゆる痛みと熱でとてもじゃないが会話に参加出来る状態ではなく、ただ魘されながらその人の言葉に微かに耳を傾けることしか出来なかった。

母とその人が何かを話しながら部屋から出ていく。そんな二人の後ろ姿を薄らと、しかし確かに見つめていたのは、他の誰でもない私だったように思う。

あの日見た後ろ姿は今にして思えば確かに爆豪さんのものだった。そして、どこか思い詰めたような雰囲気で遠ざかっていく背中に向けて、あの時の私はなんて声をかけたんだっけ。





「で、なんなんですか」
「あ?何が」
「好きなんですか」
「主語入れて話せや、ナメとんのか」

頼んだカフェオレはいつの間にか氷が溶けて、当初よりもいくらか水っぽい。最早ストローでくるりと回しても音が鳴らないので、それなりの時間を無駄に浪費していたであろうことがグラスからは見て窺える。

朝早い時間にも関わらず、私達が今いるカフェテリアは大勢の人で賑わっていた。どこを見ても家族連れとカップルばかり。年明けの平日はどこも閑散としているものだと思っていたが、予想に反しここは大賑わいだ。

フィクションじみた夜が明け、次の日の朝。朝を爆豪さんと越すのは2度目だが、前回は何となく甘さを感じられる朝だったのに対し、今回は拍子抜けしてしまうくらいには至って普通すぎる朝だった。

私が目覚めた時には既に爆豪さんは洋服に着替えており、この人は何処までも超人だな、なんて思ったりした。起きるなり「ようやく起きたかよ」と悪態を吐かれたのでつい思わず“誰のせいでこうなったと思ってるんだ”と言い返しそうになったものの、その時の彼の表情がなんというか少しだけ柔らかかったからなのか。声にならない呻き声しか生み出せなくなって、押し黙る。顔を押さえ悶絶した私を見て、彼は「ンだそれ」と笑っていたが。そう考えると、今回の朝も意外に甘いのかもしれない。


そしてうだうだと言われるままに着替えて、30分もしないうちにやって来たのがこのカフェテリアだった。

お互い軽食をチョイスして席に着く。爆豪さんはイメージ通りコーヒーで、私は前述のカフェオレだ。喉がありえないほど掠れているので熱いものよりは冷たいものを……といった感じで選んだ次第である。

冒頭に戻ろう。本来今日は私たち二人がこのおかしな関係から脱するための日だった。実際、私はさよならを覚悟して今日に臨んでいたのだが、残念ながら当初の思惑は何一つ成就することはなく、昨日のどうしようもないいざこざの果てに瓦解した。

先程鋭く突っ込まれた指摘に倣い、今度はしっかりと主語を加えて「私のこと好きなんですか」と聞き直す。刹那、スマホに落とされていた眼差しがじろりとこちらを見据える。
この言葉を口に出すまでに要した期間はおよそ3ヶ月。我ながら、随分思い切ったものだ。

昨日の出来事のせいで良くも悪くも覚悟が決まっているからなのか、言ってしまった後悔はない。
爆豪さんはといえば、なんとも形容しづらい顔をして閉口していた。馬鹿にしているような、呆れているような、とにかく言葉にできない顔。と、そんな顔をしながらも次の瞬間彼が眦を一瞬釣り上げたので、無意識のうちに否定されるのかと身構える。けれど返ってきたのは、意外にもストレート極まりない一言で。

「今更それかよ」

湯気の消えたコーヒーカップに手を添えて、いかにも当然といった雰囲気で彼が言う。言われた言葉を頭の中で咀嚼しても、素直に受け取るまでには少し時間が掛かった。
今更、ということはつまり私へ向ける感情の正体が、彼の中では既に解決済の問題であるということだ。

さっき爆豪さんは「今更それか」と呟いた。私のことが好きなのかという質問に対しては、否定をしなかった。否定、しなかったのだ。その事実がどくりと胸を打つ。

「好き、なんですか」

期待を込めて見つめ返す。身体中がザワザワして、落ち着かない。まるで空いていた空白にすっぽりとピースが嵌められていくような。そんな心地がする。

「聞いてる?」
「……聞いとるわ」

問いかけても返答が返って来ないので、ほんの少し催促してみたら、途端彼はバツが悪そうに舌打ちをして、呻き声を上げながら頭をガシガシと掻き始はじめた。その後直ぐにちょっと待て、と制されたので私はそれに従う形で頷く。

