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買取とは言っても、私が普段たまに受けている常連さんとの買取とは全く異なる時間が過ぎていく。甘ったるく「欲しいものがあれば何でも買ってあげる」と呟く一回りも歳が違いそうな叔父様方とは全くの逆方向を突き進む爆豪さんには、もう今更驚いたりなんてしなかった。

運ばれてくる高そうなシャンパンには目もくれず、着席して直ぐに、物言いたげな目で見つめてきた彼の人から目を逸らす。どうしてそんな目で見るの、とは聞かない。聞きたくても、聞けるわけない。私がここで聞けていたら、きっと今頃こんな事態にはなっていないだろうから。

席周りをちらりとバレない程度に見回して、改めて自分の置かれた状況を思い知る。隠れ家的な装いの内装。決して広くはないけど圧迫感も感じさせない座席。どうやらここは中華系のメニューを多数用意しているらしい。どうしてこのお店をチョイスしたのかは定かではないが、少なくともやはり私は彼に悪く思われている訳では無いようだ。


(高い……)

どれもお値段の張るものばかり。プライバシーの保護だってバッチリ対策されていて、見事なまでに私達は個室に通されている。今日というどうしようも無いイベントの為にわざわざ爆豪さんが予約を取ってくれたのかと思うと、そのアンバランスさには最早苦笑いしか生まれなかった。


「オイ」

「………。」

「オイ、呼んでんだろうが。」

「私の名前は“オイ“じゃない。」

少しだけ平静を取り戻した矢先のこと。
メニューに手を伸ばし選んでいる最中にぶっきらぼうな声で呼ばれたことに対して、ほんの少し憤りを感じてしまった私は、もう子供じゃない歳にも関わらずまるで子供のように屁理屈を捏ねる。
別に名前で呼んで欲しい訳では無いのだが、しかしここまで来てオイ、等と乱雑に扱われることに対して抵抗があったのも、また確かで。メニューから視線を戻さずキッパリと告げる。途端に爆豪さんは眉間に皺を寄せたまま、そして押し黙った。


「名前、覚えてくれてますか?」

「たりめーだ、ナメんな。」

「…………どうだか。」


存外、覚えられてすら居ないかもなんて。我ながら天邪鬼極まりない思考だと思う。実際問題一度も彼に名前を呼ばれたことが無いから、そう思うのも無理はないような状況ではあるのだが。

嘲笑うようにため息を吐き出し、そっとメニューを閉じる。とりあえずのところはエビチリにしよう。高級店のエビチリなら食べておかなきゃ損だろう、と考えての判断だ。こんな時ですら私は咄嗟に頭の中で損得勘定のそろばんを叩いてしまうのだから、我ながらどうしようもない。

ほんと、こんなところまで来て、私と一体何を話すことがあるというのか。無駄な思考ばかり浮かぶのは、私の悪い癖だ。考えたって意味もないことを今更、どうすればいいと言うのだろう。
ただ手持ち無沙汰になってしまった時間は、止まるわけでもなくひたすらに流れていく。とりあえず、何かやるべき事が欲しい。考えてから、何の気なしにシャンパンへと手を掛けて口をつけた。爆豪さんから注がれる刺さるような視線には、あえて見て見ぬふりをした。


それから少しばかりの沈黙を挟んで。店員さんが私のアイコンタクトに気付くとほぼ同時に彼が僅かに言い淀んだような間を漂わせた後、ポツリ「源氏名だろ」と呟く。

「え?」

「お前の名前。」

もう一度聞き返すと今度こそハッキリ、源氏名と名を呼ばれる。聞き間違いだと思っていたから、まさかこのタイミングで初めて彼の口から源氏名という人物の名前を聞くことになるとは。思わず瞬きがぱちりと零れた。


呼ばれたことに対して、特に何か思うことは無くて。それもそのはず、だって私は源氏名であっても源氏名ではないのだから。

でも、何故だろう。何なんだろう、この気持ち。どくりと心臓が嫌な音を立てる。

やがて、何も思うことは無いと他でもない自分自身が思い込もうとしていたことに気付く。そして、気付いた時には何もかもが遅かった。これは、なんというか。どうして私は何も思うことなんてない、とありもしないことを考えるに至ったのか。我ながらばかだなぁなんて、……本当、そんな風に思うよ。



「そんくらい知っとるわ。」

「………そう、」

「ハッ、あからさまに嬉しそうな顔してんじゃねぇよ。」

むず痒い、痛い、苦しい、残念ながらそのどれにも当てはまらない感情が渦巻く。ああもう、自分らしくない。あからさまに嬉しそうな顔なんて、きっと絶対していないのに。なんなら断言だって出来るくらいなのに、ふと覗いた彼の赤瞳が見たことないような柔らかさを纏っていたものだから。

