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あれから、どれほど経ったのか。眠っている間に何か夢を見たような、けれどどうしても思い出せない。ふと何かに呼ばれたような気がして薄らと瞼を開ける。すると何故か見知った月色が、目の前にあった。

「んん……?」
「あ?」

寝起きの頭は昨晩同様呆けていて、そしてどこか蕩けてもいる。今何時だろう、とか何で爆豪さんに見つめられてんの、私?とか。思うことはきっといっぱいあるべきはずの状況なのに、私はと言えば特に何を思うでもなく、ただ間抜けな声を上げるだけで。それは丁度これ、なに?とでも問い掛けているかのような声色だった。

爆豪さんは私が起きたことに気付くと「……タイミング考えろや。」なんて言いながらそのまま舌打ちをひとつ零して私の上から退く。その声は、少しばかり掠れている。

「……?なにが、」
「ウルセェ、良いからまだ寝てろ。」

柔らかい声が響いて、その瞬間乱暴に頭まで被せられる掛け布団。爆豪さんが寝ろ、と言いながらも何やらぶつくさ文句を一言二言零している。
何が何だかよく分からない。よく分かっていない私を尻目に、彼は掛け布団ごと私を抱きこんで再び眠りにつこうとしている。
目を開けた時、なんとも言えない眼差しで私の肩口にある傷に触れていたことをまるで悟らせないような素振りには、一体何の意味があるというのか。





朝が来た。今日の朝は、なにかと暖かくて、それでいて浮ついていて、この前の朝とは大違いな目覚めだった。爆豪さんと夜を明かすのは、そういえばこれが初めてだ。正直昨日のあれも酷く心臓に悪いけど、今日の掠れ声も中々心臓に悪いなぁ、なんて。そう思ってしまったことを胸の中に留めながらも時計を見る。短針が差していたのは5時の5分前。彼が言うように、起きるには確かにまだ早いと思えるような時間である。深夜の1時過ぎまで致していた人間なら尚更だ。

「ばくごーさん。」

本来ならまだ眠っていた方がいいことくらい、分かっている。けれど実際に私が起こした行動は、彼に呼びかけることだった。
まだ、寝てないですよね?背後に少しばかり意識を向けて問い掛けると、刹那「ンだよ」と爆豪さんの声。耳元で聞こえたそれはやっぱり少し掠れていて、自分から聞いておきながら心臓が跳ねてしまう。彼はさほど反応も見せずに体勢を変えるが、やがて私の耳に掛かった髪をそっと払った。まるで慈しむような手付きで、やんわりと。

え、何今の。

「うあ」
「……バカみてぇな声上げてんじゃねぇ。」
「いや、だって」
「昨日に比べりゃこんなん屁でもねェだろうが。」
「それとこれは全くの別問題ーー、っひゃ」

私たちは別に恋人同士ではないし、なんなら友達以上恋人未満という淡い関係ですらない。けど、昨晩の一件の所為で唯一私達を形容していた“嬢と客”という関係が脆くも崩れてからは、正直その境界が曖昧になってしまった。私たちは、一体何なのだろう。聞こうとして昨日は口に出せなかった質問は、朝になったところで聞けそうに無く。

言い返そうと振り向いた瞬間、背中に唇を落とされる。事後、そのまま寝落ちた私は現在何も服を着ていないという状況で、無防備なそこに唇を落とされるというのはなんというか、心臓にとても悪い。おかしな声が上がり、言葉が途切れて詰まった。それでも爆豪さんは口付けを止めず、首の真後ろから肩の方へと降りていく。

「ちょ、爆豪さん……?」
「…………。」

彼は何も言わなかった。彼が何も言わないから、私もただ黙って口付けを受け入れるしかなく。不意に部屋の中が静まり返って、早朝であることを思い出させた。空気はすっかり冷え切って冬の到来を予感させているが、その実ベッドの中は不自然なまでに甘くて柔らかい。

