Kiss me



女の子なら誰しも一度は夢見たであろうマリッジリング。将来の夢はお嫁さんなの!と無邪気に村の女の子達と語り合っていた頃が懐かしい。ああ、思えば私も大層荒んだものだ。薬指に輝く婚約指輪は相も変わらず強情に私の指に居座っていて、

「はぁ……」

思わずため息が出た。


おまじない程度に、効くかどうかもわからない呪文を指輪相手に唱える。ボソボソと小さく唱えたと同時にぱっとオレンジの光が不思議な紋様を描いて空中に現れた。

おっ、意外と効きそう?

なんて淡い期待を抱いたのも束の間のこと。

青白いトドロキ家の紋章が、不意に指輪の上に出現するや否や、それが一層眩く光った瞬間に私の描いた魔法陣が粉々に弾けて消されてしまう。


「………ハァーー。」


やっぱダメかぁ…そうだよね。じゃあこの本に載ってた解呪の呪文もダメ、と羽根ペンを手に取り千切れた紙に本のタイトルを書いて線を引く。ダメになった本はこれで何冊目だろうか。



折角エンデヴァー公から「指輪の解呪方法を見つけるまでショートの護衛はしなくていい。」と物理的なショート様からの隔離も兼ねて約2週間ものお公休を頂いたのになぁ。この調子じゃ休みをまるまる無駄にしてしまうかもしれない。


一時的なお役御免とはいえいつまでも主を放って置きたくない反面、今はあのお方の熱が覚めるまでは近付きたくないと思う自分もいて。

だって何されるか分かんないし。ただでさえもこの至極面倒な指輪を嵌められてるのに、またあのお綺麗な相好で迫ってこられたら……今度こそ“陥落”してしまうのではないだろうかと私はここ最近ずっと怯えっぱなしだった。あれだけ盛大に親子喧嘩を繰り広げられた手前、それだけは避けねばなるまい。危機感だけが山の如く積のっていく。


指輪を嵌められてから早3日。図書館に籠ってからは2日かな。指輪については一向に変化はない。指から抜けない、という以外には普通の指輪だった。指から抜けない時点で既にマズいことになっている様な気もするけど、逆に何も起きないに越したことはないと思うのには理由がある。


この指輪は嵌めたものを試すらしい。その試練とはただ武術的なもの、魔法的なものじゃなく、真実の愛を試すとかいう酷く抽象的な内容の試練を課してくるんだとか。

しかもいつ試練が課されるのかも、試練内容もまるで分からないらしくて。特に何もしてないのに気付いたら試練をクリアして晴れて婚約者として認められていた、ということも過去起きているようだ。それがより一層事態の対処の難しさを加速させる。


「指輪を嵌めた者が出た以上は、外すまで他の者と婚約させられん。貴様は指輪の解呪を急げ。ショートにはとりあえず他の護衛を見繕っておく。」

「かしこまりました、仰せのままに。」



婚約指輪を嵌めた者が試練をクリアするか失敗するかして指輪から解放されない限り、新たな婚約者は選ばれないらしい。仰せのままにとか、大見え切っちゃった以上何とかして解呪するなり試練に失敗して外すなりしなければ私の明日はどこにもない。


「さて、次はどの呪文にしようか…。」


さっさと外して屋敷に帰ろう。外してさえしまえばショート様も次期に諦められるだろう、そうすればこの埃っぽい王立図書館からもおさらば出来る。
図書館は好きだけど流石に2週間もずっとは居られないし、聡明なショート様のことだから直ぐ私が図書館にいることを見抜いて探しに来てしまうかもしれない。


机に山積みにした本の一つを手に取って、ページを捲る。それなりに強そうな破魔の魔法が載っていた。よし、次はこれを試してみよう。早速呪文を唱え指輪に触れてみると魔法陣が僅かな熱を帯び始める。お?今までとは違う反応だ……今度こそいけるかも…!



「頑張って新しい魔法!」

「何してるんだ?」

「はい?指輪の呪いを解いてる最中です。どなたか存じませんが取り込み中ですのでちょっとあっちいってて下さいませんか?」

「……つれねェな。」



やっと見つけたのに、と耳元で聞こえた気がした。え?と間抜けな声が自然と漏れて、声の方向を思わず振り返る。今の声はそういえば一体誰だろう、なんだろう、気のせいじゃなければ我が主の声だったような……。


集中してて気付かなかったけど、振り返ってみれば何故か肩に後ろの人の手が乗せられていた。困惑する私を置いて、不意にもう片方の手がゆっくり伸ばされ、左手に鎮座していた指輪の上に重ねられる。


