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前を歩く、その人の背中はもう以前のように取っ付きづらいものでは無い。こちらの方を伺うような素振りこそなかったけれど、それでも歩幅や歩き方のリズム、全てにおいて私を“意識”してくれている。それに初めて気付いたのは少し前のことだった。そして私が彼を好きだと認識したのも、その辺りだった気がする。

オラ、と言葉にはせず声だけで爆豪さんが私の方へ手を差し伸べてくる。その意図が理解出来ずに一瞬対応にまごついていたら、彼は派手に舌打ちをかましながら私の手を乱暴に掴んだ。

手を掴まれてからは、歩く速度が上がった。私の歩きが遅いからイライラさせたのかとも思ったが、そういう訳でもないらしい。
現在私たちの目の前には人だかりが出来ている。イルカのショーがこの先の大ホールで行われるとアナウンスがあったのはつい先程のことだ。

人の群れの中をスイスイと泳ぐように、爆豪さんは抜けていく。私は、彼が作った後の抜け道を歩く。私に合わせていたら遅いから、いい席が無くなってしまうから。彼が私の手を取った理由は、今の場面では恐らくその二つ程度くらいだろう。けれどたかがそんな理由だけで付き合ってもいない女の手を掴むことが出来るような、この人はそんな人だっただろうかと考えてしまった私は、以来ずっと平常心でいることが出来ていない。

爆豪さんは今日も顔をマスクとサングラスで隠している。けれどそれなりに詳しい人が見ればその人だと気付くくらいの緩い変装だった。そんな格好で絶対に水族館なんて歩いちゃいけないことは、恐らく彼も分かっているはず。それなのに敢えてそれを選びとって、あまつさえ恋人でもない女の手を握るに至った爆豪さんの考えは、残念ながら私には分からない。



待ち合わせからは早いもので数時間が経過している。私達は今、水族館に来ていた。今日も待ち合わせ直後に何処にいくかと聞かれて、私が何となく答えたのが水族館だったのだ。余談だけど、都内は何処にでも直ぐに行けるから便利だよね。

水族館デートなんて、何年ぶりだろう。そこまで気合いの入った服装でもないが、そもそもデートらしいデートがどのようなものかもイマイチ分かっていない私からすれば、今の状況は既に想定の範囲を大きく突出している。

生憎爆豪さんと出掛けることに対しては最早さほど緊張もしていない。けれど手を繋がれるとなると、どうにも話は別なようで。

人の群れの合間をくぐること数分。いつの間にかイルカショーが行われるスタジアムに到着していたらしい。爆豪さんが私の手を掴んだまま不意にスタジアムの下の方を見つめた。そしてそのまま階段を降りていく。手を繋ぐと言うよりは手首を掴まれている状態なので、はたから見たら不穏な雰囲気に見えなくも無い、かもしれない。

「あの、手」

いつになったら離してくれるのか、と遠慮がちに告げてはみるものの。彼はじろりとこちらを一瞥するだけで、私の手を離そうとはしなくて。こんなところ見られたり、万が一にも撮影なんてされたら……、そう考えただけで背筋が凍る思いだ。けれど、それでも爆豪さんは良さげなベンチにたどり着いて腰を下ろしても、私の手を離すことは無かった。


明るい音楽が大きく響く。音に合わせてイルカが舞う様は圧巻である。水族館に来ることも久しぶりだけど、イルカショーを見るのなんていつぶりだっけ。

一向に手を離してくれないままイルカショーを眺めているであろう彼の様子を横目で見ようとして、直後自身の行為を後悔した。
予想だにしていなかった事態に、途端に頭が困惑でいっぱいになる。爆豪さんの目が何故かイルカではなく私のことを捉えていたのである。

一度でも目があってしまったが最後、そのまま逸らすことが出来なくなる両の目。さっさと逸らせばいいのに、何故か不思議と逸らせなくて、気まずさだけが湧いてくる。

「……ンだよ。」
「なん、でもないです。」
「………。」

この状況下、気の利いた言い訳が私の頭に浮かぶはずもなく。どこをどう見てもなんでもないはずは無いのだが、残念ながら私の頭に浮かんだのはいつものそんな一言だけだった。
あーあ、またやった。胸中で独りごちる。彼のことだ、すぐさま何でもねぇ訳ねぇだろとか返答が返ってくるに違いない。と、そう思っていたのだが、意外にも爆豪さんからかえってきたのは無言というリアクションのみで。あれ?なんて思ったのと同時に、イルカが今までよりも一際大きくジャンプした。けれど私の関心は残念ながらイルカより爆豪さんの方に向いているので水槽の方へ視線を向ける余裕は無い。


爆豪さんが口を開く。彼は静かに「いつも何でもねえっつっとんな。お前。」と呟いて、私から目線を外す。


どういう意味ですか。なんて反射的に誤魔化そうとしたところで大した意味をなさないことはもう分かっていた。今日が始まる前に抱いていた懸念が、いよいよ現実みを帯びてきて、心臓がずくりと痛いほどに鼓動を打つ。やっぱり彼は分かっててやっているのかもしれない。でなきゃあんな遠回しな“何でもない訳ねぇだろ”が飛び出すはずもないのだから。

「爆豪さんのことが心配になっただけです。」
「あぁ?どういう意味だ。」
「だって万が一撮られたら困るのは爆豪さんだから。」

本当は何で見てるんですか?とかどうして手を離してくれないんですか?とか。聞きたいことは山ほどあったけど、結局私が選んだのは天邪鬼な言葉だった。

そういえば、いつぞやも同じことを返した気がする。あの時も皮肉を込めて言ったと思うけど、口にした後に虚しくなったのは、言葉に自分自身への皮肉も混じっていたからだろうか。
実際問題撮られて困るのは私より圧倒的に彼の方なので、私の言っていることに間違いはない。とはいえ感情と正論がイコールで結びつくかと言われたら決してそうでも無いところが、人間のめんどくさいところだと思う。

