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生憎の雨。今日は朝から一日中、気の滅入るような雨音が続いていた。天気予報でも終日通して雨が降ると予報されていたし、実際現在進行形で雨が視界を覆っている。時折目に入ってくる雨粒がどうにも不快で、乱雑に目元を拭ったとして、心は一向に晴れない。何もかもが億劫になった私は敢えて傘をささずに、雨音が響く大通りへと躍り出る。包帯を替えてもらったばかりの腕に雨がひとつ、ふたつと染みていくのを呆然と眺めていたら、少しだけ泣きたくなった。


月が変わり、季節はいよいよコートの必要な時期へと移り変わる。殆どのサラリーマンがせっせと仕事に精を出し、1年の総精算へとひた走る師走。そんな時期がもうそこまで来ようとしていた。

私の所属しているソープランドも、12月が1年の中でも一二を争う繁忙期である。理由はまあ、言わずもがなボーナスのお陰なのだが、我がリ・ルージュは特にその傾向が強かった。

そんな折の、昼下がり。本来ならば出勤に向けて準備をしている頃合である。私は現在行きつけの病院にいた。予定ではシフトを入れており、こんな所に居ていいような状況じゃない。オマケに髪もメイクも店用のものからは程遠い様相をしているのだが、兎にも角にも私は現在、悠長に傘をささないまま通りを歩いていた。

折角の繁忙期なのに、一体こんなところで私は何をしているのだろう。思えば私は本当に昔から運がない。少し好転したかと思えば、すぐに暗転するような、そんな人生。口に出すと思い知ってしまうからいつもぼかしてはいたけれど、やっぱり私って相当に運がないと思う。こういう珍しい事態が恋心を自覚した直後に降り掛かってくる辺り、特に。
借金の返済という大きな目標が近づいたとか、本当に久しぶりに恋をしただとか、そう思った矢先に起こす出来事としては重すぎると思うのよ、神様。


味わうべきだった感情が、傷を負わされたあの日から実に一週間以上経った今になって現れる。初めてついた客に、ナイフで脅され切りつけられる羽目になったのは先週の出来事だった。

確かに雰囲気がおかしな人であった。けれど、まさかナイフを片手に「騒いだら刺すから」なんて言葉を吐いて、おびえる私を何度も犯した挙句突然切りつけてくるような人だってことまでは流石に想定していなくて。
なんで分かってくれないんだよ!!と男は何度も叫びながら私を犯していた。大粒の涙が胸元に零れていくのを死んだ目で見ていたから、その光景をよく覚えている。そんなこと言われても。私貴方のこと何も知らないんですけど。思わずうっかり浮かんだ言葉がそのまま出ちゃった時は本当に焦った。そんなことをこのタイミングで言おうものなら相手を逆上させてしまうことくらい、きっと分かっていたはずなのに。


「傷、残っちゃうのか……」

徐々に雨を帯びて重く、冷たくなっていく身体。真新しい包帯の上からそっと傷があった部分をなぞり、未だ足取りの重いその身を引き摺りながら帰路に着く。

事故にあってから今日までの間はずっと休みにしてもらっていた。かれこれ本来出勤するはずだった日からは5日程経過しようとしていたが、幸いにも今日お医者様から「もう大分塞がってますね」のお墨付きを貰えたので、来週こそ出勤するつもりだ。さほど深い傷でなかったとはいえ、人間の身体というのは意外にも頑丈で驚いてしまう。

ふと爆豪さんから予約貰ってたのに何も連絡できないままだったのを思い出した。……爆豪さん、怒ってないといいけど。まあでもオーナーから常連さんには詳細を伏せて連絡してもらっているし多分大丈夫だろう。そんなふうに考えながらしばらく確認していなかった仕事用のスマホを取り出す。するとそこには、ある意味珍しい文字の羅列が並んでいた。

爆豪さんからの着信、1件。日付は昨日の夕方だ。オーナーからお詫びの連絡を入れてもらったのは、確か3日ほど前の出来事だったと思う。私がお客さんに切りつけられたというのはもちろん隠してお詫びした、とオーナーは言っていた。この数日間で起きたのはたったそれだけのことである。

