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わずか数秒の間の出来事だった。隠す気あんのか、と言いたくなるほど真っ赤に染まった顔を指の間から覗かせ必死に深呼吸を繰り返す女に、自ら唇を重ねたのは。
キスでもすりゃ流石に気付くだろうと考えていた先刻までの自分を殴りたい。相手がコイツでなければとうに終わっていた目下の課題も、この女を前にすると全く終わる気配がしないのだから不思議である。




行動を起こしたのは確かに俺だった。ましてや、やらかしたことを後悔している訳でもない。そのはずなのだが次の瞬間には自身の行動がまるで理解出来ず頭の中が一瞬空になった。女も女で想定外だったのか、俺の顔に視線を向けたまま停止している。

なんで、だか、何するの、だか。どっちつかずな困惑にも似た言葉を吐いているものの、その実表情は明らかに何も分からないだけの顔ではなく、僅かに滲む焦りと、苦しみが同じくらいの割合で混じっている。
俺の言葉に一喜一憂して俺の態度に心から困惑しているその姿を見るのは別にこれが初めてではない。けれど女がそんな顔をする度に俺はずっと無性に腹が立って仕方がなかった。
分かってて分からない振りをしているであろうことは明白だ。しかし、それにしても強情過ぎる。何度目になるか分からない「なんつー顔しとんだ」の一言を必死で飲み込んだところで、俺の苛立ちは消えない。

気付けば「心当たりしかねぇ癖にとぼけてんじゃねえぞ」と転び出る言葉が、平静を貫いているようで全く静まっていない心中を物語っている。すぐ様女の顔が困ったように歪む。やっぱり分かってんじゃねえかと思う傍らで、そうまでしてもアイツ自身の口からその一言を言わせたがる、自分の至極面倒臭い感情にも辟易した。

俺は知っている。女は元よりこういう質であったと。目的のためなら自分のことを二の次にする勢いばかりが有り余ってやがる癖に、他人は愚かテメェの感情にさえ疎いという救いようのねェ質のことを。
しかも疎い上にビビりと来ていて、自分に向けられる感情がアイツの理解の範疇を超えると途端に逃げ出す、そんなクソみてぇな質である。女と本格的に関わり出してから俺は既に二度振り回されていた。
普通ならもう諦めるべき事態だ。本人が気にしていないと言うのなら尚のことだろう。けれども不思議と今の自分にこの女のことを投げ打つという選択肢は無かった。それに関しては我ながらどうかしていると認めざるを得ない。





そんなこともありながら、 覚悟を決めて迎えたのが今日だった。待ち合わせ当初から癇に障ることを連発し、挙句先日あれだけバレッバレな嘘を吐いておきながら何事も無かったように振る舞う女に、幾度「はよ言えや!」とキレ散らかしそうになったことか。俺自身決して堪忍袋の緒が頑丈な訳じゃないから、いつブチ切れるかも分からないこの状況の中においてキスだけで済ませた辺りから考えても、そこそこ耐えている方だと思う。

あの後しばらく展示を見回っていたが、その間もあの女はから回る一方だった。気付けば時刻はもう時期17時になろうとしている。





一通り堪能し尽くした水族館を後にし、買取の最後にとやってきたのは水族館から徒歩圏内にあるホテルのレストランだ。ホテルといってもラブホではなく、ファミリー向けのごくありふれたメジャーホテルである。

「…………へ、ここ?」と着くや否や怪訝な声を上げて俺の目を見つめてくる女には目もくれず、俺は黙って歩みを進める。途端、挙動不審になり再び人の目を気にする素振りを見せ始めたコイツの腕をさも分からせるように掴んで引っ張ると、女は「うあ」と何とも気の抜ける吐息を漏らした後に押し黙った。丁度すれ違いざまに女の不注意でぶつかりかけた男が不思議な顔をして通り過ぎていく。


今日は以前と違い、さほど予定を定めている訳では無かった。また、前回ほど余計なスキャンダルへの考慮をしているわけでもない。だから、女の反応はさっきも言っていた通り撮られたら困るという懸念から来るものだろう。

撮られたら困るのは俺の方じゃないのか、先程女が言った問い掛けに対しては、既に返答済である。少なくとも撮られて困る程度の覚悟なら、俺はここまで来ていない。だからこそ皮肉を込めて精々困ってろ、と返したのは記憶に新しいが、あの答えで女が察するかどうかは微妙なところだ。