「……ちょ、待ってどちら様ですーーー、」


なになに?何事?なんて考えると同時に、ぱちんと弾け飛ぶ思考。

「ーーか、……」


視界に入るのは艶めいた睫毛のみ。次いで馴染みある香りが鼻腔を突いていった。
愛おしげに閉じられた切れ長の目尻が少しずつ開かれて、オッドアイの瞳と至近距離で視線がかち合う。

さっきからもう“え、なんで…え、何故ここに?“としか浮かんでこないさっぱりな頭はこの際置いておくとして、ほぼ反射的に私は机の上の本を数冊引き摺りながら椅子から転げ落ちた。

「あわわわわ、ショ、ショート様!?」


頬に触れた唇の柔らかさなんて、知らない。ましてや肩に回していたはずの手が顎に回って、頬に触れていたはずのショート様の唇が、次は私の唇に触れようとしたことも。

この際なんでここがお分かりになったのかなんて、野暮な質問は無しにしよう。私は何も知らないし見ていない、だから気の迷いは今すぐやめて下さらないだろうか。


「な、なりません!!」


慌てて彼の御方の迫ってくる両肩を押し返し距離を取る。椅子から落ちた拍子にお尻を強打してしまった。しかし痛いけれど我慢するしかない。
臣下という矮小な存在に熱を上げている我が主は、これしき程度の拒絶で退くわけがないことを私は知っているのだから。


「なりませんショート様!」

「……。」

「聞いてらっしゃいますか!」

「ワリィ、つい。」

「つい!?」


床に膝をついて、私の高さに合わせて屈んで馬乗りじみた体勢になったショート様の長い御御足の下で精一杯の叫びを上げる。ご丁寧に私のローブは踏まないように避けてくれてはいたが、そういう問題じゃない。

つい、ってなんだつい、って。


「頬にキス出来たんなら唇にしても、今なら怒られねェんじゃねえかと。」

「えっ、そんな訳無くないですか。」


つい、そんな出来心で私はファーストキスを奪われかけていたのか。

そろりと表情変えず上から退いて立ち上がったショート様につられて手を引かれ、とりあえず立ち上がる。床に散らばった本の様相を一瞥し、ため息を吐いた。

あーあ、貴重な本が…装丁傷んでないといいけど…。しかも大声で騒いでしまったし、怒られるかな?と辺りを見れば幸か不幸か、本棚の陰に隠れた机に座っていたからか殆ど周りに人は居なかった。

安堵のため息と同時に、取り急ぎ落としてしまったいくつかの本を机の上に戻す。ショート様も倒してしまった椅子や散乱した書類をまとめて現状復帰してくれている最中で。流石にちょっと悪かった、と思ってくれているのかもしれない。


「もう、いきなり驚かせないでくださいませ…他の方のご迷惑になりますから。」

「悪かった。」

「分かってくだされば良いのです。………あっ、指輪!」


一通り現状復帰を済ませた後、ふと我に返って唱え途中だった呪文を思い出す。そういえばちょっと効きそうな雰囲気出てたけど、アレどうなったかな?

ローブの袖をたくし上げ、隠れた指輪を見てみると割れた魔法陣の破片が空中にキラキラと漂っていた。申し訳なさそうに無惨に割られた魔法陣は最後の一息のように輝き、そして沈黙する。
もしかしてやっぱりダメだった?それとも詠唱中断したから途中で消えてしまった……のかな。


「ダメかぁ…。」

「それ、もしかして外そうとしてたのか?」

「エンデヴァー公の命ですからね。」

「……あのクソ親父。」


何度も聞いた悪口が、その美しいお顔から飛び出す度に心臓が縮む。きっと次に飛び出す言葉は「文句行ってくる」か「そんなに結婚すんの嫌か」のどちらかに違いない。どうせそのどちらかに相場は決まってるんだ。諦めきれずに指輪を強く引いてみるがそれでも指輪は抜けなかった。



「そんなに俺と結婚すんの嫌か。」

(ほら来た…。)

強く引きすぎて痛む薬指にそっと諌めるかのように白魚の如き滑らかなショート様の指が触れる。外すな、と暗に示されているのだろうか。まっすぐに見つめてくる主の顔はやはりどことなく悲しげだ。

お願いだからそんな顔をしないでショート様。貴方の望むことならなんだって叶えてあげたいと思うのが我々臣下の常なのです。



「前も申し上げました通り、感情論云々では無いのですショート様。」


重ねられたショート様の手を降ろしながら、私は主の足元に傅いた。今まで彼の目の前で傅いたことなど一度もなかったが、今だけは明確に意思を持って跪いていた。

感情論では済まされないのだと、本当はとうに分かっているはずだろう。私の知るショート様はいつだって完璧なお方だ。だから、分かってる筈なんだ。


「私は、貴方様の臣下です。」

「…ナマエ、俺は」

「たかが私の様な一臣下にショート様の大切なお時間を無駄にさせるわけにはいきません。」


ショート様は私のその一言を聞いた刹那、一切れ長の目尻を一瞬歪ませて、その後俯いた。互いに重く閉口し、不意に辺りが静まり返る。暗い影を下ろした目元の表情は一向に伺えない。それが一層私の罪悪感を煽って思わず謝ってしまいそうになったが、何とか堪えた。私も、ショート様も悪くない。悪いのは運、それのみに尽きるのだから。