ならば何故。

爆豪さんとはいい商売関係を結べていると思っている。謎はまだまだ残っているけど。それでも初期からすれば大分自分らしく話せるようになったものだ。

しばし悩んだ末、私は着信履歴をそのまま押して爆豪さんに掛け直した。しかしコールが数回鳴っても、彼が電話を取る気配はない。
やはりこの時間に掛け直すのはまずかっただろうか。止まらない呼び出し音をぼうっと思考の傍らに留めながら、そろそろ切ろうと画面を耳から離す。が、その時不意にブツ、と音がした。


「爆豪……さん?」
「……」

掛からないと思っていた矢先にいざ繋がってしまうと、なんとも言えずぎこちない切り出し方になってしまうのは仕方のないことだと思う。電話は、いつの間にか通話画面に切り替わっており、その相手は他でもない爆豪さんだ。

とりあえず呼びかけてみるものの、返事は無い。しかし確実に電話は繋がっている。今一度彼の名前を呼びしっかりとスピーカーに耳を傾けた、その時。

「爆豪さ、」
「怪我は」
「えっ」

その後に続く言葉を聞いた時、驚きのあまり言葉が上手く出なかった。……無論今に始まったことではないけども。

なんで知ってるの。店の人しか知らないはずなのに。

言葉に出せなかったそれ。しかし私が言いたいことは後にも先にもそのひとつだけである。えっ、だの、なんで、だのと声にならない疑問が図らずとも漏れてしまったからなのか、爆豪さんからすぐ「あのハゲに聞いた」と返ってくる。

「ハゲって、オーナーのことですか?」
「あ?知らね、多分そうなんじゃねぇの。」
「あの人別にハゲてはいないと思うけど……」

自分でそう返しておいてアレだけど、こんなこと言ったら「ンなこたどォでもいいんだわ」とか返ってきそうだ。そう思っていたら、次の瞬間案の定彼の口から思った通りの返答が返ってきて、思わず苦笑してしまった。
ある意味分かりやすい人である。そして意外に慣れると親しみやすい人でもあるから、一見私のタイプとは大きく異なるこの人に恋に落ちた理由というのはきっとそういうことなのかもしれない。

考えると同時に、収まっていたはずの心音が再び早まったのに気づく。

オーナーは確実に事件のことを伏せて伝えてくれたはずだった。しかもオーナーは管理者というだけあって口が堅い。なので爆豪さんがこのことを知っているということは、何らかの手段を用いて、オーナーに私のことを聞き出したということになる。店では表に出ることが無いオーナーに、彼が、わざわざ。

「大丈夫なんか。」
「……何がですか。」

ふと、爆豪さんが呟いた。先程の軽口とは打って変わって、以前にもその鱗片を見せたあの落ち着いた声色だった。どんなことをお客さんにされて、どんな傷を負ったのか。全てオーナーから聞いているだろうに。それでも多くを述べずにただそれだけを聞いてきた、その理由はきっと私のためだ。

爆豪さんが何を言わんとしているのかが、分からないほどに私はもう馬鹿ではない。そしてこの問いかけが、自惚れじゃなく本当に私のことを気遣って聞いてくれているということも、十分に分かっている。にも関わらず開口一番でとぼけてしまった訳は、残念ながら彼の為ではなく自分自身の為だった。

「すっとぼけてンじゃねぇよ。怪我はどうなんだって聞いてんだろ。」
「ハァ、跡が残るとは言われました。」
「クソ客はどうした。」
「もちろん警察に突き出しましたよ。」

呆れを含んだため息が聞こえる。どうせこの後に及んでくだらねぇ見栄張ってんなとか、そんな風に思われたに違いない。
男は私を2度程切りつけた後、プツリと線が切れたようにその場に倒れ込んでいた。虚ろな目で涙を流しながら繰り返し何かを呟いていたような気もするが、正直よく覚えていない。とりあえずやっとの思いで部屋から抜け出し、私がボーイに助けを求めたことで漸く事態が収拾したんだったか。最後は大人しく警察に連れていかれたようである。