いつまで大人しくキスされていればいいのか。何も言えないまま時間だけが過ぎる。一体彼は今どんな顔をしているのだろう。考えても、爆豪さんが昨晩時折見せたあの表情の理由は一向に分からなくて。

そろそろ離して、と言おうとした……矢先のことだった。漸く口を開いてくれた彼の一言が、私の言葉をかき消したのは。

「あの、」
「この傷、」
「え?」
「この傷、何だ。」

爆豪さんが示した先にあったのは、肩口に広がる大きな傷跡。それが、私の肩から背中の中心に掛けて凡そ十数センチほど拡がっている。

「ヒーローでもねぇのにンな傷つかねェだろ。」

落ち着き払った声色でそう彼が続けた。つう、と指が僅かに窪んだそこをなぞり、ここでやっと私は爆豪さんが私の傷に対して興味を持っていたことに気づく。ああ、何だ。そういうことか。道理で。納得しつつ振り向くと、爆豪さんが怪訝な表情を浮かべている。鋭く尖った眼差しは、私の口から理由を聞くまで元に戻りそうにない。

「昔、ちょっと事故にあって、その時のです。」
「ちょっと、って跡じゃねぇだろ。」
「結果大事に至ってないので。」

とりあえず黙っていても始まらないので平然と返す。常連になってくれた方々から過去一度はされる質問だったから、今更返す言葉に困ることはない。

彼が言った傷とは、言うのも憚られるくらいの間抜けな怪我のことだ。数年前に起きた大規模な震災の折、倒壊しかけたショッピングモールから脱出しようとした際のちょっとした事故で負ったものである。
ふと脳裏に怪我で入院していた頃の記憶が浮かぶ。ちょっと、と返しておいてあれだけど、そういえば中々の大怪我だったとかなんとか。危うく障害が残るかもしれないと言われていたような気もする。まあ結局傷が残るだけでそれ以外は何も無かったことを考えれば、私はまだ幸運な方なのだろうけれど。

いつもなら傷跡の理由を聞かれても事故にあった、と返せばそれ以上聞き返されることも無いのだが、しかし今日の爆豪さんはそんな返答じゃ満足してくれないらしい。

「跡以外は何もねェんか。」
「…………ええ、まあ。」
「クソ客共になんか言われたことは」
「そこまで酷いことは言われてないです。」
「本当だろうな。」
「何でこんなことで嘘つかなきゃいけないの。」

精々私の傷を見て萎えられることが稀にある、くらいだった。凄い傷だねぇとは何度も言われたけれど。まあ、その事に関してはもう慣れっこだから今更傷つくこともない。
にしても、まるでありえないことなのに、さも心配されているかのような彼の口ぶりには流石の私も困惑せざるを得ない。確かに昨日からおかしな雰囲気になり始めていると思うのだが、それにしてもこの、形容しがたい空気感は一体何なのだろう。爆豪さんは私の返答を聞いて再び舌打ちをしている。何がそんなに不満なのか。

「もしかして、心配してくれてるんですか?」

大した意味を持たないであろう疑問を、わざわざ投げかけようと思ったのは、気紛れだった。単純な興味、或いは何となく。以前の私と爆豪さんだったなら例え天地がひっくり返っても出てこない言葉だろうなぁと考えながら、口にした。
返ってくる答えに期待したつもりは無い。爆豪さんのことだから、私に何かしらの感情を抱いて居たところで牙を剥き出しにしながら「自惚れんな!」とか叫ぶんだろうなとも思っていたからだ。そして、だいたいその予想が外れないことも、自分の中で分かっていた。更に言うなら実際に自惚れんなと、期待の全てを打ち砕くような返答が来たところで「分かりました。」と受け流せるくらいには全く動じない自信もあった。今更そんな言葉の一つで一喜一憂するような歳でもなかったからだ。

