結婚、それは愛し合う男女が未来永劫そばにいることを約束し合う誓いである。しかしあくまでもそれが当てはまるのは我々のような一般人でしかなく、少なくとも私の目の前で薬指に優しく唇を落とした我が主のような方には当てはまらない。
そう、当てはまらないのだ。
だから例え私が国中探しても見つからないレベルの召喚術の使い手だろうが、その強さを認められ、敬意と畏怖の念を込めた伝説の大召喚士と過去呼ばれてたことがあろうがそんなことは関係なく、そもそも私のような者が結婚していいお方じゃないんです。
貴方様に相応しいのは可憐な雛菊のようでいて、横顔は凛々しく聡明でまさに天からの思し召しのような…良家の御息女様なのですよ。
だから手を離してくださいませ。
私はしがない雇われの護衛でしかないのです。ショート様のご寵愛を賜るのは私でなくとも良いでしょう。だって貴方様は領主の御子息なのだから。跡継ぎである以上政略結婚は避けられない運命なのだから。お可哀想だとは思うけれど、それは仕方ないこと。
だから手を離してくださいませ、お願いですから。本当こんなことになってるのがバレたら私がエンデヴァー公に怒られるんだよ…!
「いい加減にしろショートォォ!!」
屋敷は今日も元気だ。今日も変わらずエンデヴァー公の健やかな叫び声が響いている。大声量の怒声に縮み上がった私はじめ臣下達は皆揃っていたたまれない顔つきだった。ただ息を潜めて、存在を悟られたくないとでも言うような、そんな面持ちだった。
それもそのはず、なぜなら隣の部屋でエンデヴァー公が物凄い剣幕でショート様に詰め寄っているから。……他ならぬ、昨日屋敷に戻るやいなや「親父の思い通りにはならねぇ、俺はナマエと結婚する。」宣言をしたショート様と、題に出された私の件で。
(あぁぁあぁ、絶対私悪くないから!関係ないから!ほんと知りませんからぁあ!)
なんでこんなことに巻き込まれなきゃならないのだろう。なんやかんやあったけど、それでも平穏に暮らせると思っていたのになぁ。悔やんだところで残念ながらよりによって仕えている主君に見初められてしまった自分自身の運の悪さを呪う他ないのである。
「何が、そんなに不満なんだ!!」
「全部に決まってんだろクソ親父。」
「俺の顔を見て答えろショート!何がだ、何が気にくわん、顔も素養も才能も全部完璧な良家の娘だぞ。何故勝手に追い返した!」
「しつけェな。俺はナマエ以外と結婚するつもりなんざねぇよ。」
「家出をやめたかと思えば…駄々を捏ねるのも大概にしろ!お前は俺の跡を継ぐべき…」
「埒があかねぇ…、それよりナマエは何処行ったんだ?」
壁が薄いってのは難儀なもので。丸聞こえの親子喧嘩に図書館に引きこもって気配を消したはずの一同が、即座に私へ視線を向ける。
その目は一様に“可哀想に”と私に向けて物語っていて。こんなにも目が口ほどにものを語ることって、あるんだね。
不意に名前を呼ばれてしまったことが、緊張感マックスの臆病な精神を揺さぶる。え、何でその雰囲気でTPOガン無視の私の名前を出すの。エンデヴァー公余計怒るじゃん。
「話の途中だぞショートォォォ!!」とエンデヴァー公がまたもや叫び、すぐ様執務室の扉が乱暴に閉じられる音がした。伺うに、ショート様が苛立ちながら部屋を出たのだろう。エンデヴァー公の話を中断して。
ドスドスと足音から怒気が滲んでいるような雰囲気で、エンデヴァー公がショート様を追いかけていく。廊下で喧嘩が再開され、より近くで二人の会話が聞こえ始めた。
「おい邪魔すんな。」
「いいか、お前は俺の跡を継いでこの広大なエンデヴァー領を治めるんだぞ、その妻として選んだ女がよりによってアレとはどういうことだ!!強者として付き合う人間は選べと、あれほど言っただろう!」
「うるせぇ…アイツのこと悪く言うんじゃねェよ。」
(え、私のことアレって言った?)
