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「こんばんは。」

「………、」

「………こんばんは!」

階段を降りて、出会い頭数秒。踊り場の先にちらりと覗いた明るい月色に向かって普段より少しだけ大きな声で投げかける。爆豪さんは、数日前から変ほとんど変わらない出で立ちで、聞くなりちらりとこちらを一瞥した。
彼と連れ立っていたボーイがそそくさと立ち去っていく。その後ろ姿を私は他人めいた目線で呆けながら眺める。時刻は丁度20時過ぎ、ソープランドがその日一番の賑わいを見せ始めるような時間帯。今にも他のお客様と鉢合わせてしまいそうな、そんな状況の中での一幕である。彼の人は一瞥こそくれたものの、返事が返ってきそうな気配は見受けられなかった。

「こんばんは、爆豪さん。」

三度目の正直だ、と言わんばかりにもう一度だけ私は口を開く。何の因果か、先日なんとか首の皮一枚で繋げた私と爆豪さんの関係は今日も今日とて繋がっているようで。体感で数十秒。実際はそんなに経っていないのだろうけど。その時彼が首の後ろに手をやりながら「……んな言わんでも聞こえとるわ」小さく呟く。勝った、と直感的に感じた。

「お返事がなかったので。」

「………ウゼェ、」

「返答が無言じゃ誰だって分からないでしょ。」

そう言えば、すぐさま返ってくるお決まりのような舌打ち。それと共に二度目の勝利を確信したのは、ほぼ同時のことである。

あの出来事以来、初めて彼が再び来店してくれたことに対して私はよく分からない気持ちを抱いている。それ自体は確かなのだが、この感情が安堵なのか落胆なのか、如何せん自分でも分かっていないから、あの日の出来事にまだ折りを付けられていないというのが現状だ。

先程の爆豪さんとの会話を振り返れば、今はまだそれでもいいのかもしれないけれど。けど、どうしたって彼との関係は続いていくのだから遅かれ早かれ折り合いを付けなければならないのだろう。私はそれを、痛いほどに知っていた。

「今日はオフなんですか?」

「オフでもなきゃ来ねェだろ。」

「……そう。」

デジャヴ。以前も交わしたことがあるような会話だ。前も、こんな風に何か取ってつけたようなことを、彼に聞いた。そして彼もまた吐き捨てるように返事してきたんだったっけ。もう随分と昔のことみたいに思える。……まだひと月も経っていないというのに。
それだけ、色々あったということだろうか。自身のことながら不思議と全く実感が湧いていない。

「大変ですね。」

「あ?こんくらい普通だわ」


一言くらいちゃんと返してくれてもいいのに、とは思うけれど。かといって自身の立場は弁えているつもりだったからそれ以上は口に出さなかった。


それからもほんの少しだけゆっくり歩きながら彼の方を向いて下らない問いかけを続ける。問いかけに際し、爆豪さんは珍しく「おー」と柔らかな相槌を打っていた。

最初出会った頃のことを考えると、以前に比べても言葉の節々に垣間見えた棘が抜けているような気がする、それは果たして私の気のせいだろうか。いや、少しは前進出来ているということの証左なのかもしれない。

しかしそのままゆっくり歩いていたのもつかの間、いよいよ本格的に彼の眉間の皺が深くなっていることに気付いて、私は慌てて部屋へと歩を進める。何かが気に障ったのか、それとも溜まっていてイライラしてるのか、それは私の知り及ぶことじゃないので放っておくことにしよう。
様子を伺いつつ彼の手を掴むと、刹那じろりとあの赤瞳に睨まれたが、意外にもすんなりとエスコートさせてくれた爆豪さん。今日は言葉こそ刺々しいけど、意外と素直だ。歩きながら、大人しく腕を引かれている彼の姿を脳内で思い浮かべる。何だろう、ちょっと面白い。その瞬間無意識に笑い声をこぼしてしまった自分には驚いたが、幸いにも爆豪さんがそれに気付くことはなかった。







「ちょ、っと……待っ、」

「ルセェ、」

部屋に入る。扉を閉めた瞬間、今まで引いていた方の手を取られて壁に押し付けられた。その間、僅か数秒の出来事だった。最早苦笑いしか出てこないけれど、流石に逸り過ぎでは無いだろうか。思ったところで、彼の本心なんか私にはまだまだわかり至るはずもないのだが。

とりあえず抵抗する素振りくらいは見せておいた方がいいかもしれない、押し返そうと何とか自由になっているもう片方の手で彼の胸板を押し返す。けど、やはり答えは最初から明確にさだめられているみたいで。

「ん、っん……、ばく、」

「は…、っ、テメ、ざけんな……」


唇が離れては近付いて。そしてもう一度噛み付くように重なる。合間に彼がした舌打ちも聞こえないほどに、ギラついた眼がただ薄暗い照明の中で光っている。

「は……ぁ、っ待っ、て…」

「待たねぇよ、……クソ、」

苦しげに歪む目尻。眉間に寄った皺も、今は彼の余裕の無さを私に嫌でも思い知らす材料にしかならない。強めに顎をさらわれて、悲しくないはずなのに何故かどうしようもなく胸が軋む。呼吸が苦しいからだとか押さえつけられて重いからだとか、自分なりの言い訳を考えるけれど、所詮そんなものは的はずれな見当なのだと、心のどこかそんなことを思っている自分もいた。


