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憂鬱な朝。こんなにも眠れない夜を迎えたのは、それこそ二十余年過ごしてきた私の人生の中でも初めてなんじゃないかと思うくらいの……酷い、酷い夜明けだった。

指定された駅へと向かう電車内にて。壁にもたれながら、現在私はスマホをただひたすらにいじり倒して過ごしている。待ち合わせまではまだた30分ほどの余裕。とはいえ今日は普段通りの出勤ではなく、買取としてのサービスを行わなければならない。だから、万が一にも時間に遅れるということは許されていなくて。重い足を何とか引き摺ってここまで来たのだが、段々と近付いてくる目的地と、昨日の彼の顔が脳裏に焼き付いて絶対に離れてはくれなかった。

ああ、嫌だ、嫌だ。行きたくない。どろどろとかったるい想いを吐き出したところで、気付けば待ち合わせ場所はもうすぐそこまで迫っている。一体何を言われるんだろう、何を話すことがあると言うんだろう。

思えば最初から彼のことはよく分からなかった。最近は少し打ち解けられたと淡い期待を勝手に抱いて、そして無情なまでに千々に壊し尽くされるくらいなら、中途半端にあの人のことを知ろうとしなければよかったな、なんて。そんなことを考えながら電車を降りる。履き慣れないヒールの音がホームにどんよりと響いて、そして消えていった。





「遅ェ」

「………お待たせしてすみません。」


改札を出るなり、正面に月色の毛先を見つける。その人物が仏頂面のままスマホに落としていた眼差しを流れるようにこちらへと向けたその刹那、サングラス越しでも分かってしまうくらいの鋭い視線が飛んできた。

どうしてもう居るの、まだ待ち合わせまで20分もあるんだけど。とは、敢えて聞かない。ただ、身構える暇すら貰えなかったなと思うだけにしかならないと分かっていたから。
とは言っても……遅ェとは、彼も随分な物言いをする。眉間に皺が自然と寄ってしまうのも無理はないだろう。

思うことは多々あれど、全部を飲み込んですみませんと吐き出すことの出来た私を誰か褒めて欲しい。まあ、どうせ誰も居ないことは分かっているんだけど。
爆豪さんはそんな私を更にもう一度一睨みした後「行くぞ」とだけ呟く。………行くぞ、と言われても。主語も何もまるであったもんじゃない返答には、いつも困ってしまう。

「行くって何処へ?」

「あぁ?……飯に決まってんだろ。」

「………いや、飯って」


まあ、それでも私が困ったところで彼が変わることなど、この先一生ありはしないのだろう。ため息混じりに分かりました、と返す。そして爆豪さんは何も言わず私の前を歩き出した。

これが太客と嬢の交わす会話だと言うのだから不思議だ。私と彼に一体どんな関係があればこんな会話を交わさなければならない理由があるというのか、その理由はいつまで経っても分からないまま。



促されるままに乗せられたタクシーは、曰くヒーロー御用達のプライベート送迎向けタクシーだったらしく、その準備の良さにはなんというか感心する。ブラインドの掛かった車内に押し込まれて、何が何だかよく分からないまま爆豪さんと運転手さんのやり取りを見守っていると、運転手さんからシートベルトを指さされた。締めろ、ということらしい。

手慣れていると思った。爆豪さんも、運転手さんも。だって普通のタクシーならこんな風に何も無く発車なんてしない。多分だけどよく利用しているのだろう。だからこんなにも、滑らかにことが済んでしまうのだ。

何だか無性に腹が立った。無論、それが独善的な怒りなのだと心の中では分かっていた。


「撮られたくないなら、止めればいいのに。」

ここ最近、私の口から出るのはそんな言葉ばっかりだ。思ってもいないことではないが、心が思うことを曲解して口走ってしまう。そうまでして私と話したい内容ってなんですか、そう聞ければ何もかもが丸く済んだはずなのに。


「撮られて困んのはお前だろ。」

「………撮られて困るのは、お互い様でしょ。」

それ以降、爆豪さんが口を開くことは無かった。










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タクシーは、その後大型のホームセンター前で止まった。ホームセンターとは言ってもいくつかの施設と複合されているらしく、人手は意外と多い。

「ご飯に行くんじゃないんですか?」

何でこんな所に連れてこられたのだろう。シンプルに訳が分からない。素直に問いかけると少し先を歩く爆豪さんが振り向きざまに「先にやることあんだよ、付き合え。」なんて言う。

「そんな暇ーー、」

「買取時間、まだあんだろうが。」

「…………分かりました。」

なんで私が、とは思うけれど自分の出勤時間を買い取られている以上は何も言えなくて。もうなんでもいいや。結局、なるようにしかならない。後をついて歩き出す。彼もまた、お目当ての場所まで歩いていく。


