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思えば女の口からあのことが飛び出すことを、俺はもうずっと前から恐れていた。いつからそう考えていたのかは、思い出そうとしてもよく分からない。面と向かって初めて会ったあの日だったような気もするし、俺がヒーローであるとあの女に気づかれた日だったような気もしている。兎に角気づいた時にはその感情が既にそこに存在していることを俺は確かに知覚していたのだ。

今までの人生、思うようにならなかったことは多々あれど、その全てに於いて遺恨を残すような形で物事が終わったことは一度も無い。無論自惚れではなく、本気でそう思っている。俺自身完璧主義者だったというのも関係しているが、兎に角自分で必ず遂げると心に決め始めた物事は何が何でも納得出来る形で終わらせてきた。

妥協という言葉は生憎俺の頭の中に存在していない。大爆殺神ダイナマイトというヒーローの中にも、もちろん無い。俺の人生において曇りなど何一つあるはずも無かった。ただの一つ、あの女のことを覗いては。


あの日も丁度今日と同じ歳末で、兎に角人の出入りが激しい一日だったのを覚えている。大型商業施設で巨大ヴィランが暴れたという通報が入り、救助要請に応えた俺は現場へと向かった。そして、その中でも特に被害の大きかった地下二階。元々エスカレーターがあったであろう場所で、人間の腕だけが小さくはみ出しているのを見つけたのだ。

腕は見る限り明らかに女の腕だった。生気の感じられない細い腕。それが目の前に無造作に転がっている。放っておけば時期死ぬであろう人間が、確かにそこにいた。
当時俺の他にその場にたどり着いていたヒーロー達は、巨大な瓦礫を一気に移動させられるような奴が一人もいなかった。だからなのか人間の腕が飛び出した瓦礫を発見しても、ただどよめくだけでモブ共は全く動こうとしない。何してんだコイツら。ふと要らん怒りが込み上げる。

いつものように、ただ狼狽を続ける輩に「退けや」とだけ呟いてそいつらの前へと歩み出る。脱出を阻害するであろう瓦礫だけに狙いを定め、息を吐いた。俺ならやれる、とそう思ったから。

点での放出というのは学生時代の修練の賜物だ。今更外すような真似も、ましてや要救助者を死なせるような真似もしない。この時の俺はそう高を括っていた。それがどんな結果を招くことになるのかも知らず。

結果、腕の持ち主である女は生き延びた。俺が誤って爆破を被弾させたことによって出来た肩口の大きな傷跡を、その身体に残したまま。名前という女は意識を取り戻した。
冷たく重い身体を背負い、崩れかけたモールの中から抜け出したあの日の、今にも絶えそうな息遣いと焦げた匂いが離れない。俺の下した判断は改めて間違いではなかったのだとバッシングの後、マスコミが報道を撤回した今ですら、それはずっと瞼の裏に焼き付いている。





無機質な電子音が響いた。今しがた捌き終えた後の喧騒真っ只中にいても、その音だけはやけにはっきりと、そして静かに聞こえている。
俺らしくもない説教を垂れた日から、既にひと月ほど経過した今日。世間は大晦日というイベントに沸き立ち、クソみたいな業務だけが立て続けに舞い込んでくる。そんな折に、何を思ったか女から再び電話が掛かってきたのは数分ほど前の出来事だった。

どういう風の吹き回しだと、言ったことは少なくとも本心で。俺とアイツが最後に交わした会話を考えれば至極当然のことだと思う。客に切りつけられても尚あんな風に言ってのけた奴のことが正直理解出来なかったのだ。

けれど今日、いざ電話口に出たアイツは先日とは打って変わって大人しかった。大人しいと言うよりは何かを悟ったような、何かを心に決めたような、そんな雰囲気を纏っていたのである。

本当にどういう風の吹き回しだよ、とそう思った傍らで(遂に気付かれたのか)と一瞬嫌な予感がした。すぐ様なんで俺がこんなこと思わなきゃなんねーんだよと頭を振ってみたものの、一度でも抱いてしまった感情は誤魔化せない。ついでに店を辞めるのだと言い出したアイツの言葉に心のどこかが安堵したことも気の所為だと言い切れたらどんなに良かっただろう。

