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月が顔を隠してから久しい、時刻は何よりも夜が深い色を灯し始める午後18時。今日は俗に言う華の金曜日で、夜に癒しを求めにやってくるお客さんの足が止まらない日。定説としては給料日直後とか連休前の夜がここソープ街の掻き入れ時なんて言われているけれど、それはあながち間違ってはいない。

「源氏名さん、今行けますか?」


午後18時、ホワイトカラーのサラリーマンが仕事を終える時間帯。私のことを源氏名と呼んだ若い男性が突如として個室のドアをノックしながらやってくる。扉を半分開けて顔を覗かせるなり無機質な顔でげっそりと私の返答を待っているその人は、時計を一瞬ちらりと一瞥した。

時間に追われているのはいつだってボーイの常で。余裕の無さそうな顔へとすぐさま「何時間ですか?」と答えて頭の中に時計の図を思い浮かべる。

「ショートコースです。」

「分かりました、行けます。」

ボーイがこれだけ時間を気にしながら私に指名をつけようとしてくるということは、90分のフリー指名がひとり、空いてるのは私だけ。という状況なのだろう。

まあ華金だし、三連休だし、仕方がないよね。時計を頭に浮かべては直ぐに打ち消して徐に私は立ち上がった。ボーイが振り返り様に一言「すみません、20時からロングなのに。」と呟く。

「気にしないでください、私だって稼げる時に稼ぎたいし。」

その場でボーイの目があるにもかかわらず着替えを始める私。対する彼は全く気にしていないというような素振りで申し訳なさそうに頭を振った。確かに今日私にはこれから比較的珍しい類のロングコース3時間という予約が入っていた。丁度今ショート客を相手してから、立て続けにロング客の接客に入るというようなハードスケジュールである。普通なら他の女の子に指名を回すような状況だが、それでも私に声をかけるくらい今この店は賑わっているみたいだし。なら私が出ない道理はない。


「全然大丈夫ですよ。」


ボーイが静かに「ありがとうございます、5分でお願いします。」と告げるので、私もそれに従って着替えの手を急がせる。さあ、稼げる時に稼がなきゃ。私服から準備していたランジェリーとドレスに身を包み、フロントジップを全て上げて鏡へと向き直したその時、ふわりと花柄の裾が揺れた。傍から見ればそれなりのレストランにでも行けそうなドレスは、実際それなりのお値段がするものだった。……結局のところはどんなに可愛いドレスでも、部屋について数分のうちに脱いでしまうのが、憎らしくもあるのだが。

皮肉にも買ったばかりのオフショルダーミニドレスは本当に可愛くて。脱ぎやすさ重視で選んだという事実を抜きにすれば結婚式とか、パーティにでもお呼ばれするような、そんな様相をしている。

(まあ、こんな仕事してちゃ結婚式なんて夢のまた夢だけど。)

だとして年相応に夢を見ることすら今の私にははばかられる訳で。とはいえやっぱり女性なのだから、たまには現実逃避して理想を夢見ることくらいは許して欲しい。今日はピンクのリップで少し可愛らしい雰囲気にしていこう。今一度紅を引き直してから、私は部屋を後にした。







都内某所、今は稀有なソープランドが密集するソープ街の中心のそのまた一角にきらびやかな御殿とも言えるほどの建物がそびえ立っている。

店舗型風俗店とも言われる通称“風俗の王様”でもあるこのソープランドは私、源氏名が働くリ・ルージュという店だ。赤とシルバーを基調にした外内装と、恋人気分で嬢と行為に及べるという他のソープランドとは少し異なるコンセプトが売りの隠れ人気店で、所謂本番行為のあるところは他のソープと変わりないがその他マットサービスが無かったり、長時間コースの用意があったりする兎に角特徴的な店だった。

今日は出勤している嬢全員が埋まるほどの賑わいを見せているこの店。例に漏れず私もこの後のロング客を控えながらに、現在フリー指名のショート客の接客に勤しんでいる。

ソープ嬢として、働き始めてもう時期3年が経過する頃だろうか。最初は確実に持っていたはずの抵抗感も、最早今は面影すらない。随分と擦れてしまったものだと我ながら思うけど、それでも働かなきゃいけない理由がある以上は、今日もこうして初めて会うような殿方と身体を合わせるしか他にないのだ。




「ありがとう、とてもよかったよ。」

「私も凄く良かった……!」


にこやかな笑顔には人様にはとてもお見せ出来ないような思惑がある。もちろん全てを打算で偽っている訳ではなく、きちんと一人の嬢として扱ってくださる方にはこちらも誠心誠意応えようという気持ちもあるが、この笑顔はその後の指名へと繋げるための笑顔でもあること。はたしてどれだけの男が気づいているのだろう。