彼のことを知りたいと、そう思ってしまったのは本当に何故だったのか。もしかしたら、また私は知らず知らずのうちに顔に出てしまっていたのだろうか。………そんな馬鹿な。しかし肝心の爆豪さんから言われた言葉が「本気で逃げたい奴はんな顔しねぇ」というものだった訳だから、バッサリ否定するにはきっと色々なものが、私には足りていないのだ。


心の何処か、奥深くで見透かされていたのかもしれない欲求に、果たして爆豪さんが気付いたのかまでは知る由もない。ただ、今日の彼はどことなく饒舌で。付き合えと言った後にスタスタとガーデニングコーナーに入っていく彼を見た時には目玉が飛び出しそうなほど驚いたが、曰く車の水圧洗浄機を探しに来たらしい。

「車、好きなんですか?」と聞いてみたら意外にも「嫌いじゃねぇ」という砕けた応答の他に、「たまに掃除してやんねぇとあっつう間にダメになんだよ、車は。」との返事が返ってきて、「そういうものなんですね」なんて感心した。私は残念ながら車には疎いのだけれど、真剣な眼差しを見る限り決してそれが表面上の趣味でないことが伺える。

彼が立ち寄るコーナーはアウトドアとか、フィットネスコーナーとか、そういう男性らしい場所ばかりだった。そして立ち寄るなりお目当ての道具やら筋トレグッズやらを品定めする爆豪さんの横顔がとても新鮮で、その度に私は会話を続けた。
例えば「好きなんですね」と聞けば他愛ないYES or NOが返ってくるし、例えば「どんな筋トレしてるんですか」と聞けばプロヒーローらしいハードなメニューが返ってくる。あまりにもキツそうな内容に思わず苦笑いなぞしようものなら「こんくらいヨユーだわ。」と勝ち誇った笑みを彼が浮かべたりなんてするから、まあ、やっぱりヒーローっていうのはそういうものなんだろう。一瞬だけ胸がぎり、と締め付けられたような感覚がしたけれど、それは多分私の気のせいだ。




「お前は。」

「………はい?」

「お前は趣味とかねェんか。」


一通り用事が済んだらしい。いくつかの荷物を郵送手続きで自宅へと送り終えた爆豪さんがふと問い掛けてくる。まさか自分のことを話してくれるだけでなく、私のことを聞いてくるなんて思っていなかった。一瞬返答に戸惑ったものの、しばしの沈黙の後「アロマ集めとか好きですね。」と口を突いて出た答えはあくまで源氏名の方の趣味で。

しかしまあ、なんというか。どうして彼という人はこうも鋭いのだろう。私の返答に際し爆豪さんはすぐさま食い気味に「“そっち”じゃねぇ」と呟く。「テメェはどうなんだよ。」とまで畳み掛けられては、今更誤魔化しようもない。

「………本当、なんでそんなすぐ見抜くのかなぁ。」

「アァ?まだンなこと言ってやがんのか。」

「だって……、」


ため息にも似た吐息。この人の鋭さが私は大嫌いだ。今更何をと思うかもしれないけど、こんな時だからこそ余計にそう感じるのだと思う。

「はぁ、そうですね……前は行き先を決めず遠出する、ってことにハマってました。」

「……んだそれ。」

「ぼんやり電車に揺られながら好きな駅で降りて、そして気が済んだら帰るんです。」

「そりゃ、ピッタリの趣味だな……つーか別に隠す必要無かっただろうが。何でわざわざ嘘吐きやがった。」

「教えたくない、以外に理由あると思う?」


本当は、アロマなんてさほど興味もないし、ましてや集めるほど好きなわけでもない。私のプライベートな友人であれば確実に「あんたがアロマ集め?無いでしょ。」と笑い飛ばすくらいにはそんな可愛げのある趣味が似合わないということも、知ってるのだ、私は。

ただ、言いたくなかっただけ。これ以上踏み込まれたくなかったというだけの、簡単な話だ。だってそうだと思わない?私は、貴方のことを何も知らないんだから。
プロヒーローである爆豪さんが私のことをどう思ってるかなんて分かるはずがないのと同じように、貴方も私のことを大して良く知らないままでいてくれれば、それで。

それで良かったのに。

彼は結局、最後に「そーかよ」と呟いてからはそれ以上何も言わなかった。今の今まで無遠慮に踏み込んできたくせに、こういう雰囲気の時だけ踏み込んでくれないなんて、狡い人だ。言わずに今日を続けようとする爆豪さんに、私はいつまで振り回されることになるのだろう。その間も、時計の針は着々と進んでいる。

浮き憂き

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