不束者の愛ですが
ついこの間まで他人事だったその言葉が、自身の心に自覚として芽生えるまでは、まだ幾ばくかの時間が必要かもしれない。テレビ画面には一面「ヒーロー・ショートが婚約発表、お相手は一般女性!」の見出しが踊っていて、随分と騒がしげだ。渦中の一部に取り込まれているであろう弊社オフィスの、ここ商品開発部における我がデザイナー科も一見件の騒動の影響を全く受けていないように思えたが、その実昨日から電話が驚くほどに鳴り止まないでいる。
「ーーーはい、はい……ええ、件のデザイナーは確かに弊社所属のデザイナーですが、はい……、」
「すみません。業務の妨げになりますので、これ以上はご遠慮いただけますか?」
自分のことをさも自分でないように受け答えするのにも随分と慣れてきた。報道から凡そ30時間経過後の現在。同僚のデスクの電話がまたも鳴り響く。「これ何回目よ!」と苛立った様子の彼女が隠さずに叫んだ。……なんだか、申し訳ないなといたたまれない気持ちで漸く沈黙してくれた自身の電話の受話器を置きながら、パソコンとにらめっこを再開する。
メインディスプレイには仕事の設計書、そしてサブのサイドに設置したディスプレイには件のヒーロー・ショート婚約発表ニュースが開かれている。
そこには決して名前や個人が特定出来る情報は載っていなかったけど、それでも一部の当事者から見れば明らかにそれが私だと分かるくらいの書き方がされていた。
まあ、そもそも彼との熱愛報道最初に出されたのも私だったしね。……だからといってあの頃はまさか本当にお付き合いすることになるとも思ってなかったし、ましてや結婚までいくことになるとも思わなかったけど。
第三者に横槍を入れられるような、やましい関係なんかじゃない。それに関しては自信を持っている、のだが。またも鳴り響いた電話のベルを聞く度に、世間は私たちを放っておいてくれないのだと嫌でも再認識させられる。
某日、私と元クライアントである轟さんは長いお付き合いを経て婚約した。書類の提出と結婚記念日に関しては、そろそろ付き合い始めた記念日がやってくる時期でもあったので双方合意で合わせよう、という話になっている。
まだ婚約なのだから大々的に言わなくても良かったんじゃない?と聞いたら、彼曰く「どうせ結婚するんだから、こういうのは早い方がいいだろ。」との返答が返ってきた。こういうのってどういうのなんだろう。返答を聞いたその時こそそんなふうに思ったけれど、まあ細かいことは気にしない。
ともかくとして、左手の薬指に嵌められた指輪の重さなんて私は知らないけれど、それでも一歩一歩近寄ってくる結婚という一大イベントが、確実に私を彼の大切な人へと昇華させていくわけなのだが。
長い道のりだったとは思わない、変わらず私と焦凍くんはこれからも一緒に歩んでいく。これは、ただそれだけの話なんだろう。
「すみません、少しお話よろしいですか?」
「いや、あの……」
前言撤回だ。それをまさかオフィスを後にして数分後に言う羽目になるとは思ってなかった。一応警戒して装着したマスクなど毛ほどの役にも立たずあっという間にマスコミらしき雰囲気のグループ数名に囲まれて、人通りの少ない路地に取り残された現在。
「昨日プロヒーローのショートと婚約されたという方があちらのオフィスにお勤めらしいんですけど何かご存知ではないですか?」
「本当に些細なことでも結構ですので!」
「えっ、と……すみません、よく知らなーー、」
「社内でもやっぱり秘密扱いなんですか?」
「一部ではショートのコスチューム改良に携わった方と同一人物だという噂もあるみたいなんですけど、」
人の話を少しも聞いてくれない……!パーソナルスペース?何それ?と言わんばかりの推しの強さで、どんどん追い詰められていく。自然とバッグを抱き締めてしまう腕が私の弱さを物語っていた。今更こんなことに怯えるなんて、柄でもないのに。それでも上手くあしらえない自分がとにかく情けない。
きっとこの人達は人を選んで、 それらしき人物、なおかつ弱そうな人にだけ声をかけているんだろう。でなきゃ敢えて私をここまで徹底的に囲む必要も無いはずだ。後ろめたい気持ちが漏れ出てしまっていたのか否か。図り知ることは出来ないが、それでも尚も「大丈夫、きちんとプライバシーには配慮いたしますから。」と食い下がらない彼らを見るに、私の考えは間違ってはなさそう。
「そういう問題じゃ、」
「少しで良いんです!ね!」
「ちょ、」
案の定難しいようでしたら、近くの喫茶店にでも行きませんか?なんてとんでもないことを提案してきた男性インタビュアーに、油断したそばから腕を掴まれた。いやいや、嘘でしょ。驚いて目を丸くしても、私の腕を掴んだその人は臆することなくグイグイ突っ込んでくるのをやめない。
ほらやっぱり人を見て声掛けてる。振りほどこうと身を捩っても囲まれているもう一人の女性に良いように宥められてしまっては最早どうすることも出来なさそうだ。あー、もー!人の話本当に聞いてくれないなこの人たちは。
「ほ、本当に困るので……!」
いよいよ大ピンチ。別に命の危険なんてものはないけれども。だからといってこの状況は大変まずい。いっそこうなったら大声でも出して警察に駆け込んでしまおうか。
そもそもどうしてこんなことになってしまったのだろう。一応私はただの一般人なはずではなかったか。そりゃヴィランに人質にされたこともあれば、熱愛報道で大衆紙に載ったこともあるけどさ。……いや、そう言えばテレビ取材のインタビューも何回か受けてる、かも。
あれ?
