夜惹く

私は昔から感情をあまり上手く表に出せない女だった。焦凍と付き合い始めたのは、学生時代からで、振り返ってみればもうかれこれ7年はその横顔を飽きずに追い続けている。対して轟焦凍という男は逆に、案外私とふたりでいる時は、感情をよく出してくれる方だった。それは今日という特別な日においても変わることはなく、例えばお色直しでバックへと引っ込んだ時も、一度打ち合わせで見てるにも関わらず焦凍はじいっと私を見つめてから「綺麗だ」って頬を染めて微笑んだり、かつてのクラスメイトに囲まれて記念写真を撮った時は、私の肩に手を回して抱き寄せながら、綺麗に微笑んでみせたり。

まあ、兎に角今日の焦凍は、存外立派に新郎をやり切ってくれたという訳だった。



立派、とは。何を持って立派というのか。
私は生憎明確な答えを持ち合わせていない。ただ、それでも彼とひとつの終点に辿り着けたことが、今の私にとっては全てで。

天気はお日柄も良く、清々しいまでの晴天。今日日この日、私は轟焦凍と長年のお付き合いを終えて結婚式をあげた。轟 なまえと目に見える形で名前が変わったのは役所へと行った一昨日のことで、それがまたひとつの終着でもあった。



若干疲れた顔をした私たちを乗せたタクシーは住宅街を進んでいく。お互いが身に纏っているのはヨレた白のデザインタキシードとドレス、それから片手に収まる程のクラッチバッグ程度。

二次会の為にと用意したシンプルなお揃いの服も、今は旧友たちに囲まれ揉みくちゃにされた拍子に幸せの数だけ皺を刻んだ。夢は解ければ現実へと戻されるのがシンデレラという話だけど、今日だけは違う。

「どうも。」

タクシーが慣れない場所にぽつんと拓く、慣れない家の前に停車する。これがなんの意味も持たない場所ならばいざ知らず。しかし私達にとっては結婚式を上げることと同じくらい重要な意味を持っている場所だった。

片手で運転手へと支払いを済ませながら、外へ出るよう促してくる焦凍の手が、私の手を取る。ご丁寧に扉の外で待ちながら、ゆっくりと引き上げてくれたその手つきは至極慣れた様で、彼にとてもよく似合っていた。焦凍の大きな手は人を守る手だ。その手が私に触れる時は、如何なるときも心地が良くて。

そんな焦凍の優しげな横顔に見とれている私のことなど知る由もないまま、バタンと無機質な音を立てて共に走りだしたタクシーは、夜の住宅街の角へと消えていき、そしてやがて見えなくなった。


「帰ってきたな。」

「そうだね。」

帰ってきた、というには私たちはまだあまりこの家を知らない。それでも、二人でこの家へ帰ってきたことは、何者にも変え難い証明になり得た。控えめな轟の表札が掲げられた家へと、一緒に帰る。私にとってはその事実だけで十分なのだ。


「疲れてねぇか?」

「……正直めちゃくちゃ疲れてる。」

「そうか。」

焦凍は私の返答を聞いて、くすりと笑った。正直過ぎたかなと思う私の返答にすら、挙式の時と同じ眼差しを向けながら手を握って腕を引いてくれる焦凍。その眼差しには、もうずっと昔から惹かれ続けている。それは、この先も更に膨らんでいくのかと思うと、悪くない気持ちだった。結婚というのはひとつの愛の着地であるとは思うけれどそれだけが全てで、終わりという訳ではないのだろう。


「じゃあ早く入ろう、なまえ。」

「うん。」

真新しい、家の鍵。彼の手にひとつ握られたそれが回りカチャリと扉を呆気なく開く。
鍵と同じように、家の中も真新しい新築の様な匂いがした。ふわりとほろ酔いの感覚が家の中に一歩踏み入れた途端に覚醒していく。一歩、また一歩と歩を進めることに込み上げる気持ちと、実感。

(あぁ、)

私……彼の奥さんに、なったんだ。

自分のことなのに、やけに他人事のように思える。ひとつずつ確実に部屋の灯りを灯していく焦凍の背中を見つめていると、なんとも言えない擽ったさが押し寄せた。
所詮は形式でしかない挙式も、それから届出も。一つ一つはただの物でしかないけれど。

「ふふ」

「………?」

「あぁ、ごめんなんでもない。」


ふと笑みを零してしまった私の方を、ふたつの双眸が覗き込む。そうか?と短く発して焦凍は再び前を向いた。昔から何一つ、変わらないなぁ。そうやって普段疎いのに、肝心なときだけ察しがいいところとかさ。そういうところが途方もなく好きだ、と思える。




未だ荷物が少ないリビングのソファの上へと荷物を投げる。ボス、とクラッチバッグがひしゃげて着地した。まだまだそこかしこにダンボールが置かれている状態の部屋を一瞥し、気持ち疲れた面持ちで一等大きなネックレスを外して机の上へと置く。
ふと二人で選んだ指輪はきちんとリングピローの上に置いてあげなきゃ。と、思い立った私は、おもむろにソファから離れたテレビの方へと歩き出した。