待つこと十数秒。確実に1分も待ってないはずなのに、それ以上の時間が流れたように感じたのは、きっとこの後爆豪さんから告げられるはずの回答が私にとって何よりも欲しかった言葉だからかもしれない。

「……お前がそう思うンなら、そうなんじゃねェの」
「…………そう」


結論から言えば、爆豪さんは私のことが好きらしかった。ここまできて、呆れるくらい分かりづらい表現だったけれど、まあ私も人のことを言えたものではなかったのでとりあえずは妥協しようと思う。

「70点、かなぁ」
「の割には随分嬉しそうな顔してんじゃねーか」
「……あはは」

緩みきって、綻ぶ顔。染まった頬だけ隠しても、今なら全身から感情を溢れさせてしまう気がする。それほどまでに、どうやら私は彼からの言葉が、証拠が欲しかったらしい。

「爆豪さん」

好きですよ、と静かに告げた。口にしなければと思って自ら紡いだのは初めてだった。
ややあってから、「知っとる」なんて甘くない台詞が吐き捨てるように飛んでくる。いかにも爆豪さんらしくて、私もまた笑う。まだ始まったばかりの私達には、多分このくらいの距離感が丁度いいのだろう。

理由は無いけれど何となく、そう思った。





「うーん、でもやっぱ不公平な気がする」
「……あ?」
「そもそも昨日無理やり吐かされたのが全部の始まりだし」
「あんだよ、何か文句あんならハッキリ言えや」
「私だけ直球で全部言わされたのが何かムカつくなって思っただけです」


そして溶けたカフェオレが無くなって、終わりの時間が間近まで迫った頃。近くをすり抜けて行ったウェイターにおかわりのカフェオレを頼んで、私は今一度爆豪さんへと視線を向ける。

先程、私たちはお互いに好きだと認めあい、晴れてソープ嬢と客という関係ではなく一組の男女の関係へと昇華した。それ自体には何の疑いもなく、そして爆豪さんからの返答にもそれなりに満足しているつもりだ。ただ、ひとつ、言わせてもらうならここまでのことを思い返したときにどうしても納得いかないことがある。それが爆豪さんに噛み付いた理由だった。


ーーーどうして私だけ恥ずかしい本音を言わされて、挙句「めちゃくちゃにして」などという穴があったら入りたくなるような暴露をさせられたのだろう。

「バレバレな癖していつまでも言わねーのが悪ィんだろ」
「それ、爆豪さんほんと何回も言ってますけど、仮に私が爆豪さんのこと全く好きじゃなかったらどうするつもりだったんですか」
「ああ?実際オチてんだから関係ねえだろうが」
「いや、だからそれは結果論であって……」

確かに爆豪さんほど聡い人相手に誤魔化しもしくは逃走という悪手を取ったことは認めよう。とはいえ、それは結果が丸く納まったから良かったというだけの話であって、仮に私が彼に落ちていなかったならば、それでも爆豪さんが同じ行動をあの日起こしていたならば。今頃爆豪さんはトップヒーローじゃなくなっているのである。

……いや、違う。

本当は分かっていた。これは負け惜しみだということを。何もかもが爆豪さんの手のひらの上で転がされた感が否めなくて、最後まで上手で、せっかく想いあえたとしてもストレートな言葉を貰えなかったから。だからこんな遠回しで天邪鬼なことを言い出してしまったのだ。

本当は、きちんとこの人に好きだということを示して欲しいだけ。結局のところ、これはただの八つ当たりだということを私はもう分かっている。相変わらず可愛くない女だと、もしも彼が八つ当たりに気付いているのならそう言われるに違いない。

けれど肝心の爆豪さんの方はといえば、私のこれが八つ当たりであることでさえ、どうやら把握済みなようで。


「惚れねェ自信あんのかよ」
「…………」

休日の家族連れで賑わうカフェテリアの中でも、その言葉はやけに鮮明に響いた。続けて口角を上げた彼が「だァから、その顔何とかしろや」と呟く。その顔、とは彼の先述通り“内面バレバレな顔“のことを指していると思われる。自信ありげに嗤うその人の、なんと腹立たしいことか。しかし残念ながら返す言葉が見つけられずに、私は目をそらすことしか出来ない。