ウェイターに案内されるがまま席に着く。両隣は家族連れが座っており、和やかな雰囲気でテーブルを囲んでいた。

「ホテルのディナーなんて初めて来た……」

そう言って妙に緊張した面持ちを見せるソイツに「他の客に連れてかれたこともねえのかよ」と返すと、「私達はあくまで恋人気分になってもらうのがメインだから……」との返事が飛んでくる。どうやら買取のデートにホテルディナーは“無い”のだとこの女は一丁前にも言っているらしい。余計なお世話だ。

俺自身ホテルディナーなんてものに馴染みは無かった。別に行きたいと思ったことも、ましてや誰かを連れて行きたいと思ったこともない。柄じゃないことくらい言われなくても分かっている。にもかかわらず、敢えてこの場所にコイツを連れてきた理由は、この後の展開によっては何かと都合がいいと判断したからに他ならない。

「うわ、凄い。良いんですかこれ本当にご馳走になって。」
「自分で頼んどいてそれか。」
「……確かに。」

じゃあ、とご丁寧に両手を合わせ頬を緩めたその顔を真正面から見つめる。暖色ライトに照らされたその顔が僅かに赤らんで見えたのは俺の気の所為か、それともそういうフィルターが掛かっているからなのか。ただ、それを見た瞬間不覚にも一瞬揺らいでしまったことから鑑みるに、どうやら俺の目にはもうこいつ専用のフィルターが設定されているらしい。

俺の言葉に同意した女は、今までのおかしな挙動がまるで嘘のように自然な笑みを浮かべながら俺の方を見た。「お言葉に甘えます。」なんて言葉と共に、ちまちまと食事を口に運んでいく。緩みきった頬を晒し、ソイツは満足げに声を上げた。

これは俺の偏見だが、一般的な風俗嬢というのはここまで気の抜けたアホ面を客の前で見せるようなものなのだろうか。思うに、やはりこの女は根本的に風俗嬢という職には向いていないのだ。


隠すように目を逸らし、水の入ったグラスを大きく傾ける。横目で時計を見遣ると、時刻は17時30分を指していた。潮時か。

言うべきか、言わざるべきか。頭を回す。次の瞬間には言わないという選択肢に軍配が上がる。その間僅か数秒。口付けた時より短い熟考時間だった。まあ、元より悩む必要も無い事柄ではあったが。
丁度残りの料理もやって来て、女が再び目を輝かせながらテーブルの上へと視線を戻す。案の定他人の機微に疎いコイツは俺の変化に気付いていない。

束の間の無言。お互い一言も発さないまま時間が過ぎていく。無言の所為で皿の空く速度が早い。俺は悟られないよう時計を見た。17時、45分。

まさかこのまま、これだけバレバレな態度を示しているにも関わらずはぐらかして逃げようとしてんじゃねえだろうな。

嫌な予感が脳裏を過ぎり、なんとも声を発せないまま女の顔を再度見遣る。刹那、情けないことに俺が想像していたものとは別の事象に遭遇して思わず息を飲んだ。

女が、俺の顔を真っ直ぐ見つめていたのだ。


「爆豪さん」
「…………あ?」

女はどこか泣きそうな顔をしながら笑っていた。俺は咄嗟に、まるで威嚇するように眉を顰める。
意表を突かれたから威嚇した訳では無い、そのはずだ。けれど何故か考えるより早く威嚇が出ていたのだから仕方がない。対して女はそんな俺の様子にも最早慣れたのか、手振りで宥めるような態度を取った後再び口を開く。

「すぐ終わりますから」
「前も聞いたわ。」
「一応ね?爆豪さん気が短いから一応言っておこうと思って。」
「だったらはよ言えや。今更勿体ぶってんじゃねぇ。」
「はいはい、分かりました。」

これが癖なのか、それとも俺と関わるようになって取るようになった態度なのかは、結局のところよく分からなかった。別に怒っているつもりはないが、どうにも俺の機嫌を伺うことに対して、コイツは至高の領域にまで到達しているらしい。直ぐに終わらせようとする辺りがなんとも不愉快ではあったものの、とりあえずは何かしらのアクションを取ろうとしてきた以上は黙って要件とやらに耳を傾けてやる。

女の手には小さなスプーン。見ればデザートらしきソルベがテーブルの中央、丁度俺の手前で融解を始めていた。


「面と向かって言うのは結構恥ずかしいんですが、」
「………。」
「まあ、爆豪さんのことだから若干気付いてるとは思いますけど。」

危うく喉まで出掛けていた今日何度目かも分からないような“良いからはよしろ”の一言を何とか嚥下する。

「私、意外と爆豪さんのこと気にいってました。」

ストローで溶けかけの氷を混ぜた女のグラスから、カラリと小さく衝突音が響いた。

「もちろん爆豪さんに助けてもらったとかそのへんを抜きにしてね。」
「……そうかよ。」
「そうかよって、反応薄くない?いやまあ想定の範囲内だけど。」

そりゃあ、まだ肝心の言葉をその口から聞けていない以上は薄い反応にもなるだろう。というより、女にキレないよう意識しつつ相槌を打つための返答があれだけだったとも言える。