通路越しで盛大にディスられることになるとは。気付けば最早聞き耳を立ててしまっていた自分を殴りたい。エンデヴァー公が背負う領土と国からのプレッシャーを考えると、ショート様の為に完璧な婚約者を宛てがわねばと考えるのも確かに分からなくはないが、それにしても中々清々しいクソ親父っぷりだ。
というか私のことアレって言った?
「ナマエさん、顔怖いです。」
「すみません、ちょっと色々理解の限界が来ておりまして。」
「心中お察ししますよ…ってアケミちゃん出ちゃってます、しまってください!」
最初の喧嘩が始まった時、私を図書室へと匿ってくれた領土警備兵が小声で慌てふためく。見れば杖の先から中途半端にアケミちゃんの美しい彩羽が飛び出していた。杖を折れんばかりに握りしめていたら、うっかりアケミちゃんを喚んでしまっていたらしい。
「あっ、やばっ」
「クエーーーーッ!!」
「ちょっ、」
息を潜め図書館に隠れていた面々に緊張が走る。アケミちゃんの雄叫びは私が召喚を中断して彼女を異界に戻すより早く屋敷中に響き渡ってしまった。今のアケミちゃんの咆哮で、多分私の居場所がバレてしまっただろう。それはもう間も無く私を探しに来るショート様とそれを阻止しようとするエンデヴァー公がこの部屋に突入してくるということを意味していて。
すぐ様通路から、訝しむような声が聞こえ始める。あー、やっぱりバレた……。
「なんだ、今の声は。」
「アケミの声…隣の部屋か。」
「待て、どこへ行くショート!」
心なしか軽く、素早くなった足音がどんどん近づいてくる。それから怒気を孕んだ重苦しいエンデヴァー公の足音も。
音につられてみるみる真っ青になる顔面。血の気が勢いよく引いていく。棚を挟んで対角にいる掃除のおばちゃんも、私と同じように真っ青だった。
「ここにいんのか?」
(もう来た………。)
想像よりも早く図書館の扉が開かれた。ばくんと心臓が跳ね上がる。どうしよう、ここで隠れているわけにも行かないけれど、それでも萎縮した小さな心臓は“行きたくない”と頑なだ。
「ナマエ?いるのか?」
「………。」
「…?ナマエ、いるんだろ?」
「はい、ショート様、こちらに…。」
結局のところはなるようにしかならない。頑なな足を何とか奮い立たせて前へと出れば、我が主はそれはそれはとても幸せそうに笑った。
薄暗い図書館の中、僅かに射し込んだ日差しが、高貴なお方のお姿をちょうど照らしている。視界に広がる光景はまるで神聖な宗教画みたいだ。相変わらず我が主は神秘的なまでに美しい。
後光を背負って歩み寄ってくる主の次の言動をなんとも言えない顔で待ちながら。ショート様のお姿が眼前まで迫って来るごとに荒くなる呼吸。頬に熱が集まって醜く赤面しているのが分かる。
こんなんじゃ駄目だ、こんなんじゃあっという間に流されてしまう。そう思うのに。
あまりにも幸せそうな笑みを浮かべた主と目が合ってしまって、思わず無意識に後ずさったが、やはり行動するのが少し遅かったようだ。主は逃げた私の手をふわりと捕まえて優しくワルツへとエスコートするかのように戸惑う腰を引き寄せた。
「ひぇっ!」
「こんなとこにいたのか、何処にもいねぇから結構探したぞ。」
「ショ、ショート様!」
「なんだ?」
「後生ですから私と婚姻など、お考え直し下さいませショート様!」
顔は引き続き真っ赤、オマケに心音はとても早い。考え直してと懇願した私の顔は、主から見たら中々説得力の欠片も無かったんだろうなぁと他人事のように夢想する。
しかしこのまま腕の中に収まり続けていてはいずれ此処にたどり着くエンデヴァー公の堪忍袋の緒をぶち切ってしまうので、仕方なく背中に回された腕から逃れるために身を捩り、近すぎる顔を逸らした。
