ダイヤモンドブルー

今日はやけに時計の針がやかましかった。
チクタク、チクタクと普段なら何も感じないはずの雑音が、何故か耳に入って仕方なかった。しかしその理由は何となくわかっている。毎年この時期になるといつもこうなるから。




どうにも散漫している。集中力の途切れを感じ取り、私は椅子に腰掛けたままストレッチをした。

ふう、伸びるとやっぱり気持ちがいいな。肩周りを伸ばして首を捻ると妙な音がしたので、きっと集中し過ぎて結構凝り固まってたんだろう。やかましい時計を一瞥すると時刻は20時丁度を指している。…思ったより時間は進んでいたらしい。結局今日もいい時間になってしまった。まあ、いつもの事だし別にいいかと思い直しながらパソコンに向き直す。

あと30分だけ居残って、出動要請報告をさっさとまとめてから帰ろう。もうすぐ月末、事務処理がすこぶる苦手だと初めに話していたあの人の為にも、今が踏ん張りどころだった。


「なんか、今月パトロール要請多い…」


電卓を取り出し数字を入力していたその時、背後から近付いてくる足音に気付く。しっかりと揺るぎない足取りで、高めの音を鳴らせた人物が、こちらに向かって歩いてきているようだ。


「お戻りですか。」

足を蹴って扉の方に椅子を回す。


「ああ、今戻った。」

「お疲れ様です…、如何でした?」

「酔っ払い同士の喧嘩だった。」

「そうですか、大事でなくてよかった。」


“彼”はそう言って、疲れた様子もなく奥のソファに荷物を置いた。1時間ほど前に要請を受けて、騒動の鎮圧に向かっていった時と、雰囲気は変わらなかった。そのまま隣接している自室へと一瞬引っ込み、直ぐに着替えを済ませて再び事務室へと戻ってくる。

気が付けばコスチュームから私服へと様相が変わっていて。……相変わらず着替えるのが早いなこの人は。その速さにいつも驚愕する。

バサ、とソファに何かを投げ打った音がして、そちらを見ると無造作に広がったコスチュームとインナー、アームバンドがソファの上に鎮座している。後で片付ける、という意思表示だろうか。パソコンを打つ手は止めず社長である彼の次の動向へと注視していると、その人は案の定私に声を掛けた。


「なまえさん、もうすぐ終わるか?」

「はい、もうすぐ完了します。そうしたら今日は失礼しますね。」

「そうか。」


パソコンからはあくまで視線を外さずに。淡々と現状を彼に告げる。一日の終わりにこうやって報告するのが最近の日課だ。帰りが遅くなりそうな時は必ず聞いてくれるので、こちらとしてもわざわざ日報などを付けずに済むので助かっていた。


「最近ちゃんと食ってるか?」

「……え?何故急にそんな…」

「ここ数日、帰んの遅ぇだろ。」

「ああ…そういう。心配してくれてありがとうございます、こう見えて自炊するの好きなのでちゃんと食べてますから大丈夫ですよ。」

「なら良かった。」


社長は記憶力も気遣いもプロヒーローよろしく一流である。ほんと、私がここで働いてていいのか、たまに不安になるくらいには。恵まれ過ぎていると、後々訪れる不幸に耐えきれなくなってしまう。それが怖くて、仕事は全力でこなしているけど社長とは必要最低限の会話しか交わしてこなかった。

それでも信頼してくれているのか社長から受ける言葉や態度には柔らかい雰囲気が付きまとっている。有難い限りだ。


「あとどれくらいで終わるんだ?」

「とりあえず10分くらいですかね。」

「分かった。」

「……え、ショートさん、待ってくれるんですか?」

「いつも、頑張ってくれてるからな。」


褒められて嬉しくない訳はなくて。ありがとうございます、と俯き気味に応える。ほんの少し照れくさいけれど悪い気はしない。そういうところちゃんと褒めてくれるショートさんはやっぱり出来た人なんだろうな。少し緩んだ頬を知ってか知らずか、よかったら、一緒に飯食わねえか。と立て続けにショートさんはそう言った。