「結局何が言いてぇンだよ。」
「………そうですね。」

あいにく気に入ってました、じゃ俺の中では答えにならない訳で。それでもまだギリギリのところでキレずに耐えているあたり、まだまだ俺は女に甘い。ようやく切り出したかと思えば明後日の方向のお門違いな宣言をされ、いよいよ堪忍袋の緒が切れるかと思った丁度その頃。なんとか押しとどめた突沸を飲み込んで今一度問い掛けると、ソイツは僅かに言い淀んだような表情を見せた。

暫し逡巡するかのような間を挟み、女の唇が綺麗な弧を描き緩む。ややあって漸く意を決したのか、唇が静かに語り出したのは。

「相手が貴方で良かった、ってことですかね。」
「…………ハァ、」

甘く見て30点。厳しく採点するなら、女の回答は10点もやりたくないほどに酷いものだった。つうかなんで過去形なんだよここまで来て寝言ほざくのも大概にしろクソ女。まだそんなんが通じると思っとるんか。

絶句とは、恐らく今の俺のような状態を指すのだろう。怒りを通り越して呆れの方が先に立ち、にわかに頭痛が襲ってくる。

「他は」
「…………え、他?」
「まさか今ので許されると思ってねェだろうな。」

指摘したそばから目を逸らしてくるところを見るに、心当たりがやはりあるらしい。女は途端に言い淀んでどこか困ったような顔をする。さもこれ以上踏み込むなと、細かな所作全てから伝えてくるようなそんな表情だった。

「…………。」

ただひたすらに、一直線に結ばれる唇。コイツのことだ、大方“言いたくないけどどうしよう”とかそんな下らねェことを考えているのだろう。

一頻り沈黙し、ふと空気が膠着状態に突入する。ウェイターの一人がテーブルへとやって来た。その手にはピッチャーが握られており、男が一言「お注ぎいたしましょうか?」と呟く。また随分なタイミングだ。

しかし女は「もう出ますから結構です」と手振りを見せながらそれを躱した。男が頭を軽く下げながら踵を返していく。暫くその後ろ姿を眺めていたものの、女が言った言葉がふと頭の隅に引っ掛かった。

出る、とは今の状況からしてレストランを後にするという意味だろう。それ自体に何らおかしな点は無い。ただひとつ問題なのは、それを言ったのが俺でなく女の方だったことと、言い出したタイミングである。

まさかこの期に及んでまだ追求から逃げようとしているのか、この女は。

「出てどうすんだ。」
「え……。」

熟考も挟まず、思うままに口から思考が飛び出す。案の定女は固まり、明らかに意味がわからないというような顔をする。女も大概だが、俺も俺でこんな伝え方では流石に分からないかもしれない。しかしそんな頭は声に出してしまった時点で既に無いようなものだ。

「出て、そのまま店に戻れりゃそれで満足ってか。」
「ちょっと、何の話……、」
「ざけンじゃねえぞ。」

長いため息が自身の口から漏れる。それと同時に、俺は女の腕を掴んだ。立ち上がり突然のことに困惑した様子の女をそのまま会計まで一直線に連れていく。

会計の間も平常を装っていたからか、店員には特に不審がられることも無かった。店を出て、ホテルのカウンターへ向かう。向かっているのが出口ではなくチェックインカウンターだと気づいたのか、その時女が身体を強ばらせた。

「え、な、何で。」
「ンなもんテメェで考えろ。」

今更抵抗されたところで、女一人押さえつけることなど造作もない。掴んだ方の腕に力を込めながらカウンターのホテルマンと会話を交わす。幸いにも部屋には幾らか空きがあるようで、すぐさま鍵が手渡された。

呆れで怒りが霧散したからだろうか。不思議なことに、女に対する怒りはあまりなく、どちらかといえば、心のどこかでこうなる予感がしていた。寧ろ至極明快な解決策にこぎつけられたことに関してだけは、感謝してやるべきなのかもしれない。

ホテルのエレベーターに乗り混む直前に、背後をふと振り返る。女はあまりにも真っ青な顔で俯いていた。


きみだけの善い夜を

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