しかし直後それはネクタイを外して同じく無造作に部屋の隅へと放り投げた焦凍によって阻まれることになる。

「まだ外さないでくれ。」

「っと、びっくりした…。」


いつの間にそんなそばにいたのだろう。左手に光る薬指の指輪の上へと焦凍が控えめに手を重ねてくるまで、その存在に気付けなかったなんて。やっぱりちょっと疲れているのかもしれない。

外さないでくれ、と子供のように問いかけた目はアルコールに浮かされ少しだけ潤んでいる。その瞳の中に映るのは、綺麗に飾り立てられた名残を纏う私と、皺の寄った白のミディアムドレス。そのどちらもを視界に収めた焦凍の口から再度語られるのは取るに足らない我儘で。
もう一度「外さないでくれ」と今度は至極真っ直ぐに言い貫いた目の前の人は、確かに夫であって、そして最愛の男でもあった。


「今日は外さないでくれ。」

「……今日だけ?じゃあ明日は早速外していいの?」

「……いや、それは」

「っ、ごめん大丈夫。冗談だよ。」


意地悪を言った自覚はあった。けど、思いのほかそう告げた瞬間の焦凍の顔は平静を欠いていて。あ、やっちゃったと頭が思う頃には慌てて微笑みながら冗談だと口走っていた。

大丈夫、ずっと、外さないよ。外すつもりなんて毛頭ない。まあ今から外そうかななんて思い始める新婦がいたならば、それは結婚自体が間違いになるのだろう。生憎私たちの間にはきちんとした信頼関係が構築されているのでそんな感情とは無縁なのだが。

二人で選んだこの指輪はただの物でしかないけれど、それでもちゃんと意味がある。


「大丈夫、ずっと傍にいる。」

だって今日、私は確かに神に向けて誓ったのだ。轟焦凍を病める時も健やかなる時も愛し続けると、そう誓った。これ以上の証明も、願いも、きっと世界中のどこを探したって見つからない。


「だから焦凍も、ううん。あなたも傍にいてくれるでしょ?」

指輪を外す気はもう、起きなかった。比喩ではなく本当に。お風呂入ってても仕事してても、寝てても。ただ思うだけではなく、行動でも示してあげたらこの人は一体どんな顔を見せてくれるだろうか。

「なまえ…、」

左手に重ねられた焦凍の暖かな左手に指を絡めて微笑むと、彼は不意に緩やかに潤んだ目を瞬きさせた後に、私の身体を抱き締める。壊れないように、壊さないように。回された腕から伝わったのは、丁度そんな雰囲気だった。

今日という日が終わった今、改めて人生の中で一等特別だったのだと思い知る。焦凍がぐり、と確かめるように顎を押し付けてくる仕草が言葉に出来ないほどに、ただ愛おしい。


「ずっと一緒にいよう。」

「うん、」

「絶対幸せにする。」

「お願いします。」

「一生守る。」

「頼もしい限りで。」

「それからーー、」

「もういいよ」


身体を離し、僅かに高い位置にある焦凍の顔を見つめる。どんな時でも崩れない涼し気な表情も、今は私だけのものだと思うと底なしに幸せだった。いや、今だけじゃない、ずっと私のもの。この人を独り占めして良いって、凄い贅沢なことじゃない?


「もう、充分誓ってもらってる。」


彼は存外、日常からその内側に秘められた情熱のごく一部を表に出してくれている。そして、二人きりで居るときは更にも増して内包している持て余された感情を表にしてきてくれた。無論、言葉でも、表情でも、行動でも。

そしてその感情を吐き出す為の動力は、月の引力と潮の満ち干きが関係するように、多分、結婚初夜だという今日が一番強いんだと思う。もしかしたら彼の内包された全ての感情がやっと今日、見られるのかもしれない。


「なぁ、」

「ん?」


薄く結ばれた唇からふと投げかけられた声色は、今はほんの少しばかり落ち着いている。後に彼は部屋、行こうとだけ小さく呟いた。その言葉を暫く脳内で反芻させた後、私もただ何も言わずにこくりと頷いた。

今までどれだけ一人の夜を過ごしてこようが不安に思ったことなど一度もなかったけれど、それは今にして思えば感情を上手く表に出せないが故の、精一杯の虚勢だったのだろう。

今日日この日、私は轟焦凍と長年のお付き合いを終えて結婚式をあげた。私は名字 なまえという名前から轟 なまえという名前になり、彼と生涯を共にすることを誓った。

形では無いものだが、確かにここに私の幸せは終結していくのだと理解した。

新居の香りが鼻を突く。薄暗い廊下に差し込むだけの月明かりがこれからの私たちを暗示しているよう。今宵の月は見事な満月で、ああ、やっぱり今日は今までの人生のなかで間違いなく最高の日だったのだと、自信をもって言える。

少しも待てない、とでも急かすような早急な素振りで二階の角を曲がれば、二人で決めた寝室の扉はもうすぐそこだ。繋がれた手の薬指に嵌められた指輪が熱をもつ。熱はやがてじわりと浸食しながら私たちを穏やかな夜へと連れて行ってくれるだろう。

今日は特別な夜。まさに名前をつけるなら、それは結婚初夜に他ならない。愛を注ぎ続けるのには力がいると誰かが言っていたけど、きっとそんなものは後からいくらでもどうにかしていけるんじゃないか、月明かりが照らしだした彼の横顔をもうずっと長い間追いかけながら、今日も今日とてふんわりと。私はそんなことを思うのだ。

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