「して、ないです。」


言葉に詰まってしまうのもまあ、不可抗力だと思いたい。

幸か不幸か、その後直ぐに店員さんがオーダーを聞きに来てくれて、この気まず過ぎる空気がやんわりと中和された。

さらに言うなら、出されたエビチリはそれはもう美味しかったし、爆豪さんが頼んだ麻婆豆腐は味を損なわない程度に備え付けの香辛料を投下されていて、そのあまりの赤さに少しだけ麻婆豆腐が可哀想になった。どうやら辛いものが好きなようで、ああ、だから中華だったのね、と納得する。とはいっても、辛いもの好きにも流石に限度はあると思うけど。まあ、大したことじゃないから言うだけ無駄というものである。

これが恋人同士の逢瀬だったなら、どれほど良かったか。きっと何も気にせず食事を楽しめていたんだろうなぁ。ああ、やっぱり嫌な現実に直面するとどうもあれこれと無駄なことばかり考えてしまう。直さなきゃ。








ーーーーーーーーーーー

帰りは徒歩だった。正確には、店の最寄り駅まで行きと同じタクシーに乗せられて、そこから急に下ろされたかと思えば何故かそのまま歩かされた。リ・ルージュは買取後、店まで戻ってこないといけないというルールがあって、爆豪さんもそれに準じた、というような形だ。無論、何を思って徒歩という行動に移したのかは最早全くわからなかったが。
聞くだけ野暮な事だととうの昔に理解している。元から訳分からない人だったし、寧ろ驚かずに済んで良かったかもしれない。

唐突に、なんの前触れもなく、その言葉は告げられたように思う。仕方なく二人並んで、店までの短い距離を歩く。辺りは一面夜一色に染まっていて、仕事終わりのリーマンが疲れた顔を引き摺りながら歩いている。そんな折、通りを無表情に眺めていた彼がふと「で、そろそろ言う気になったかよ」と呟いた。突然のことに意識が追い付かず「え?」と返せば、途端に返ってくるのは「言う気になったか、つっとんだ。」と忙しない返事で。

「言う気って……」

「昨日の、忘れたとは言わせねェ。」

「忘れてはいないけど、」

そこまで言ってから爆豪さんはおもむろに立ち止まる。店まではもう残り数十メートルという場所まで来ているものの、それ以上彼は動く気が無いらしい。

存外、この人も今日は本当によく喋る。まるで今まで全く喋らなかった分を一日で取り戻そうとでもするかのように。私にとっていいことなのか悪いことなのか、それは多分この後に続く爆豪さんの言葉次第だった。

「そうまでして知りたいと思います?」

私もどうやら今日一日だけで結構なお喋りになってしまったみたいだ。肝心なことだけは聞く勇気が出ないくせに、そういうことばかりは減らず口なようで。


「テメェも大概知りたがりじゃねぇか。」

「私と貴方じゃそもそもの立場が違うでしょ。」

「違わねェだろ、何も。」

「相変わらずアホだな」と吐き捨てるように零す爆豪さんの横顔は、ネオンライトに照らされて、その様はいつまで経っても変わらない。プレイルーム以外で彼の顔を見るのは初めてだけど、それでも全く変わることなく何時でもその容姿を保っていられるのだから、やっぱりイケメンって凄い。透き通るストロベリームーンの瞳が追いかけてきたその時。咄嗟に目を逸らそうとして止めた私を見て、爆豪さんが更に畳み掛けてくる。

「つか昨日も言ったよなァ?」

逃げたい奴はそんな顔しない。彼は確かにそう言った。昨日も、今この瞬間も。この人は本当に痛いところを突いてくるなぁ。とりあえず、何も言い返せそうになかった。何も言えず目を逸らして恨めしに睨みつけるこの工程も、最早慣れっこだ。しかしそうしている内にも「図星かよ」なんて蔑むような眼差しで見下ろされてはどう足掻いても上手く転がることなんか出来るはずもない。


「俺が何言ったところでどうせテメェは納得なんざしねぇんだから大人しく捕まっとけ。」

「はぁ、」

どうしてそこまで?と聞いたところで、そんなことですらどうでもいいことなのだと、きっと彼はその薄い唇で宣うのだろう。


「でも、」

「アァ?」

「知らないって、怖くないですか?」

しかし私は彼ほど強くなくて。だから、得体の知れないものに恐怖を抱くのも、ごくありふれた帰結だと思う。たとえ問いかけに対する答えまで想定出来ていても、実際問題口に出して言われていないことは、所詮予想しか出来ないから本当のところは分からない。だから怖かったのだ、私は。それはごく当たり前のことでは無いだろうか。