「そいつと面識は。」
「いや全く。」
「……本当に心当たりねえんか。」
「うーん、そうですね。」

爆豪さんのことを100%忘れ倒している私が言うのもなんだが、今回の犯人に関しては全く心当たりが無い。だから正直なところ、これ以上追求されても何も答えられないというのが現状だ。

「さほど珍しくもないでしょう。」

“ああいう“人。

しばしの思考を挟んだのち、呟く。まるで今日は雨が降りそうだなぁなんて言うような軽いテンションで。
あんな目に遭った直後にこれ程思ってもいないことをスラスラと言えてしまう自分に、少しばかり驚いた。彼の前に立つとどうやら私は本当に駄目になるらしい。天邪鬼というか、ただの見栄っ張りというか、或いはどちらもと言うべきか。とにかくことある事に対応を間違え続けてしまうのだ。

「それだけか」
「それだけ、って?」
「………。」

爆豪さんがため息混じりに吐き捨てた。流石にあまりにも主語が足りて無さすぎやしませんか。思わず浮かんだ言葉をそのまま口にしそうになったが、すんでのところで押しとどめる。言葉が足りない以上は、私も彼の言葉を反芻させるしか選択肢は無かった。

恐る恐る聞き返せば、途端両者の間には重苦しい沈黙。爆豪さんは相変わらず黙ったままだけれど、その沈黙が何を意味するのかは想像に難くなくて。

「今日の爆豪さん、なんか変ですね。」
「……それをテメェが言うのかよ。」
「私は別に普通だと思うけど。」
「ハッ、そりゃ随分めでてー頭だな。」

私は至って平常だ。いや、正確には平常であることを装っているだけではあるが。

「ねぇ、私さっき何かおかしなこと言いました?」
「あ?」
「気に触ったなら謝りますけど、でもいまのご時世あんな人なんていっぱいいるというか」
「お前、マジで何も分かってねェだろ。」
「は?」

さっきから爆豪さんの意図が微塵も汲み取れないことに、正直苛立っている。いくら心配して電話を掛けてきてくれているとはいえ、聞かれたくなかった事故のことを聴き付けられたことにもムカついていたのかもしれない。

電話口からは不思議と喧騒ひとつ聞こえなかった。
今彼はあの小綺麗なオフィスに独りで、いるのだろうか。あの椅子に静かに腰掛けてふんぞり返りながら私に講釈を垂れているのだろうか。

「何?……さっきから何が言いたいの?」

そう考えるとより一層苛ついた。あからさまな態度でこの人に何かを言うのは、そういえば初めてだ。
彼はいつも、何かしら本当は伝えようか迷っているみたいなフリをしながら止める節がある。送ってもらった時もそうだ。二度と言わない、なんて言っておきながら、本当は私が知ることを望んでいる様な顔をするのである。
中途半端に告げられたせいで、気になって眠れなくなるみたいな経験をしたことが無いのかもしれない。それはそれで当事者にとっては迷惑極まりないことだけど。

いや、爆豪さんに限ってそんな所だけ鈍感なはずないな。この人は分かっててやっている。だからこそタチが悪いのだ。

幾度目かの沈黙。今までは彼と2人きりで沈黙が続いてもそこまで気にならなかったのに、今日は違った。目の前にまるで爆豪さんがいて、あのストロベリームーンの瞳が見下すようにこっちを見ているかのような錯覚に陥る。やがて、私の背後を一台のトラックが通り過ぎた頃。彼がぽつりと「お前、その仕事辞めろ」と呟いたのだが、私はそれをどこか他人めいた感覚で捉えていた。

「向いてねぇだろ」

再び響く声。
電話口から聞こえてくるそれは、確かに爆豪さんの声だった。でも何故か今の私には、それが爆豪さんの声ではないような、そんな気がしたのである。

ただでは死なぬ殺されぬ

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