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どの口がそれを言うんだと、人に向かって盛大に怒りを顕にしたのはあの日が初めてだった。

何も知らないくせに、言ってくれないくせに。私の何を知っていて貴方はそんなことが言えるのかと、電話口に向かって吠えた。貴方にそんなことを言われる筋合いはないと泣きそうになりながら感情をあそこまで顕わにしたのも、初めてのことである。

彼は黙したまま、私の怒りに言葉を返すことは無かった。ただ静かにそれを聞くだけ。反論ひとつしようとしてこなかったところから鑑みるに、私のことを面倒くさい奴だと思ったのかもしれない。
考えてしまった瞬間から、まるで心臓が冷や汗をかくように様々な感情が込み上げてくる。それがどうしようもなく嫌で、締め付けられるように胸が苦しくなった。でも何がそんなに苦しいのかのかさえ上手く言葉に出来ない自分が何よりも嫌だった。

貴方は私をどうしたいの、思わず漏れる。けれど言った後に少し後悔した。どうしたいのと聞いておきながら、私自身何を聞いているんだろう。


意外なほどに、“終わり“はあっさりと両者の間に訪れて、その瞬間のことは既に数週間ほど経った今では最早霧が掛かったようにハッキリと思い出せなくなりつつある。今更ながら別に彼からの答えに期待した訳じゃなかった。けれど爆豪さんから返ってきた「別に」の一言が、私の中では思ったより深く突き刺さってしまったらしい。

「分かりました。」と呟いた声もまた、自分のものじゃないんじゃないかと錯覚するほどに冷たかった。刹那、短く息を飲んだ音が向こうから聞こえる。おい、とすぐさま言われるであろうことを簡単に予想出来てしまった私は、その後逃げるように電話を切った。

それから今日までの間、彼からの連絡はおろか、予約すら一件も入っていない。




夜。歳末の夜ともなればいつになく騒がしく、店は今年一年の中でも一番の賑わいを見せている。決して薄くない壁なのに今日だけは至る所から艶のある声が響いていた。
その壁に囲まれた店内奥に位置する休憩室の中。ルナさんがため息を吐きながら私の対角に座っている。

「そっかぁ、……源氏名ちゃん辞めちゃうんだね。」
「はい、何かとお世話になりました。」
「あたしは何もしてないよ。……てか地味にショックだなー、源氏名ちゃんマジで心配になるくらい良い子なんだもん。」
「それほどでもないと思いますけど……。」
「いやいや、それほどでもあるって。あたしが保証する!」

大袈裟な泣き真似をしてみせた彼女を見て、あの日からすっかり沈んでいた感情が浮き上がる。久しぶりに少しだけ心の底から笑ったような、そんな気がした。
寂しくなるねと呟いて顔を覆ったルナさんに「ほんとにそう思ってくれてます?」なんて軽口を叩けるくらいには、どうやら回復しているらしい。

「勿論……寂しいに決まってるじゃん。」
「…………なんで一瞬詰まったんですか?」
「たまたまよ、たまたま。ちょっとライバル減ってラッキーとかそんなこと考えちゃった訳じゃないから!絶対!」
「ラッキーて、」

ルナさんは愛嬌がある。同性の私から見ても可愛らしいし、人に不快感を与えない程度の冗談を選ぶのが本当に上手いのである。流石は人気ナンバーワン嬢と言うべきか。
人気ナンバーワンの嬢から少なからずライバル認定を受けていたことを知り、嬉しくなった私はため息混じりにルナさんと同じテンションで「酷い、ルナさんのこと良い先輩だと思ってたのに。」と返す。言うや否や、彼女の表情は泣き真似から一変。気付けば「この世界は弱肉強食だよ、源氏名ちゃん。」という言葉と共に今度は悪戯っ子のような顔つきになった。




リ・ルージュを辞めると言い出したのは昨日のことだ。

こんなふうに言い表していいのかは謎だけど、あの恐ろしい事件のほとぼりも冷め、傷がほとんど消えたタイミングで、私はオーナーに退職を持ち掛けた。辞めさせてくださいと言い出した時の私の顔があまりにもケロッとしていたからなのか、不思議とオーナーからそれ以上追求されることも無くただ一言そっかとだけ返されたのは、まだ記憶に新しい。


辞めようと思ったのは単純に実家の借金返済の目処がついたからである。そこにあの事件のことは、一ミリも絡んではいない。……のだけれども、どうにも他のスタッフはそうは思わなかったみたいで、最終出勤日までの間は今まで通り出勤すると伝えたら本気で心配されてしまった。

何なら「有給使う?」なんてありもしない有給を提示される始末で、返答にものすごく困ったのは言うまでもない。

「次の仕事はもう決まってんの?」
「はい、一応。」
「あ、もしかして寿退社ってやつだ?」
「えっ、違いますよ!」

これで、いよいよ私は源氏名とさよならをすることになる。ふと物思いに耽りそうになって慌てて思考を元に戻すと、その時ルナさんが茶化しながら羨ましいなー、なんて言って机の上のポッキーをつまんだ。