もしかして私って既にほぼ一般人では、ない?
はたと気付いた時にはやっぱり何もかもが手遅れで。こんな時に自覚したかった訳ではないないけど、改めて思うと私はもう一般人ではないのだろう。ショートの奥さん……になる人間。うわ、自分で言ってて照れる。それは置いとくとしても、色々タイミングも自覚も足りなかったんだろうな。
(あーあ、)
もうなにか聞かれても黙秘します、で乗り切ればいいや。そしたら多分直ぐに開放されるでしょ。上手く断ることはもう出来ないだろうから、次の事態に備えておかなくちゃ。
誰に聞かれるでもないため息をひとつ吐いて連れられるままに足を踏み出す。なんだろう、こんな時に運悪く捕まるなんて、厄日なのかな。
何故か分からないけど物凄くフレンドリーに隣の女性が私に話しかけてくる傍らで、その時まるで分かっていたかのように、背後で足音が響いた。
「すみません、その人離してもらえますか。」
「わっ、」
「え?」
直後、聞き慣れたとある人物の声がすぐそばから聞こえてくる。ふわりと抱き寄せられた刹那鼻腔に香った強かな匂いが、え、どうしてここに…?という疑問を直前で喉元から留まらせた。
「なっ、……!?」
目を丸くして私の肩を抱いた人物の顔をまじまじと覗く取材陣。前を先導していた男性が何事かとこちらを振り向き、悲鳴に近い声を上げる。
「しょ、」
「俺の大事な人なんです。」
相変わらず整った顔。怒るでもなくただ淡々と周りを取り囲む取材陣へと一瞥を飛ばし、控えめに私を引き寄せた焦凍くんが、なんと前に立っていた。
突然すぎる来訪者の登場にはまるで言葉が出ない。
というか本当になんでいるのだろう。
本人は迎えに来てくれただけかもしれないけども、そのタイミングの良さには感服する。そう言えば昔ヴィランに人質にされた私を助けに来てくれた時もそうだったなぁ。
言いたいことは沢山あったけど、実際口に出来たのは彼の名前を呼ぶことだけで。
「しょ、ショート!?」
「本人ですか?」
想像以上の状況に人々が沸き立つ。彼らにとって願ってもない状況とは、まさにこのことを指すのだろうか。そんなふうに呑気に思うけど、私の方はそれどころじゃない。いやいやいや、だ、大事な人って言った?私のこと大事な人って!
「詳細はまた近いうちに出すと思うので、それまで待っててくれると嬉しいです。」
「えっ、」
「じゃあ、俺たちはこれで。」
大事な人発言なんて無かったかのように。にわかに騒ぎ出した取材陣のテンションなど全く気にしない素振りで、いつもの見知った表情が「なまえ行こう。」とそのまま私の肩をぐいと引いて歩き出す。えっ、素っ頓狂な声を上げて固まった男性と同じ言葉を発しながら、私も一緒になって歩き出した横顔へ視線を投げかけた。
きっと今、私は助けてもらっているのだろう。無論もう時期結婚する彼に。だとしても、だ。
この状況を放置して大丈夫なの?明らかに誤解されない?焦凍くんが何を思ってこんな風に助けに入ってくれたのかは、よく分からない。
「ちょ、ちょちょちょ、待って!」
「すみません、さっきのはどういうことですか?!」
傍から見れば直球すぎる返答をうけて案の定駆け寄ってくる取材陣。行く手を阻まれた途端、焦凍くんの歩みが再び止まる。そりゃそうだろうなぁと引き止められて頭にはてなを浮かべている彼を眺めてから私も立ち止まった。
「…………?」
「そちらの方とは、どのような関係で……え、というかもしかしてその方なんですか……?」
「?その方って……なまえがなにか?」
(あ、呼び捨て………。)
呼び捨て如きにもうきゅんとしてしまうほど乙女ではないと自負していたつもりだったのだが。それでも人前であの低いけど柔らかい声が私の名前を呼ぶと、少し胸がときめいてしまう。こんな時なのに随分重症だったんだなと気付いてしまった自身の心根は、案外単純だ。
肩を抱いて抱き寄せ、人前で呼び捨てにし、そして大事な人だという発言。これはもう誰が見てもきっと私が婚約者なのだとバレてしまうくらいには材料が出揃ってる。明日にはまた一面が彼に染まってしまうのかな。他でもない私が染められてしまったみたいに。
「昨日婚約発表されましたよね?」
「……はい、しました。」
「お相手の方は一般の方だと表明されましたが……」
「そうですね。」