これ名刺です、と人懐こい笑みのまま可愛らしいメッセージカードの裏に感謝の気持ちとお客さんの名前を手書きで書いて手渡す。先程まで素っ裸だった妙齢の男性は、私が差し出したカードを見て嬉しそうに笑った。「ありがとう、源氏名ちゃんとはまた会いたいな。」とドアを開けて去り際に呟いたその人はビジネスバッグを片手に店の通路を歩いていく。私は背中が見えなくなるまでお辞儀をして、そして最後に部屋の扉を閉めた。


「ふう、無難な方で良かったぁ。」

全てが終わった19時30分過ぎ。事後の気だるさを若干引き摺りながらフロントへと電話をかける。次の予約まではあと30分しかないので、とにかく私には急ぐ必要があった。フロントのボーイが開口一番「お疲れ様でした」と急いでいる様子で口を開く。

「すみませんソッコーで片付けお願いします!」

「はいはい、今行きますね!」

電話を切ってから直ぐにもう一度お風呂に入る。あー、湯船も流しておかなきゃだ…。やっぱり時間に余裕のない立て続け予約は心身ともにちょっと厳しいなぁ。

湯船に残った泡を流しつつ身体も清めて、大慌てで違うドレスに着替えてると自分自身がソープ嬢として何をしてるのか、たまに分からなくなってしまう。



ソープ嬢として働く理由は、きっとこの街に集まる女の子の数だけ理由があるのだと思う。例えば学費の為、例えば家計のため、例えば夢を叶えるため。千差万別な理由が各々あるだろう。
しかし私の場合は単純明快、ただひとつ。
家の事業が失敗して借金を背負ったからだった。

だからと言って借金はきちんと銀行からであって黒い職業の人にお世話になってるわけでもないし、強いて言うならリ・ルージュもそういうダーティな分野との関わりがある訳でもない。純粋な借金の返済という目的のためだけに私はソープ嬢という仕事を選んだのだ。だから、その選択に後悔はしていない。

そして今日も今日とて私は。
ソープ嬢の源氏名という女の子になりきって、これからやってくる20時からのネット客を部屋の外で待つのである。





20時05分、お客様をお迎えする準備が整ったということでボーイから階段まで来てとの連絡を受ける。ロングコースという決して安くない金額のコースを(それなりに加工された)私のネット上の写真のみを見て予約して来るほどのお客様が、これからいらっしゃる……今まであまり経験したことの無い出来事を控えながら、心は普段と違って少しだけザワついていた。

(あからさまにガッカリされたら凹んじゃうな……)

写真なんて加工してなんぼという風潮がソープ界隈のみならず、風俗そのものにはある訳で。パネルマジックとも呼ばれる加工され尽くした嬢を目当てに指名して、実物があまりにもかけ離れているとあからさまにガッカリされることも少なくない。

今日のお客さんはそれなりの金額払ってくれてるし、なるべくなら幻滅して欲しくないなぁ。そして欲を言うなら私を気に入ってもらいたいなぁ、なんて。まあそんなことはお客さんのさじ加減一つで決まってしまう以上、気にしても無駄なんだけど。


階段の下から足音が一歩一歩近づいてくる。いつまで経ってもこの瞬間はやっぱり慣れない。深呼吸をひとつして、瞼を大きく開けた。


「こんばんは、お仕事終わりですか?」

ふわり、揺らすチュールレース。階段の麓からボーイに連れられ現れたその人は、きりりとつり上がった美しい直線の描いた眦で、私を真っ直ぐに見つめている。静かな獣を内に秘めているかのような強い意志の宿るストロベリームーンの瞳、その目を見つめ返した瞬間から、まるで射抜かれたように私は視線を逸らせなくなった。

件のロングコースをご所望のお客様が、まさかあれほどまでに抱いていた想定をいい意味でも悪い意味でも大きく超えて斜め上を行く人だったということに、この時の私はまだ気付かない。

その事実に今すぐ気付かなかったのは幸か不幸か、いや、不幸の方が大きいかも。


「今夜は宜しくお願いしますね。」


業務用二割増のスマイルを向けて微笑む。彼は問いかけには返答せず、ただ私の顔をじとりとなんとも言えない眼差しで見つめてから、ぶっきらぼうに「あァ」とだけ発した。整った顔立ちに違わぬ鋭い目線と、その割に発せられた「あァ」という言葉じりが、やけに柔らかかったのが印象的だった。


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