敗北を認めるように、まるで苦虫を噛み潰すみたいに。気付けば自然と「うあー」なんて間抜けな声が出る。この人のことは確かに好きだけど。どうしようもなく堕ちてしまっているけれど、時折やっぱり苦手だ。

「分かったらとっとと諦めろ」
「なにを」
「下んねェことで頭回してんじゃねえっつーことだわ」

後頭部を不意に掴まれて、引き寄せられる。キスしてしまうのでは無いかという距離感に、思わず目を瞑った。けれどいつまで経っても唇は降って来ず、代わりに、聞き慣れた少し低い彼の声が返ってくる。

「お前はもう俺のなんだろ」
「…………爆豪さんの?」
「勝己、だ。何遍言やァ分かんだよ」

初めて会った日と同じ目。同じ眼差し。他でもない私自身を、彼が見つめている。夜特有の熱の篭った視線とはまた違う真剣な目だ。私は、この人がふとした時にこういう目をすることに滅法弱かった。もの呼ばわりはどうなんだろう、そう思っても言葉にすることが出来ない。

それでもやはり言わせたいのか、有無を言わさない眼差しで、その人は私を見るのだ。

「勝己さんの、もの……です」

不公平だと八つ当たりをしていたはずが、いつの間にか更なる恥の塗り重ねになっている。言うや否や「たりめーだ」と勝ち誇ったように笑う顔を、私は今後あと何回見ることになるのだろうか。

「次爆豪っつったら犯す」
「はい?いやいや暴論が過ぎるでしょ」
「るせェ、犯されたくなかったらそんくらい気合い入れて喋れ」
「め、めちゃくちゃだ……」

正午を告げる鐘がどこからともなく響いた。

朝からしていい話題じゃないことは一目、いや一耳瞭然。けれど一層人の増えたカフェテリアの中では、私たちがこんな会話をしていることにさえ他の人達は気付かないようで。

「あァ?こういうンが好きなのはどこのどいつだよ」
「……そういうことは思っても言わないでおいたほうがいいと思いません?」
「ハッ、やなこった」

ため息をひとつ落とす。生憎爆豪さんの横暴さは今に始まったことじゃない。だからきっとこれからもこの嫌がらせじみた意地悪は続くのだろう。

2杯目のカフェオレを飲み干して、深呼吸。爆豪さんもカップの底に僅かに残ったコーヒーを流し込んでいる。余談だが、私はコーヒーよりもカフェオレの方が好きだった。だって人生はいつも苦しくて、私には常々優しくない。だから飲み物くらいは甘いものを選ばせて欲しいという訳なのだ。

「あー、喉痛。こんなんで残り5日耐えられるかな」
「お前、そういや今日20時からか」
「調べたんですか?」
「はァ?……アホか、知っとるに決まっとんだろ」
「え?」
「残りの予約枠の名前」
「…………はい?」

ところで、爆豪さんは甘い人なのだろうか。それとも苦い人なのだろうか。そんなことを少し前から考えるようになった。個人的には今でも圧倒的に苦くて、刺激もあって、寄り添うには覚悟が必要な、そんな人のように思っている。まあそれは私も人のことは言えないのだけれど。

今まで爆豪さんとやり取りをしてきて、幾度この返答をしただろうか。思わず目を丸くしてかの人の顔を見つめると、彼は変わらず意地の悪い笑みを浮かべている。そのまま「見てみろ」なんて言われて嫌な予感がした。
慌ててスマホを開き、予約を確認。爆豪勝己の名前が連綿と続いている。刹那閉口。空いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。

「それでもラスト1日だけ全部取り切れなかったっつーのがムカつくけどな」
「………なんでこんな、」
「……言わなくても分かんだろ」

要は、やはり彼は私のことが好きなようである。それも、割と重度で。

「ま、そういうことだ」

これは、やっぱり、勝てそうにない。

日はまだ登ったばかり。頭のてっぺんにある太陽が月と切り替わるころ、私と彼はまた同じ場所で再会することになる。はたしてその時も、あの獣のように獰猛な目を彼は引っ提げてくるのだろうか。

「ちなみに時間中のんびり過ごすって選択肢は」
「ねェわ」
「ですよねぇ……」

「精々頑張れよ、名前チャン」なんて如何にもわざとらしい言葉を並べて、爆豪さんが笑った。私たちの夜は、まだもう少しだけ終われない。

ぬるい夜じゃ駄目だ
- ナノ -