少しだけ胸が痛い。言いたくないことを言ってる自覚があったからこそ余計に痛むのだと思う。数年お仕えした中で、最初こそ嫌々護衛をしていたけど、気付けば命に変えてもお守りしなければと思い始めた自分がいた。


「私にとって、ショート様は私の命より大切なお方なのですよ。」


本心から出る言葉だからこそ、伝わるものがあると思う。ショート様は変わらずだんまりを決め込んでいて。ああ、少し言い過ぎちゃったかな…。いや、他の誰でもないショート様のことを思えばこそ、間違った道を正して差し上げるのもまた臣下の勤めだろう。

何も言わない主の二の句を静かに待ちながら、自分自身の心の中の無けなしの鬼を奮い立たせる。全ては主人の為なんて都合の良いことを言って免罪符にしてる、ということには見て見ぬ振りをした。しばし流れる沈黙の果て、それを破ったのは少しだけ怒っている様な雰囲気を纏った我が主の声だった。


「生憎だが、俺もお前より大切なもんなんてねぇよ。」


「………へ、ショート様……何て?

ーーーー、ッ!痛たぁ!」


怒気を孕んだ声色。主はどうやら珍しく怒っている様子で、それはそれは低い声で呟いた。
肝心な部分が聞き取れず聞き返した瞬間、腕を強く引かれて無理やり立たされる。それだけでも私に取ってはかなり驚く事象だったのに、彼にとってそれだけでは私に積のっていた怒りは収まらなかったらしい。何度も言うが、ショート様は結構怒っているようだ。


「い、ひゃい!!」

涙目でショート様の顔を見遣る。主は涼しい顔をして自らの唇を拭った。私は慌ててローブから鏡を取り出し自身の唇を確認する。結構痛かったんだけど…怖々鏡を見ると下唇が見事にぷっくりと紅く染まっていた。出血は幸いにもなかったけど、これは腫れるかもしれない。


「なんてことをなさるのですかぁ!!」

恐ろしい事実。唇を、噛まれた。ショックがデカい。それはもう、二度と忘れられない出来事になるくらいに。


「婦女暴行です!器物損壊です!」

「そんなに強く噛んでねぇだろ。」

「唇は痛いんですよ!」


大事なのは、ファーストキスを今度こそ正真正銘奪われたこと。でも、今の私には噛まれたのが割と痛かった、ということの方が重要で、そして派手に憤っていた。


「酷いですショート様!」

「酷いのはナマエの方だろ。全てはショート様の為みてえな顔しやがって。」

「う。」

「そうやって俺のせいにして、自分が傷つきたくねぇだけだろ。」

「そんなことはっ!」


ない、と果たして私は言いきれるのだろうか?ショート様に抱いている感情は、主として命に変えても守りたいというものだけ。それ以外の感情なんてありはしない、はずなのに。じゃあなんでこんなに求婚されて満更でもなくて嬉しく感じてしまうの?


「って、絶対流されません、から……!」

「……そうかよ。」

「トドロキ家に仕えるものとして!ダメなことはダメと言わせていただきます!」


掴まれた左手が熱い。もう慣れてしまいそうな顔の近さも、何もかも取っぱらえたらどれほど楽だろう。


「言っとくけど、お前を諦めるなんて選択肢はねえぞ。何処に行っても探し出すからな。」

「う、じゃあ私はショート様の為に最高のご令嬢を探しだして見せますから!」

「好きにしろ。」


おかしな宣戦布告だと我ながら思う。しかし今更退けないのだ。もうそもそも居場所が即バレしていることも、ファーストキスを奪われたという重要な事も頭から気がつけば無くなっていた。

決めた、こうなったら私のことを諦めてくれるまでとことん開き直って付き合って差し上げますよショート様。いつか必ず一枚上手の貴方様にギャフンと言わせてみせます。だって恋とはいかなる時も惚れた方が負けるのだから。


噛まれた唇がちょっとだけ腫れ始めた頃、私の代わりに護衛を任されていた警備兵数名が漸く主人に追いついて探しに来たところを「守るべき主人に馬術ですら撒かれてどうするんですか!!」と激怒したのは、また別の話。

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