それでも次々投げかけられる質問に淡々と答えながら、ふとこちらを一瞥する焦凍くん。その視線の意味さえも取材陣にとって格好の餌になるということは、あまり気にしてないみたい。幸いにも彼が牽制してくれたお陰か私の方へはカメラを向けられず済んでいたが、その分焦凍くんへ向けられるシャッターの回数はどんどん増えていく。
「隣の方とはどういったご関係で?」
「……なまえですか?」
若干の戸惑いを見せつつ律儀に答えようとしてしまうところとか、やっぱり彼らしいと思う。今はたとえそれが悪手だったとしても、そんな優しくて素直な君だからこそ、私は惹かれたんだろう。
「彼女は俺の大事な人です。」
「大事な人って、つまりどういう……」
ああもう、やっと焦凍くんの考えがわかった気がするよ。そういうこと、そういうことなのね。
こういう発表なら早い方が良いって言ってたけど、彼は元々隠す気なんて更々無かったのかもしれない。返答からして私との関係を隠すこともしたくなかったというのが、先程の対応とか口ぶりから何となくわかってしまった。
ああ道理で。婚約発表が驚くほど早かったわけだ。
「なまえはーー、」
別に恥じることなんてないんだ。彼は、純粋に私を真っ直ぐ見てくれてただけだった。ただ私が勝手に臆して勝手に憂鬱だっただけ。
それだけのことだったんだ。
「私が噂のデザイナーです。」
吹っ切れてしまえば大したことない。むしろ、なんであんなに隠して、目立たなくして誤魔化そうなんて思ったんだろう。自然と自嘲に近い笑みがこぼれ、ふと気がつけば私は少し笑ってしまっていた。
たとえ世間がどれだけ騒ごうが、私達がこの先もずっと一緒にいることに変わりなんてなかったのにね。誰がなんて言おうと、私は彼の婚約者になったんだ、だから。今更隠す必要なんてない。
普通の会話をするみたいに口にした言葉は、私達の関係を全て肯定するもので。振り返ればああほら、やっぱり簡単だ。何も心配することなかった。
突如参戦してきた私の爆弾発言に先程同様驚きの表情を浮かべるのはカメラを構えた女性。そして隣に並ぶ男性も、危うく肩に掛けたバッグをずり落としそうになり「あっ、」と声を上げて焦っている。
私はそんな目の前の人達には目もくれず「ね?」と肯定を求めて存外近いところにある焦凍くんの顔を見上げた。焦凍くんは一瞬だけ目を丸くしてびっくりしている。多分私から、そんな言葉が出てくるとはきっと思ってなかったんだろう。目が何となくそんなことを物語っていたから、きっとあながち間違ってないはずだ。
「だから、付き合いは結構長いんです。」
「え、……あ、そう…なんですか。」
「ね、そうだよね、焦凍くん。」
「あ、あぁ。」
「ということは、え、やっぱり噂通り……貴方が?」
最初に私に声をかけてきた男性が恐る恐る焦凍くんを見てから私へと視線を向ける。貴方が、婚約者なんですか?と無言で聞いてくる視線が突き刺さったけど、今の私にはそれさえもなんだか嬉しくて。
「はい。」
「…!」
今、私が自信もって婚約者なのだと言えたのは紛れもなく彼のおかげに他ならない。明るく笑いながら向けられたレンズに向かって答えたその時、焦凍くんの顔が僅かに綻んだ。
「あ、」
「ん?」
どこにでもある大衆紙の大見出しには、大きな文字で“ヒーロー・ショート 幸せ過ぎる笑顔!お相手は担当デザイナー。”と書かれている。傍らには純粋な祝福の気持ちで取られたであろう肩を寄せ合う私達の姿が載っている。
どの角度から見ても幸せそうだなと私は雑誌を眺めて満足気に笑を零した。自分のことを幸せそうだと感じられるのはいいことだ。
「この前の写真だよね?」
「写真?……ほんとだな。」
「凄く幸せそうに笑ってるよ、ほら。」
私の顔は一応隠されているが、肝心の焦凍くんの笑顔があまりにも幸せそうに見えたらしく、もっぱら
世間はこの笑みのことで持ち切りである。
「いつの間に撮られてたんだ、これ。」
「まあいいんじゃない?」
私達のことを、お似合いだと言ってくれる人がこの世の中には存外沢山いることを知った。その事実だけで満足だった。今なら早い方が良いって言ったその意味が、心から理解できそうな気がするよ。
「ねぇ焦凍くん。」
「どうした?」
「私、名前変わるんだね。」
名字から轟へ。決して長い道じゃなかったと思ってたけど、いざ実感が湧いてくるとなんとも言えないくすぐったさが込み上げる。
轟……かぁ。私の名前、轟になるんだって。あの頃の私が知ったらきっと驚くだろうな。まだその名前が馴染むまではもう少しかかるかもしれないけど。
「楽しみだね。」
でも、歩いていきたい。
これからの道のりも貴方と二人で。