爆豪さんが何故こんな風に怒り、荒だっているのか、理由が全く浮かばない訳ではない。ただ、同時に確信がある訳でもない、というのが正直なところで。
フロントジッパーに手が触れる。そういえば今日のドレスは初めて出会った日と同じだ、なんて考えていたらジッ、と鈍い音を立てながら一思いに下ろされた。相変わらず手が早い。

入口の薄い扉一枚挟んで、向こう側には嬢がお客様を見送る音と声。たまに声の大きい嬢の喘ぎ声が外まで漏れている時があったりするのだが、今の私は大丈夫だろうか。キスだけだから大丈夫だとは思うけれど、心配だ。

ぼんやりと外の心配をしていたその時。また爆豪さんの鋭い視線が降りてきて、「何処見てんだ」と叱責される。そのまま喉元に噛みつかれ、被食者さながらの怯えたような声が出た。

「呑気にお喋りしてる場合じゃねェだろ。」

「な、っに……」

「一丁前に焦らすとか随分余裕だなァ?」


漸く離れた唇へと視線を向けてみる。その薄い肌色が酷く悪人めいた雰囲気で弧を描いているのが視界に入ろうものならば、自然と体が疼いてしまうのもまあ無理はないだろう。無論、焦らしたという自覚は無い。けれども彼がそういうのだから、きっとそういうものなんだろう。先程の言葉尻からして何となくイラついているのは分かっていたが、まさか溜まっていることでイラついていたとは。流石に想定外だった。

人は、こんなにも見掛けによらない。爆豪さんのヴィランさながらの顔つきからは想像も出来ないほど繊細な手つきとか、交わす言葉の棘具合の割に、“ヤらせろ”などと言うような割り切った言葉を使わないところだとか。そういうところばかりが、回数を重ねるごとに積み重なって、一層私の中の爆豪勝己というイメージをよく分からなくしてしまうのだ。

本当、どうしてくれるの。



そういうつもりじゃない、口にしたところで、これ程無意味な弁解もそうそうないだろう。告げた途端、案の定彼は目を細めながら「つーか、別にンなことはどーでも良いんだわ」と呟いた。聞き返そうと口を開いても、再び降ってきた唇に塞がれては声を上げることさえ出来ない。

遂に正真正銘腰が砕けて、ずるずると爆豪さんにもたれ掛かるように身体を預ける。すぐ近くで彼が鼻で笑ったような声がした。それは低い、男性の声だった。

彼が捕食する側の立場だとするなら、私は一体なんだろう。担がれながら考える。うーん、やっぱり獲物という言葉がしっくり来そう。今からこの調子じゃ、今日もまた先が思いやられるなぁ、なんて。

「良いから大人しく抱かれてろ。」

やがて私をベッドに沈め、首筋に顔を近付けた爆豪さんの声だけが部屋に溶けていく頃、私もまた彼の眼を見つめ返す。長いまつ毛が、狭間で揺れていた。大丈夫、まだ、まだ平気。近付いてくる顔をぼんやりと眺めながら、自分自身に言い聞かせる。そうでもしないと今にも絆されてしまいそうで、それが何だかどうしようもなく怖い。あの日から、感情を何一つ留めておけない自分が嫌になる。

恋を知らない私じゃなかった。だから、何となく自分でもこの感情がお客様に抱いていいものじゃ無いことも理解していた。ただ、それは恋とは少し毛色が違っていて、例えば尊敬とか、期待とか、それら全てが詰まっているような。少なくともこの気持ちが恋に分類される感情でないことにも、私は気づいている。……まあだからなんだって話ではあるけれど。

どうせ考えたってキリなんかないのに、情事中にまでわざわざそのことを持ち出してしまい、見抜かれた挙句激しく爆豪さんに責め立てられる羽目になったのは、所謂自業自得ということになるのだろう。


やっぱり彼といるとろくなことがないや、なんて。今更かな、……今更なんだろうな。当たり前だ、だって爆豪さんは初めて会った時からああだったから。

私を抱く時も、キスをする時も、名前を呼ぶ時も。全部出会ったあの日から変わらない。彼が意外にもソープ嬢相手に恋人ごっこに興じているということまでは何となく分かってはいるのだが、それでも彼がここに来るに至った本当の理由までは先日の買取の時にも、そして今日も結局分からず終いのままだった。いつか、彼が時折見せる切なげな眼差しの理由を、ベッドの中で私というフィルターを通して見つめている誰かのことを、彼が教えてくれる日が来るのだろうか。

まあ何にせよ、もしもそんな日が来るとするなら、その時はどうか静かに私の前から居なくなってくれと願うばかりだ。

トラジコメディへ回帰せよ



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