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タイミングが本当に素晴らしい、なんていつも思う。もしかして私を見張っていたりするのだろうか。………まあ、そんなことこの人に限っては絶対ないとは思うのだが。だけれどこうも最悪なタイミングで電話が掛かってくると本当に見張られているんじゃないかと錯覚するわけで。叶うならいっそ、あの人に見つかる前の頃まで戻りたい。
一呼吸。深呼吸をして、覚悟を決めてから私は応答ボタンを押した。事務所の向こうに見える爆豪さんの影を視界に収めながら「はい、」と応答すると、途端にスピーカーから聞こえてくる怒髪天。「テメェ、既読スルーなんざいい度胸じゃねェか……」とまるで地を這うような低音が向こうから聞こえた。
「………。」
「オイ聞いてんのか。」
「聞いてます。」
「……聞いてます、じゃねーだろ。」
ブラインドの向こうに見える彼は頭をガシガシと掻きながらデスクに腰を預けている。明らかにイラついていると感じたが、それもきっといつもの事なんだろう。
「電話に出たっつーことは、予定分かってんだろうな?」とまくし立てる様に告げてきた爆豪さんの言葉には応答せず、私はそのまま押し黙った。正直どうして電話に出てしまったのか、自分でも理解ができなかったのだ。
出てしまった以上は返事しなきゃいけない。
でも、果たして一体なんと返答すればこの場から逃れられるというの。
「何か言えや。」
「あの、」
「あ?」
「私……、」
言葉が出ない。私ってこんなに繊細な女だったっけと我ながら疑問が浮かんだが、現実はそうも言ってられない状況だ。
言葉が出掛かって、そしてつっかえた様な、そんな間が挟まる。少しして向こう側から僅かなため息が聞こえた。続けて爆豪さんが「言いてェことがあんならはよ言え」と呟く。言葉は荒いものの、声色はさほど怒っているという雰囲気ではないらしい。
「無理かもしれないです………。」
「あァ?何の話してやがる。」
「予約、受けれません。」
私の後ろを大型のトラックが通り過ぎていく。往来の喧騒の中で、私の周りとスマホから聞こえる声だけはやけに静かだななんてそんなことを思った。やっとのこと吐き出した言葉に特段深い意味はない。強いて言うなら言葉の通りである。でも爆豪さんにとっては多分予期しない出来事であることに変わりはなくて。
だから物凄い勢いで「ふざけたこと言ってんじゃねェぞ。」と罵倒されるであろうことも想定済みだった。それなのに、どうしてこの人はいつも私の思うように動いてくれないんだろう。
「……何があった。」
ふと聞いたこともないような声色で、彼が呟く。そこに一陣の風が吹き抜けていった。見れば窓ガラスの向こうには、いつものように真っ赤な目を釣り上げた爆豪さんではなく、年相応に落ち着いた雰囲気の青年が立っていて。横顔はまさに真剣そのものといった雰囲気が漂っている。その顔は、ただ私の次の答えを待っているように見えた。
「何も、……ないです。」
「嘘吐くんじゃねェ」
「本当に嘘じゃなくて、」
これが嘘じゃなければなんだというのか。喉で引っかかった一言が詰まる。私は、一体彼にどうして欲しいんだろう。分からない。
嘘じゃないはずはなくて、でも何があったと聞かれたら素直に答えられるような内容でないことだけは確かだ。だってこれは、勝手に思い込んで勝手に終わらせようとしているだけなのだから。
存外、私は彼のことが気に入っていたらしい。それは無論恋ではなく客としてだが。心のどこかで、私のことを対等に扱ってくれる人なんだと評価していた。
一方的に抱いていた信頼なんてものは、薄っぺらな関係より脆い。爆豪さんがトップヒーローだったというそんな下らない理由ひとつでも崩れてしまう。それほどに、私は彼のことを知らなかったのだ。
知らないから怖かった。だからここで逃げておいた方がいいと思った。それだけの理由だった。
でも、そんな言い逃げみたいな行為はどうやら許されないようで。