次の仕事はれっきとした昼職だった。幸いなことに父親の昔の知り合いのところで働かないかとの話を頂いたのだ。

「次は事務職です。」
「源氏名ちゃんパソコン出来たんだ。」
「人並みには。」
「へえ、いがーい。」

さほど興味も無さそうに彼女がスマホへと視線を向ける。相槌が途端適当になったルナさんに、若干の苦笑いが浮かんだ。

寿退社じゃなくて悪かったですね、あいにくこちとら好きになった人に勝手に失望して派手に突き放したばかりですよ。今日のテンションならそれくらい軽口混じりに言い返せたかもしれない。けれど万が一にもそんな風に言ったら今度は逆にルナさんが物凄い勢いで食いついてくるであろうことは明白で。

いくら数週間経っているとはいえ、まだあの話を笑い混じりに話せるほど私は癒えていない。爆豪さんのことを考えると、やっぱりまだまだ重い気分になる。自分でもよっぽど落ちてたんだなと振り返ってみて思ったけれど、でも恋なんてきっといつになってもそんなものなのだろう。

「じゃあさ、源氏名ちゃんの上客?が次来たらそのまま貰っても良い?」
「へ?」
「地雷地雷言ってたイケメンの人!」
「……あ、あー、あの人。」

けれど唐突に爆豪さんのことを話題に出されてしまって、少し反応に遅れた。可能ならば傷心に浸ることくらいは許されると思っていたが、現実はやはり優しくないようで。

ルナさんが爆豪さんを直で見たことは無い。だからあくまで彼女の抱いている興味というのは私から聞いたイケメンであることと上手かったということに起因していると思われる。所謂女同士の略奪宣言とは違う意味合いで彼女は発したのだろう。それでも私にとっては手放しにどうぞどうぞ!と肯定しづらい問い掛け過ぎて、上手い返答をすることすら叶わなかった。

「いいですけどあの人ちょっと面倒くさいですよ?」
「イケメンなんて皆そんなもんじゃん。」
「あはは、確かに。」
「まあ、そもそもあたしに落とせない男なんていないから問題ないんだけどね。」
「……確かに。」

今この場で素直にダメです!なんて言ったところで、起きた結果は二度と覆らないのだと自分でもよく分かっている。

人気ナンバーワン嬢の手にかかったら、時期爆豪さんも彼女の方に行ってしまうのか……嫌だな。などと、どれだけそう考えたところで零れた水は決して盆に戻らないのだ。
私達は所詮客と嬢で、どちらかが一度でも崩れてしまえば以降は永遠に交わらない。そう分かっていたにも関わらず恋に落ちた以上は、全てが私の落ち度である。

だから、今再び私を襲う胸の苦しみも、自己嫌悪も、全て受け入れるしかない。

「もしも落とせたら私の分まで絞っちゃってください。」
「えー、良いの?」
「あの人には色々酷い目に合ってるので。」
「源氏名ちゃんも結構言うね。」
「辞めちゃえば関係ないですから。」

言っておいてアレだけど、地味にキツくて我ながら驚いた。思ってもいないことを口にするのは慣れたものだと思ってたけど、私という女は存外繊細なのかもしれない。

ルナさんが「オッケー、任せて。」と呟く。源氏名ちゃんの敵はあたしが取ったげる、なんて笑顔で続けたルナさんの表情は相変わらず愛くるしくて、美しい。対して私の方は、ルナさんの言葉に上手く笑えた気がしなくて。

“いつかこの想いとさよなら出来る日が来ればいいけど“

不自然に曲がった口角を誤魔化すように私は顔を逸らした。彼女は何も言わず、ただ笑うだけだった。







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「あ」
「え?」

大晦日を明後日に控えた年末の昼下がりのことである。久しぶりにまとまった休みを取って浮かれていた私は、ふとテレビに流れた爆豪さんの姿に素っ頓狂な声を上げた。自分の部屋ではなくリビングでの出来事だ。

突然声を上げた娘に驚いたのか、傍らでは母が同じように驚いた表情を浮かべながらこちらを見つめている。その手には洗ったばかりの皿が握られており、ふと落としそうだと考えていたのもつかの間、皿が瞬きの間に手から放たれる。先程よりも大きな声が出た時には既に遅く、床には皿の破片が散らばっていた。

「あーあ、やっちゃった。」
「大丈夫?」
「大丈夫よ。」

歳をとるとやーねなんて小さく呟いて、母は緩慢な動きでホウキを手に取りそのまま片付けを始めた。
幸い怪我はなさそうなので、音の割にそこまで大惨事という程でもないのだろう。手馴れた様子で破片を片していく母を一瞥した後、私は手伝うこともせずに視線をテレビへと戻す。