「ワリィかよ。」

だとしても、である。
いつもは肝心なところで突き放してくる癖に。
願望の尽くを容赦なく打ち砕いてくる癖に。
今日に限って、どうして。

先程の私同様さも当然と言わんばかりにサラリと告げられたのはそんな言葉だった。あまりにも斜め上過ぎる素直な返答に、途端に顔が熱を持つ。それをもう、上手く隠せそうにない。ねえ、今、何を思って、どんな表情でその言葉を紡いだんですか。気になって今一度振り返ろうとした私を咎めるのもまた、彼の腕で。

「ちょ、苦しいです。」
「我慢しろ。」
「せめて体勢変えさせて……」
「駄目だ。」

がっちりと背後からホールドしてくる腕が、まるで恋人に甘えるようにぎゅう、と目の前で組まれる。
お互い未だ素っ裸という状況だと、体温がダイレクトに伝わってきて何だか少し気恥しい。余韻はすっかり冷え切っていて今は冷静そのもの……のはずなのだが、こういうことをされていると段々頭がぼんやりしてきてしまうから困りものだ。

「ねぇ、爆豪さん。」
「…………。」
「爆豪さん。」
「しつっけェな、ンだよ!」
「今日は勝己さんって呼ばなくて良いんですか?」
「……好きにしろや。」
「分かりました。」

僅かに震えた彼の肩が、動揺を物語っている。もしかしたら振り向こうとした瞬間に力を込めてきたのも、我慢しろと言ったのも、今の表情を見られたくないからなのかもしれない。
私も、ある意味爆豪さんに顔を見られなくてよかったと思う。彼は聡い人だから、こちらの顔を見られたらすぐバレてしまうだろう。私が彼に普通じゃない気持ちを抱いてしまっていることに。

私達がこうなったのは、はたしていつからだったか。正確には“私”がこうなってしまったのは原因はそういえば何だったんだろう。よく分からないまま関わり続けた私達だけど、それでも一つはっきりしているのはやっぱり昨日名前をこれでもかと出されたことが決め手であるということだけだ。

聞いてしまえば何かが壊れてしまうような気がして、聞くに聞けなかった肝心なことを頭に思い浮かべる。多分私は、私が思う以上に納得出来うるだけの理由を求めているのかもしれない。

彼の名前を何度か呼んで漸く整理がついた私は、助走をつけるようにため息をひとつ吐き出す。

「爆豪さん」
「今度は何だ。」
「私たちって……」
「あぁ?」
「私達、以前何処かで会ってますか?」


いざ聞いてしまえば、思ったより大したことはなく、ただ、何となく他人事のように感じるだけだった。

気が緩んだのか、抱き締めるだけになっていた彼の腕を解いてゆっくりと身体を起こす。ベッドの上に転がっていたブランケットを纏いながら爆豪さんが少しずつ振り向いてくる間を無心で眺めていれば刹那、彼が小さく何かを呟いた。返答には期待しないようにしようと、自身に言い聞かせた直後のこと。
けれど私は爆豪さんの答えを聞いて、「え?」と思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまう。返答というよりは独り言に近いような雰囲気で吐き出されたそれを、今このタイミングで、よりにもよって聞き逃してしまったのだ。

慌てて今なんて?と聞き返すが、爆豪さんはしかめっ面で「何でもねぇよ」と眉間の皺を深めるばかりで。

「何でもなくはないでしょ。」
「忘れるっつーことは大した知り合いでもねえんだろ。」
「誤魔化さないでってば。」
「仮に知っててもテメーにゃ二度と言わねェ。」

ああ、やってしまった……。これじゃ堂々巡りだ。こうなるともう、この人から本当のことは聞き出せないだろう。こうもはっきり断言されては、梃子でも動かないことは目に見えている。

分かったことといえば、私が爆豪さんについて“忘れている”ということくらいか。生憎記憶喪失になったことは無いので、彼の言うとおり大した仲じゃないのかもしれない。でもそれなら何で、貴方は私の名前を知っているの。