その時、通りの遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてくる。誰にでも聞こえるような音量で響くそれは瞬く間に私の傍まで近付いてきた。同時に、爆豪さんの方からも響くサイレン。爆豪さんのスマホもどうやらこの音を拾ってしまっているみたい。
はた、と気付く。彼も同じことに気が付いたのか無言だった。まずいことになったと頭の中はすっかりパニックに陥り上手く機能してくれない。今ならまだ間に合うかも、早く逃げなきゃ、考えている今この間でさえも、事態は取り返しのつかないとところまで進行しているというのに。
「お前、今何処だ。」
「っ、」
案の定爆豪さんから想定した通りの問いかけが下りてくる。私の息を飲んだ音が向こうに到達するのとほぼ同時に、刹那ブラインドに映る影がこちらを振り向いた。流石ヒーロー、誰かの視線に気付くのが驚くほど早い。
目が合うや否や。私は弾かれるようにして、事務所を背に一目散に走り出す。何処へ行けばいいのか、逃げ込める場所はどこだろうとか。生憎そんなことを考えている暇は無かった。
数秒しか経っていないのに背後で乱暴に扉が開け放たれる音が聞こえる。振り向いている暇はないので、振り返らず走る。こういう時ヒーローは便利でいいな、なんて他人事のように考えてみれば、後ろからはどんどん迫ってくる爆発音。ああ、私にも強い個性があったなら、この場からまんまと逃げ仰せて、そして二度と会うこともなかったのに。
「っ、待てコラ!」
「ひっ!」
破竹の勢いとも称されるかのトップヒーローは、逃げ出した一人の女にさえ容赦の一欠片も見せてくれないらしい。あっという間に数十メートルはあったはずの互いの距離をせり詰めて、そして次の瞬間目の前に彼が降り立っていた。
慌ててUターンするけれどたかが一般人レベルの運動神経しかもたない私では、ヒーローの目を欺くことなんて不可能だ。
そのまま抵抗虚しく、私の腕を掴みあげた爆豪さんが「逃げんな」と呟く。逃げ込んだ場所が悪くて、表通りから見えない位置に押し込まれ名実ともに逃げ場がなくなってしまった。
割と全力で走ったんだけどな。……結局彼からしてみれば戯れみたいな速度だったんだろうか。全く息切れひとつ零していない爆豪さんのいつになく真っ直ぐな眼差しに見下ろされ、私は黙ったまま俯く。
「何でここに居んだ。」
素直に答える気はなかった。
「………偶然です。」視線を反らして再びの嘘を重ねるが、当たり前のように爆豪さんは「な訳ねェだろうが」と一蹴してくる。その間僅か数秒足らず。……まあそりゃそうなるでしょうねとは思ってた。答えるより前から頭では分かっていた訳なのだが。
それでも認めたくない私がここに存在している以上、そう簡単に認める訳にはいかなくて。
「ここに来たっつーことはなんか聞きてぇことがあんだろ。」
「だから偶然ですってば」
「テメェは偶然でヒーロー事務所覗くんか?」
不意にぐい、と腕を引かれ、視線を無理やりに合わされる。いつまでもそっちを見ようとしない私にきっと痺れを切らしたのだろう。こんな風に顔を固定されるとただでさえも逃げ場が無いのに、一層拒絶のしょうがないから正直困る。子供みたいな意地を貼るだけの自分には心底うんざりだ。
正直に話せと告げてくる真っ直ぐな目。切れ長の眦が不意に細められると、まるで心根の奥底まで見透かされているような気がして、素直に目を合わせられそうにない。一瞬泳いでしまった私の視線に、彼は気付いたようだった。
「………言え。」
「……。」
「何考えてやがる。」
「私、」
やっぱり私、彼の前だと上手く源氏名になり切れないみたい。何故か真剣な表情で諭すみたいに問い掛けてくる爆豪さんに、いよいよ全てがどうでも良くなり掛ける。このまま全て話してしまえたらきっと楽にはなれるだろう。でも、それだけで終われるかと問われれば、不思議とそんな気は全くしないのだ。
それはやはり私と彼が客と嬢の関係だから、に他ならない。まあ、例え友人だったとしてもこんな風に内面まで見透かされるのは遠慮したくもあるが。私たちは所詮親しい友人という訳でもないし、ほんの少しだけ面識のある他人同士と呼ぶのが結局のところ一番近いわけで。そうなればもう、答えなんて決まっているようなものじゃない?