どうやら俺はもう随分と、脳内をあの女にねじ曲げられてしまったらしい。


一方的に切られた通話の、最後に女が言った言葉を頭に浮かべる。如何にもアイツらしい言葉だと、振り返ってそう思う。俺のことを何一つ分かってねぇ癖に分かった気になって、その癖“貴方のおかげです”などと。そこに一片の曇りも存在していないような、そんな別れの言葉を述べて一方的に電話を切った女に対して真っ先に浮かぶのは「せめてそれっぽい声させてから言えや」の一言だけで。

電話を敢えて掛け直した理由は、単純にこのままコケにされ続けてたまるかという理由に他ならなかった。恐らくあの女に俺をコケにするつもりは全くないんだろうが、結果として言い逃げ紛いの行為の末に止めるまもなく電話を切られたのだから、俺にとってはコケにされているのと同義である。ここまで来たら最早逃がすという選択肢は残っていなかった。いつぞや言われた「どうしてそこまで?」の問いかけがふと頭に浮かぶ。その答えはもう3年前から決まっていた。そうだ、俺は昔からこういう人間だった。周りが認めても、自分自身が認められなければ、それは何の意味も為さないのだと。






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母から聞いた話によれば、入院中、私が目覚める前からあの人は見舞いと謝罪に来ていたらしい。

過ぎたことは仕方ないというのがモットーの母に似たのか、電話を終えてからの私はそれを聞いても意外なことに平常心だった。既に最後、会う約束を取りつけていたからかもしれないが。

あの後律儀にメッセージアプリでも同じ文言を繰り返し、「忘れたらコロス」と一言入れてきた爆豪さんに、私は「忘れませんよ」とだけ返した。今の今で忘れられるはずもないと思ったのはここだけの話だ。


爆豪さんからのメッセージを一通り自身を落ち着かせた後に再度確認する。お前の一日寄越せという言葉からも分かるように、買い取る気は満々らしい。

彼から指定された時間を何度も再確認する。そして何度見ても終わりが19時であることを確認して、ほんの少し胸が苦しくなった。あの時の爆豪さんは私の内心を見抜いて最後買取を提案してくれたのだろうが、恋心と形容するのも厄介な、このどうしようもない感情までは慮ってくれないようだ。

爆豪さんが何を思って私と会う約束を取り付けたのか、その真意までは未だ分からない。けれど私は、今まで辞めていった人達から都合のいい女としてキープしたい下心が透けて見えた常連客の話や、逆に心からの善意で退店を祝おうとしてくれた常連客の話など、退店時における様々な与太話を沢山聞かされてきている。だから、分からなくても想像することは可能だった。

なお爆豪さんに於いては恐らく後者であると予想される。私の退店を祝うためにわざわざ一日空けてくれたのだろう。……あの爆豪さんが?と若干信じられない気持ちの方が大きいが、まあでもあの人ならやりかねないと思う気持ちも大きいのでそういうことにしておく。本当は私の想いに彼が気付いていて、結果等を一旦抜きにしても言わないまま有耶無耶にさせない為の行為だったのかも、なんて一瞬考えちゃったりもしたけど、それはきっと私の思い過ごしだ。

勿論祝われることというのはすごく有難いことで、昼ごろから19時までという長いようで短い指定の時間は、まさにソープ嬢の退店を祝うにはもってこいの時間だと思った。しかしそれと同時に、やっぱり私の気持ちが一方通行であることを改めて思い知らされてしまっては、複雑な心境になるのも無理はなくて。


どうやら彼はもう、私と身体を重ねる気はないらしい。
当たり前か。私は彼にとって負い目のある被害者でしかなかったのだから。


都合のいい女にされたかったわけじゃない。失恋がしたかったわけでもない。かといって、恋人にして欲しかったのかどうかと問われれば、イエスと手放しに言い切れるほど単純な感情でも無いような気がしている。

多分失恋がほぼ確定したと分かった時点で、出来るだけ傷を浅く、何事も無かったように振る舞いたかっただけなのだ、私は。でも、その逃げの一手さえ許されなかった時のことまでは残念ながら考えていなかった。相変わらず爆豪さんは何を求めているのかが分かりづらいな。