「え?」


真顔で彼の目を見つめる。ショートさんは変わらず丸い目で何の気なし、といった表情だ。


「……嫌か?」

「えっと、その…ごめんなさい今日はもう夕飯の準備をしてありまして。」


突然のお誘いに内心は驚きつつも、思考を巡らせ申し訳無さそうに、あくまで丁重に今回のこともお断りを入れる。断り文句は嘘ではなく、真実だった。今日は親子丼を作る予定で食材まで買い込んでいたのである。…まあ、消費期限まだもうちょっと先なんだけど。

ショートさんは私の返答については「そうか、タイミング悪かったな。」とあまり気にしてない様子だ。そのままソファからデスクへ思い出したように向かってくるなりおもむろに鞄から缶を取り出し、私に差し出してくる。


「これ」

「なんですか?」

「良かったらなまえさん飲んでくれ。戻ってくる時に自販機で当たったんだ。」

「それは凄いですね。ありがとうございます、じゃあ遠慮なく…」


いただきます。にこやかに笑いながら私は缶を荷物の中に押し込めた。季節限定のフレーバーティーとラベルには書かれている。
そう言えばもう随分と自販機から当たりなんて出てないなぁ。ショートさんは運もいいらしい。

気がつけば煩わしかった時計の音から意識がズレていて、時計を振り返れば時刻はとっくに20時半を超えている。いつの間にこんな時間に……。


「ショートさん、今日もお疲れでしょうし、もうお休みになった方が良いんじゃないですか?私はもうちょっと集計まとめてから上がりますから、私に構わず休んでください。」


帰り時間が遅くなるのはもう慣れっこだ。私に気にせず自室に戻ってくれとパソコンから視線は外さずに横目で伝える。待たせても悪いし、と思った私の判断だ。対するショートさんは私の表情を伺って何か言いたげな顔をしていた。


「まだ帰んねぇのか。」

「いっそ、明日お休み頂いてるのでもうちょっと残って片したいな…と。」


僅かに訝しむように眉が顰められる。しまった、あまりにも配慮が足りなかったかもしれない。部下に残られて、自分は休めと言われてもショートさんの立場からしても良い気はしないか。


「……すみません、直ぐ終わらせて上がります。」


社長直々に残業ダメ、絶対って顔をされるとは……いや、当たり前か。だってショートさんだし。なんだか申し訳ないな…私は謝罪の意を兼ねて直ぐに上がるから安心してくれ、と頭を下げた。


「そうしてくれ。……なぁ、」

「はい?」

「この前も言ったけど、事務所に住み込む気はやっぱり起きねえのか?」

「………、ごめんなさい。」


頭を下げ終わって、とりあえず一安心かな、なんて思ってたのもつかの間。不意に先日断ったショートさんからの提案がもう一度降ってくる。一瞬のうちにその言葉を聞いた私は固まった。

先日の提案というのは、ショートさんから事務所に住み込まないか、という申し出を受けたことである。まさか今になって再度聞かれるとは。

返答を捻り出すまで多少時間がかかったものの、先日と同じように断った瞬間、ショートさんも先日同じく少しだけ悲しそうに眦を伏せる。


「そうか。」


罪悪感を打ち消すかのように、私は再度深く頭を下げた。本来なら願ってもない、ことなんだろうね。そもそもショート事務所に入所すること自体倍率が高くて難しいのに、そのうえ事務所に住み込みで働いても良いって言われたら、普通なら喜んで住まわせてもらうのだろう。


生憎私にはその申し出を受ける勇気もメンタルもなかったので断るしか答えは無かったのだが。……心配されているのは勿論分かっている、けど。応えられない理由がある。彼からしたらなんでそんなにって思われてるんだろうか。



「働かせてもらえてるだけで充分なので。」

「俺は別に気にしねぇ。」

「私は気にします。」

「本当に気にすんな、って言ったところで気にするよな…なまえさんは。」


諦めにも似たため息を吐きながら頭を掻いたショートさんは本当に心配してくれているような声色で、そう続ける。しばしの沈黙を貫いてから、小さく分かったと呟いた。私が譲らないことを、わかっているからこその返答だった。