「……貴方には関係ない。」
「………あ?」
「今日は非番なんです。私を源氏名として見るの、やめてください。」
掴まれた腕を払いながら目の前の二つ星を睨みつける。逃げるより他に答えなんてなかったんだと言い聞かせるようにして、私は明確に彼を拒絶した。こんなにはっきりとお客さんにNGを出したのは初めてだ。
私の言葉が上手く刺さったかなんて、本人じゃないから分からない。けどたちまち歪んで釣り上がる瞳が、先程の一言がそれなりに響いていることを物語っていた。
何から何まで嘘と見栄で出来ている。我ながらちょっと引く。けど源氏名と違って自分の首を絞めてまで、他人と寄り添いたいとはどう足掻いても思えないのがこの私だったから、諦めて最適解を受け入れる他ないのだろう。
爆豪さんは一瞬だけ逡巡したような素振りを見せた後、「そうかよ」と呟いた。
「分かったなら退いて、」
すぐさま彼の胸板を押し返す。所詮終わりというのは呆気ないものだ、なんてことはない。やっとの思いで解放される兆しが見えたことに安堵しながら、私はなおもその胸を強めに拒絶する。
「ちょ、」
「そのくっだらねェ見栄が本心か?」
けれどその身体が離れることは無かった。
「何言ってーー、」
「そんなんだからテメェは嘘が下手なんだよ」
今度こそ解放されると安堵していた私を襲ったのは爆豪さんの嘲笑。戸惑う私を尻目に、爆豪さんは振り払われた方の腕で私の顎を乱暴に掴む。突然のことに動くことも出来ないまま、不意にまたあの双眸が最奥を覗き込んでくる。
嫌だ、見たくない。そう思っても今度こそ顔を背けることは許されていないようで。
「この俺がそんなんで納得すると思ってんのか。」
「……っ、なんで」
「甘ェんだよ全部。第一、本気で逃げたい奴はんな顔しねぇんだわ。」
どこまでも透き通る相好。眉間には珍しく皺が刻まれていない。相変わらず動けない身体は強ばっており、ほんの少しだけ震えてしまった。最早言われたことに対して何一つ反論出来そうになかった。
彼の言うことが図星であるのは、誰が見ても分かるくらいの確定事項。でも、それ以上に反論出来ない理由があるとするならば。
「それでも理由が欲しけりゃくれてやるよ。」
「……どういう意味ですか?」
「テメェのこれから、全部俺が買い取れば文句ねェだろ。」
「は、」
答えはきっとシンプル。そして、その真実は残酷なまでに私を苦しめるとわかっている。
彼が私のスマホを不意に奪い「今すぐ店に電話しろ」と言ってきた。その意図が分からないほど私は馬鹿ではなく、だからこそ素直に従わざるを得なかった。客であることを振り翳されたら、私にはもうどうすることも出来ないのに。
“理由が欲しけりゃくれてやる“なんてそんなこと。私が逃げたいけど逃げられない理由を欲しているということに、どうしてあの人はこうも簡単に気付いてしまうのか。悔しさとはまた違う言い表せない感情が溢れる。店に電話を掛けるその間も、注がれる視線が消えることは無かった。
囚人は震えて眠る