口に出してみると何だか、少しだけ楽になった。今まで張っていた虚勢が遂に壊れたから、とあえて自分に言い訳をしてみる。断じて、負けたとかそういうことではないのである。そう断じて。

ふと気付けば私は逃げることを止めていた。なんなら向き合ってみたいとすら、思っていた。こんな風に思う時が来るなんて、今日の始まりからしたら考えられない進歩だ。もしかすると最初からこれが爆豪さんの思惑だったのかもしれない。


「……だから今日来たんだろうが。」

そういえば、爆豪勝己という客はそういう、粗暴の皮を被っている割に如何にも常識的な人間だった。短い間しか過ごしていないし、身体しか重ねていないけど、それでも断言出来るほどの何かが私の中には確かに存在していた。

あぁ、“だから”か。
だから今日に限ってあんなに饒舌だったんだ。

私が知らないのを恐ろしいと思うように、そして知らないなら、いっそそのままで終わらせたいと思った私とは逆に彼は、彼なりに知ろうとしてくれてたのか。

「ほんと、どうしてそこまで。」

「執拗ェなテメェも。これ以上何言や納得すんだよ。」

「いや、寧ろほぼ何も言われてない……。」


肝心のどうしてそこまで、という一番知りたかった問いには彼は答えてくれない。まあ、けどこれ以上なんて言葉を使う辺り彼からしてみたら結構喋っている方なのかもしれなかった。こんな風に爆豪さんと何処か適当に出掛けたことが無かったから本当のところは分からないが。


不意に幾度目かの無言の空気が流れた。お互い何も言わなかった。その時目前まで迫っていた店の入口を、彼が顎で指す。

「時間だろ、」

「え、あ………、はい。」

意外にもすんなりとその時は訪れた。時計が丁度針のてっぺんを指している。買取の終わる、刻限だ。爆豪さんがまたゆっくりと歩みを進め始める。つられてそれについて行くけど、少しの間ここで立ち止まって喋っていたからなのか、歩き出しが出遅れた。

本来なら待ちに待ったその時間。だけど今の私はそれを素直に喜べないでいる。勿論寂しいからでは無かった。とはいっても、それを言葉にするにはまだ少し難しい。

「爆豪さん、」

「ンだよ、まだ何かあんのか?」

「最後に、一つだけ。」


“憐れみ”ですか?なるべく顔に感情が出ないように、必死で歪みそうな頬を抑えて私は呟く。
聞くというのは、酷く勇気がいる行為だ。そして、向けられたままの背中にそれを問い掛けるには、私はまだまだ弱かった。

やっと踏み出した直後でもあったから、心臓が途端にうるさくなっていくのをぼんやりと感じていると私の意図を汲み取ってくれたのか、爆豪さんが顔だけこちらに振り向く。


「な訳あるか、面倒くせェ。」

開かれた唇から、告げられる言葉。まるで至極当然だと、心の底からそう思っているらしい顔が真っ直ぐに私の視線を射抜いている。なんで俺がそんなことしなきゃなんねーんだ、それだけ言ってまた即座にくるりと踵を返してしまうその後ろ姿は、やっぱりいつ見ても迷いがない。良くも悪くも、何処までもひたすらに真っ直ぐだった。
もしかしたらこの人のそういうところとかを、私は気に入ったのかもしれない。だから、本当は逃したくなかったのかも、なんて。
逃げていたはずが逃がしたくない、か。
いつの間にこんなに、拗れていたんだろう。

「そうですか。」

私たちの間に空いた距離は凡そ数メートル。客と嬢という関係性は、接客時間を除けば所詮この程度の関係性でしかない。けど、朝みたいな空気はもうどこにも無かった。たいして何もしてはいなかったにも関わらずだ。強いていえば爆豪さんのオフの日の買い物に付き合って、特に重要なことも交わさずご飯を食べて、そして帰っただけ。

「ちったぁ納得出来たんかよ。」

「まあ、それなりに。」

「クソ生意気だな。」


彼の言う通りだ。プロのソープ嬢失格かもしれない。プライドの高い人ならきっと怒られている。それでも爆豪さんは怒る素振りすらなくポケットに手を突っ込んだまま美しく結ばれた眦を細めて嘲笑を零すだけだった。その様子にどこか安堵感のようなものを感じたような気がしたけれど、今はまだ私の勘違いだと思っていたい。

目には目を、君には嘘を


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