遠慮しているから、彼に悪いから住み込むという選択肢を選ばない訳ではない。私自身の問題である。それすらもきっとショートさんには見抜かれているんだろうけど、それでも断り続けるのには相応の理由があって。



(これ以上、優しくされたくないし。)

先立つものが少ないに越したことはないと思っている。丁度15年前の今頃、家族が私のせいで全員亡くなった時も同じことを思っていたような…私が天涯孤独になったのも同じ頃だったかな。

ただ生きていけるだけで満足だと思っていた。途方もない寂しさには慣れているし、そもそも独りで生きていくことが私には相応しいのだから。だからこそ、これ以上私の為に優しいあの人の心を割かないで欲しいんだ。


「今でもすごく恵まれてますから、気にしないでください。私なら大丈夫です。」


本心じゃないくせに。慣れてる、と思ったところで本当は寂しくて仕方ないのに。それでもこうやって強がるしかないのは、紛れもなく自分がこれ以上傷つきたくないからなんだろう。私は控えめにそう言って、ショートさんに笑いかけた。










ーーーーーーーーーーーーーー


どの道きっと、私はろくな死に方が出来なさそうだと、諦観し始めたのは果たしていつからだったか。寂しい心中を代表するように、家族で過ごした家の中には今は必要最低限のものしか置いていない。その家に今日も明日も毎日帰宅していると、だんだんと感覚が麻痺してくるのはやはり否めないことなのだろう。


「はっ、は………っ、」

どうやら首を強く締められてようやく恐怖出来るほど私は麻痺していたらしい。目の前の暗い目をした男は不気味に笑いながらその顔を近づけた。唇が触れそうになり、無意識に苦しい呼吸を無視して顔を逸らすと男は更に嬉しそうに粘着質に笑う。喉の奥から出てくるのは掠れた悲鳴と喘鳴のみ。

嫌だ、怖い、死にたくない、そんな感情が次から次へと溢れてくる。


「ーーひっ!」

「ちゃんと大人しく、死んでくれよ……?」


ただ、仕事を終わらせて夜道を歩いていただけだったのに。何もわからないままま暗い路地裏に連れ込まれたかと思えば、次の瞬間には壁に押し付けられ首を締められていた。
ヴィランであることは一目瞭然。多分結構な人数を襲っているのだろう。手馴れた手つきですぐにでも命を奪おうとしてくる目の前の男は、どこまでも私を殺すことを諦めるつもりは無いようで。


どんどん込められる力に、浅かった呼吸が増して苦しくなってくる。怖い、嫌だ、そう思ったとしても、ここで殺されると分かってしまった私には抵抗することも出来ない。

ろくに償いも出来ないまま死んでしまうのかな…いざ現実に直面すると、あれだけ諦めていた人生に対してこんなにもまだ未練があったとは…と、ふと気付く。

私を支えてくれたショートさんにすら恩返しも出来ずに死ぬのか。しかもまさか、家族と同じようにヴィランに襲われて死ぬことになるなんて、なんて因果なのだろう。

こんなことになるならば大人しくショートさんに従っておけば良かったのかもしれない。ああ、でもこういう風に死ぬのならそれもきっと仕方ない。ひと足先にあっちに向かった家族が私を恨んでいるに違いないのだから。


(ごめんなさい、ショートさん)


私のこと、せっかく心配してくださったのに。感謝の言葉さえまともに言えないまま居なくなることになりそうです。




全てを諦めて目を瞑ったその時、耳が拾ったのは僅かな焦りを伴った息遣いで。直後私の首を締めていたヴィランが瞬く間に凍りついた。



「ーーーーっ!?」


氷の向こうの誰かが何かを叫んだような気がする。ぴんと冷えきった空気の底で美しい氷の結晶が震えて落ちる。殺されると覚悟を決めた、その瞬間…何故か私が殺されるよりも早く、目の前のヴィランは氷像になっていた。

誰が助けてくれたのか、なんて姿が見えなくても分かる。こんなことができる人なんてあの人以外考えられない。恐怖で竦んだ足がうまく動いてはくれないが、それでも懸命に手を伸ばす。