我が家のテレビは大きい。そんな我が家のテレビを現在独占しているのは他でもない爆豪さんただ一人。テレビをたまたまザッピングしている最中、その番組に釘付けになってしまったことに関しては弁解の余地もないが、とりあえず見る分には怪しまれることも無いようなので私はそのまま彼の映っている番組をぼうっと眺めることにした。


久しぶりに聞く彼の声は、以前私に向けていた声色のどれとも違っている。所謂テレビ向けの顔なのだろうけど、そもそも爆豪さんテレビなんて出るんだという驚きの方が大きい。

画面の中を縦横無尽に駆け回る爆豪さん。場面はヴィラン撃退に写り変わっている。彼が戦っているところをしっかりと見るのはそういえば初めてだ。


派手な閃光が煌めいたかと思えば、黒煙の中には既に気を失ったらしいヴィランの姿が映った。ヴィランの襟ぐりを片手に掴み黒煙の中から舞い戻ってくる彼の目があまりにも獰猛で、これがトップヒーローかと改めて実感する。

私に向けていた眼差しの意味は、結局分からず終いで。我ながら何をしていたんだろうと今更どうすることも出来ない感情が脳裏を掠める。勝手に傷ついて、勝手に失望して……言われたままの言葉に憤って。

もう子供じゃないというのにやっていることはまるで子供のまま。いっそ会わなきゃ良かったなんて叶いもしないことまで思い始める始末である。我ながら本当、しょうもない。

見ていると、何故かどうしようもないくらい辛くなった。折角の休みでゆったり過ごしているところをこんな重苦しい気分でいる必要が一体どこにあるというのだろうか。口を開けばため息ばかりになりそうで、そろそろチャンネルを変えようかとリモコンに手を伸ばす。

「あらー、」
「……え?」

とりあえずバラエティにしようかな、なんて思いながらボタンを押そうとしたその時のことだった。

ふと声がした方へと顔を向ければ、母がテレビを見つめにこやかな笑顔を浮かべている。片付けが終わったのか、その手には袋がぶら下がったまま。けれど何故か母がその姿のまま停止して、熱心にテレビを見つめていたのだ。

「え、なに?どうしたの?」
「凄いわねー、ビルボードチャート12位だって。」

その興味は明らかに爆豪さん……もとい大爆殺神ダイナマイトに向いているようだった。

「ほら、検証もされてる!現場への到達時間が全ヒーローの中でもぶっちぎりだって。」
「ああ、うん、そう。……というか、え?」


お母さん、もしかして爆豪さんのファンなの??

普段そういうのを殆ど見ないはずの母から予想だにしていない投げかけが飛んできては、途端にしどろもどろな雰囲気になるのも無理はないと思われる。

突然の事態に、一瞬思考が停止した。

それほどまでに母が爆豪さんを知っていて、しかも彼の活躍を大層喜んでいることが想像出来なかったのだ。……まさか私が爆豪さんを気に入ったのは血筋故でした、とかそんなオチだったりするのだろうか。

いや、そんなはずは無い。有り得ない。

「お母さんいつの間にヒーローとか応援するタイプになったの?」
「え?応援?」
「前はあんまり興味無さそうだったじゃない。」
「どちらかと言えば今もそこまで興味ある訳じゃないけれど、」

そう言って、お母さんは眉間に皺を寄せた。まるで困惑を隠せないみたいな、そんな雰囲気だった。
なおも首を僅かに傾げながら何か言いたげに、母は私の様子を伺っている。一体どうしたのか。

「どうしたの?」
「……別に大したことじゃないんだけどね、」
「なに?私なんかおかしなこと言った?」
「もしかして覚えてないの?あの人のこと。」


不意に、頭をハンマーで殴られたような衝撃。デジャブとはまた違う感覚が私の中を駆け巡った。

今、母は爆豪さんのことをなんと言っただろうか。覚えていないの?と私に聞いたのだろうか。……どうして爆豪さんと同じことを、母に聞かれるのだろう。

「覚えてないって、なに、どういうこと……?」
「その様子だと、ホントに覚えてないのね。」


まーでも確かにあなた強めの麻酔でフラフラだったし覚えてなくても無理ないわね、となんでもないような素振りで母が続ける。強めの麻酔なんて単語が家族の会話に出るのは中々のことではないだろうか。しかしその言葉を聞いた瞬間に、私の中にはひとつの確信が生まれてしまう。

二十余年という人生の中で、唯一大怪我を負った出来事。そして、ヒーローという職業の人に救けだされたことなんて、きっとあれ以外有り得ない。


「瓦礫の下敷きになってたあなたを助けてくれたの、この人よ。」

もう、3年も前の出来事だ。

母がテレビを指さしながら「今でも感謝してもし切れない」と呟いた。母と私の視線の先には、今も尚勇猛な赤瞳を湛えた彼の姿がある。

呪いの色はあかだった

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