「ンなもん勝手に撮らせときゃいいだろーが。」
「いや、私の話ちゃんと聞いてくれてました?貴方が困るでしょって言ってるの。あることないこと書かれたらどうするつもりなんですか。」
「放っとけ。」

放っとけと言われても。そんなことをすればいよいよ私と爆豪さんの関係は悲惨な形で幕を下ろす羽目になってしまう。彼が何を思いそんなことを言っているのか、まるで分からずに真っ直ぐ見つめ返すと、その時丁度スタジアムの方から今日一番の歓声が上がった。イルカショー最大の見せ場と、私たちのよく分からない言い合いが被ってしまったようだ。

歓声にかき消されて全てを聞き取ることは出来なかったのだが、時を同じくして爆豪さんが呟いた言葉を、わざとらしい態度でスタジアムの方へと視線を戻しながらも頭の中で反芻させる。
今の台詞が私の聞き間違いだったなら、こんなに悩むことも無かったのに。聞こえてしまったものは仕方ないとはいえ、どうして今になってそんなことを言うのだろう。

「精々困ってろや。」

さもまるで、自分は困らないというような口ぶりで落とされたのはそんな言葉で。何度も言うけど撮られて困るのは私より彼の方である。……そのはず、なのだが爆豪さんの態度があまりにも想定外過ぎる所為か、確信をもって言い切れないのが自分でも嫌になった。目を逸らし沈黙したところで、爆豪さんが私の様子を見逃してくれないことなど十分理解している。
それでも私が彼の前で上手く動けなくなってしまうのは今日も今日とて変わらないらしい。


イルカショーはいつの間にやらフィナーレに差し掛かっていた。派手な音と水しぶきが跳ね上がり、斜め前に座っている小さな女の子が楽しそうにはしゃいでいる。そんな中、爆豪さんはと言えば。イルカショーには目も向けず私の顔を見ては意地の悪い笑みを浮かべる始末で。

「ンだ、その顔。」

尖った犬歯を覗かせて、彼は笑う。人を小馬鹿にしたような笑みだ。無論自分がどんな顔をしているかなんてのは鏡を見ない限りは分からない。とはいえ爆豪さんがああやって嘲笑うくらいなのだから、あまり褒められた顔じゃないのはなんとなく理解が出来た。

「み、見ないでください……。」
「ハッ、嫌なこった。」

手で顔を覆い隠そうとしても、その瞬間至極楽しそうな声と表情をした爆豪さんが私の顔を覗き込んでくる。逃げることすら叶わない状況なんて今に始まったことじゃないけれど、これは、このやりとりははたして何の意味があるというの。私を困らせて、見られたくない表情を記憶に収め馬鹿にすることが彼の目的なら、その理由は一体。

今までは彼の行動全ての意味が知りたいと思っていた。けれどもう、そんなことを言っていられるような状況でもない。

「…………本っ当いい性格してる。」
「言ってろ。」

指の隙間から爆豪さんの様子を覗き見た。彼は既に私のことを見てはいなかった。「てめェも大概だろうが」そう呟いては、持っていたペットボトルを振っている。

爆豪さんの言う通り、私も大概だ。自分の想いに蓋をして終わらせようと思っていながら、行動はまるで真反対なことをしている。こうやって他愛ない会話をすることに喜びを覚えている、自分がいる。叶わないと高をくくったのは私なのに、諦めると決めたのは私なのに、それなのに何故。

これ以上考えても辛くなるだけだと分かっていた。だからもう思考を止めよう。そう考えて、再び顔を手で覆ってからため息をひとつ吐く。

落ち着け、落ち着くんだ私。時期に今日も終わる。
今日が終われば、全てが丸く収まる。

フィナーレの音楽が静かな音に切り替わった。歓声が止み、先程から耳には拍手の音だけが聞こえている。ショーがどうやら終わったらしい。
結局ショーには殆ど集中することが出来なかった。本当つくづく散々な目に遭うなと思いながら再び目を開くと、刹那鋭く細められた瞳とがっつり目が合う。

瞳の持ち主は言わずもがな爆豪さんで、指の隙間から覗く眼差しは相変わらず何か言いたげに細められている。

所謂デジャヴ。さっきもこんな風に目が合ってしまって、見苦しい言い訳を述べる羽目になったような。
けれど先程と違うのは、その距離感だった。先程目が合ったときとは比べ物にならないほどに、眼前に彼の顔が迫っている。



「ひでェ面だな。」と、爆豪さんが数秒私に口付けた後に呟いた。無論鏡がないから、今の自分がどんな顔をしているのかは分からない。とはいえ彼の口ぶりからして何となく察することが出来るくらいには、きっと本当に酷い顔をしているのだと思う。

私の口からなんで、と何するの、を綯い交ぜにしたような言葉にならない吐息が漏れる。彼は顔色ひとつ変えず唇を僅かに拭った。

「心当たりしかねぇ癖にとぼけてんじゃねえぞ」

心臓が嫌な音を立てる。ミシ、でもズシ、でもない、とにかく嫌な音だった。私を置いて立ち上がりスタジアムの出口へと向かう爆豪さん。生憎言われたことを理解するので精一杯な私を置いて、彼は一足先に行ってしまった。まだ立ち上がるのにはもう少し時間が掛かりそうだ。

貴方って一等悪いひと

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