「つーかよ、」

その時爆豪さんが片眉を釣り上げて、じっと私のことを見つめてきた。まだ聞きたいことが沢山あったのに、いざ急に遮られると途端に言葉に詰まってしまうのは致し方ないことだろう。「なに?」と短く聞き返せば、彼はふと視線を下げて私の胸元をちらりと一瞥する。え、なに?なんなの。無言で赤い目を見つめ返すと刹那、彼の腕が私の纏っていたブランケットを瞬く間に掠め取っていくではないか。

「ちょっ……!」
「テメェ、自分の“ソレ”分かっててやってんのか?」

次いでぐるんと反転する視界。爆豪さんにまたも組み敷かれたということを、瞬時に理解する頭が、今は少し恨めしい。

眼前に迫る二つの瞳はやけにギラついていて、そこに映るのは焦り散らしている私の姿。お互いの姿を瞳越しに見れる程の距離感なんて何度も経験してきたはずなのに、何故かいつまで経っても慣れる気配はない。
爆豪さんの視線は尚も胸元に向いていた。彼の目線を追うように、私も自身の胸元を確認する。

「あっ、え、なにこれ」

そこで、はたと気付いたのは、自分としてはちゃんとブランケットを羽織っていたつもりだったのだが、実際のところそれだけじゃ配慮が足りていなかったということで。

「今頃気付いたンかよ。」
「いや、だって昨日は必死だったから……」

昨晩の行為の跡が生々しくも多量に残されているそこを、私はどうやらがっつりと晒してしまっていたらしい。未だ獣の色を取り切れない、爆豪さんの、目の前で。

いやもう、恥ずかしいどころの話じゃない。裸を晒すのは別に手馴れたものだし今更恥ずかしがることもないと思っているけど、だからといって至る所に跡を散りばめられた状態にされているとは想定外だ。一体いつの間に。

今の返答も、今思えば失言だったなと少し後悔しつつ、彼の様子を伺う。すると案の定爆豪さんは口角を釣り上げながら「へェ?」と呟いた。あ、まずい。そう思った時には何もかもが既に手遅れだ。

「まあ、確かに昨日は随分必死こいて善がってたしなァ?」
「それは、その……違います。」
「あ?違わねェだろ。」

一度は冷えたはずの身体が熱を持つ。彼の手にかかれば私を追い詰めることは赤子の手をひねるよりも容易いことなのだろう。首筋に、熱い舌が這って降っていく。散りばめられた跡をなぞるようにじっくりと。私は、ただそれだけの行為なのに、どうしようもなく駄目にされてしまう。

「爆豪、っさ……ん」
「ンだよ、止めねェぞ。」
「……別にやめなくても、いいです……ただ」

太ももに触れる角張った手のひらが、私の言葉を聞いてぴたりと止まった。爆豪さんは舌を覗かせたまま目だけでこちらを見据えている。
やめなくていいというのは本当のことだ。だって、それが私の仕事だったから。約束の時間まではまだ4時間くらいあって、それまでゆっくり過ごそうと、また事に及ぼうと、全ては彼次第。だから、したいようにして貰って構わない。ただ、一つだけ欲を言わせてもらえるならば、今この瞬間だけはフィルター越しじゃなくて、私自身を見て欲しいと、柄にもなくそう願う。

口に出せない臆病な私の願いの代わりに、彼の名前を呼んだ。なし崩し的にもう1ラウンドなんて馬鹿げていると、我ながら思う。でもまあ、爆豪さんも結局乗り気になっているのだからこれはこれでアリなのかもしれない。少なくとも、今の私達にとっては。

彼が短く息を飲む。私は、されるまま手を伸ばす。伸ばした手が拒絶されることはなかった。お互いの視線が絡んで、これが合図かもなんて、思ったりして。

「一応、最後お店まで戻らなきゃいけないのでお手柔らかにお願いします……。」
「…………、」

流石の唯我独尊ヒーローも、お店の掟にはどうやら逆らえない模様。やがて静かな部屋に舌打ちだけが響いた。

イザヴェルにて待つ

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