見抜かれたことを一瞬でも嬉しく感じたのは、今にして思えば女性特有の“察して欲しい”が通じたからである。何だかんだ言って察して欲しい のと けれど爆豪さんとどうこうなりたい訳でもない が均等に混ざりあった面倒臭い性格がこの事態を引き起こしたことも理解はしているつもりだ。

私は決して爆豪さんに想いを伝える気はなかった。対して爆豪さんは私の考えに若干勘づいている節がある。気付かないふりをし通すか否かは、最早彼に会ってみないと分からない。

そうだ、私が考えたところであの人のことを正しく全て理解するなんて、今まで一度も出来なかった。

ならもう、うじうじしても仕方ない。


幸か不幸か、会うのはこれが最後になる。もう身体を重ねることも恋人ごっこに従ずる必要もない。ならば今日くらいは源氏名の服を脱ぎ捨てて名前のまま、彼に会ってもいいだろうか。



店用のドレスとは異なる購入したばかりのシンプルなワンピースとコートに身を包み、待ち合わせに指定されていた駅前の変わったオブジェクトを眺める。彼はまだ到着していないようで、そこには私と同じように待ち合わせをしているであろう人達が、今か今かと待ち人の到来を待ち侘びていた。

年明け早々の駅前。手持ち無沙汰になりながらも辺りを見渡すと、忙しそうに改札を抜けていくサラリーマンばかりが目につく。つい先日仕事始めだったという人も多いのだろう。
そんな中、日本を代表するほどのトップヒーローが、たかが一人の女のために私以上に詰まっている予定をわざわざ空けてもう時期この場にやって来るというのだから、何とも不思議な気分だ。


不意に、隣で私と同じく人を待っていた女性が明るい声を上げながら手を振った。待っていた人が到着したのか、見ているこっちが思わず笑ってしまいそうなほどに柔らかな笑みを浮かべて、やってきた男性と肩を並べて街の向こうに消えていく。見るからにこれからデートですとでも言いたげな眼差しが、何故か印象的で胸に残った。

約束の時間からは30分程早い。普段なら10分前くらいに着けばいいやと思っている私からすれば、今日の待ち合わせは明らかに気合いが入っているのだが、生憎ながら爆豪さんに会いたい一心なんて可愛げのある理由では無い。毎回毎回待ち合わせに遅れた訳でもないのに遅いと言われ、勝ち誇ったような顔をされるのが嫌で、今日こそ彼より先に到着して見返してやろうと考えただけである。

木枯らしが吹き、ワンピースの裾を揺らす。見返してやりたいと思い早めにやってきたものの、待ち合わせ場所が屋外な所為か、コートを着ていてもやはり寒いものは寒かった。大人しく時間ピッタリにきておけば良かった、なんて少し後悔する。小さく震えながらコートの前をしっかり引き寄せて、しかと握った。今日はやけに風が冷たい。

「うぅ、」

俯きながら手をさすっていたその時のことだ。

「何してんだ。」

ふと頭上から呆れたようなため息混じりの声がした。顔を上げる。視界の端に、クリーム色の柔らかそうな毛髪が見える。

こんなふうに声をかけてくる人は、後にも先にもこの人以外に有り得ない。顔をあげればそこには、きっと彼が立っているのだろう。

「………遅いですよ。」
「あ?」

初めて会った時と同じ全身黒の出で立ちで、口をへの字に曲げた爆豪さんがそこにいた。

差し色に巻かれた爆豪さんのマフラーはとても暖かそうだ。如何にも爆豪さんらしいなと思うような、シンプルだけど厳つすぎないカモフラ柄のマフラーだった。

ごく自然な雰囲気で、私は微笑む。彼は問いかけには返答せず、ただ私の顔をじとりとなんとも言えない眼差しで見つめてから、ぶっきらぼうに「うっせえ」とだけ発した。整った顔立ちに違わぬ鋭い目線。それから眼差し。全部が初めて出会ったあの日に戻ったようで、やっぱり少しだけ寂しい。

おあいにく様、お互い様

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