こんな私が名前を呼んでも良いのだろうか、向こう側から駆け寄ってくるその人物の名前を。




「ショートさ」

「なまえ、ーーー!」


駆け寄った傍から力強く抱き締められた。我に返りながらも事態を飲み込めず呆然としていると、不意にショートさんは更に私の存在を確かめるように力を強めてくる。幾度も私の名を呼ぶ声に導かれて、思わず彼の背に手を回しそうになった。
ほう、と吐き出される吐息がふわりと空間に白く広がって消える。赤の絹髪の間から見える霞んだ向こう側には見事に凍りついたヴィランの氷像。それは刮目しながら屹立していて。きっとショートさんの姿を見て驚いた拍子に逃げる間も無く凍らされたのだろう。


「ショー、ト…さん。」

「……、か…ら」

「え?」

「…俺がもし間に合わなかったら、どうするつもりだったんだ。」


しばらくの間ショートさんは無言で立ち尽くしていたが、私が困惑しながら名前を呼んだ後、ようやっとして、といった感触で彼は小さく呟いた。怒気より安堵の方が正しい声色で。むしろ叱る、というよりは諭すと言った方が正しいかのような言葉で。引き続き込められる遠慮がちな力は、離さないとなおも物語っている。

抱き締められるような間柄じゃないのは当然なのだけど、それでもショートさんは一向に私を解放しようとはしない。


「頼む、なまえ…」


不意に後頭部に回された大きな手のひらがゆっくりと髪の毛を撫でていく。ぞわりと背中が粟立った。温もりに縋りつく子供のように、子供ではないその人の声がすぐ近くで響く。


「頼むから、」

「………、」

「傍に居てくれ……。」


涙が溢れて止まらなかった。どうするのが正しいことなのかが分からなかった。何故こんなにも涙が溢れるのかなんて、分かってる。怖かったんだ。死ぬことに対してもそうだけど。何よりもこの人の手を取ってしまいかねない私が。彼の手を取るということが果たして何を意味するのか、分からないほど子供じゃない。

彼はけして言葉にはしなかったけれど、それでも空気から態度から、伝わってくる感情の名前はまさしく


「ショートさん、わたし…」

「……あぁ、」

「わたしは、」



応えられないのに、応えてはいけないのに。
私が縋り付いて良い人ではないのに。



「どうしたら……いいですか。」


それでもこの人に答えを求めてしまうのは、我ながら酷だと思う。ショートさんは口を固く閉ざしたまま少しだけ私を抱きしめる力を緩めた。助けられてから初めて、ちゃんとその表情を見た気がする。ショートさんは今にも泣きそうな顔をしながら、私の頬に手を添えた。


「俺を、選んでくれないか。」


好きだ、その言葉がぽつりと一言。同時に涙が一筋頬を伝う。瞬きを幾度かした後に温かい彼の手が頬を拭った。とても、とても優しい手つきだった。

嫌だと彼に言えたなら、きっとなまえとして求められる正しい人生の道を辿れるのだろうけど。私には最早それが正しいことなのかどうかすら判断が出来なくなってしまっている。眼前には迷いなく迫る整った顔、もうすぐ唇が重なってしまうだろう。拒絶するなら、今しかない。今しか、


「好きだ、なまえ。」


「っ、」


しかし虚しくも私は逃げなかった。

やがて重なる唇。息を呑み瞳を目いっぱいに開く。

寂しさに耐えきれなくなったから、許しが欲しかったから、…理由はきっとどの答えも正答には当てはまらないのだろう。ああ、やってしまった…と手遅れの感情を置きざりにして、尚も私達は深く口付けを交わす。後悔してももう遅いとわかっている。覚悟も伴わないままに交わした口付けはどことなく痛くて、切なくて。


背後の氷像がバキンと歪な音を立てて割れる。責めるような氷像の視線から目を逸らし、私はついに広い背中へと手を回す。今この瞬間、私は確かにいずれ壊れゆくだけの楽園を捨てた。不思議と後悔はしていなかった。


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