たとえ主であるショート様相手でも、今だけは心を鬼にしてそれなりの力で押し返さなければならないのだ、それは勿論他ならぬ主の為を思うが故。
だって私なんかと結婚なんぞしようものなら、それこそ多方向からありとあらゆる矢尻が飛んで来かねない。そんな目にショート様を合わせるわけにいかないのである。
仕方なく押し返してみれば、案外すんなりとショート様は私を解放したものの。しかしその顔は何故か名残惜しそうに眉を下げ歪んでいた。
「お前までそんな風に言うんだな…。」
「っ、私だって貴方様にこの様なことを申し上げたくは無いです…!ですがどうか、どうか分かってください。」
惚れた腫れたの感情論で済まされないのが貴方様であるわけで。こんなことが許されるような身分でないことなど、とうに自分自身も痛いほどわかっている。だからこそ心を鬼にしてこうやって拒み続けていると言うのに。
しゅんと頭を垂れて絹毛を揺らすショート様。あぁ、お可哀想に。私だってショート様には好きに生きて欲しいし出来るなら結婚して差し上げたいよ…!でも無理なものは無理なんです!
「俺と結婚するのがそんなに嫌なのか?」
「そっ、そんなはず無いに決まってるではないですか!ショート様の様なお方と結ばれるなんて、全世界から祝福されたとしても足りないくらいの幸運です…!」
「じゃあ何も問題ねぇな。」
「……へっ?あ、いやその、」
さわりと伏せられた物憂げな睫毛に見惚れていたのも束の間。……なんか思わず売り言葉に買い言葉で勢いよく変なことを口走ってしまった様な気がする。言ってはいけない一言を、言ってはいけないお人に言ってしまったような。
私の件の発言にショート様がふとセノーテブルーの瞳に光を灯した。開かれる瞼と美しく透き通った目尻が対照的に顰められた私の目を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「結婚しようナマエ。」
「あっあの…ですから私はーー、」
「あぁ、やっぱこの指輪が良く似合うな。」
「…………え?」
何故このお方は私といるとこんなにも幸せそうに笑うのだろう。前後不覚の私にはもう何が何やら分からない。
ただすっと一瞬の間に意識の隙間を縫って辿られた指先。そこにキラリと見たことも無いような綺麗な色を讃えた宝石の指輪を嵌められてしまったことだけが不覚だった。
この指輪は一体どこから現れたのだろう。指輪を嵌めた張本人は目じりをやんわりと丸めてご満悦げな表情を浮かべている。その顔から意図は読めないが、あまり良くない方向に物事が転がっているであろうことだけは何となく雰囲気から理解した。頭にたくさんのハテナが浮かぶ中、嫌な予感しかしないその指輪をとりあえず良くよく眺めてみると、美しい光を放つ宝石からは見た目に反して強力な魔力が伺える。
……え、なんで指輪なんかに魔力が?しかもこの感じ、呪い系統の魔力っぽいし。引き続き指輪の細部を注視してみれば石座の部分に小さくトドロキ家の紋章が描かれている。
どうやら婚約指輪のようだ。
「………。」
脳裏に浮かぶ嫌な予感。
以前お手伝いさん達としたトドロキ家に代々伝わる婚約指輪は一度婚約者として選ばれてしまうと何故か嵌めた側から途端に外れなくなってしまうという、呪いの婚約指輪にまつわる与太話を、よりによって今思い出してしまうなんてツイてない。
そんなことって、あるわけないよ。
そんな非現実的な不運なんて。
薬指にきらめくその指輪にもう一度視線を落としてから、私は恐る恐る口を開く。
「これ、は…まさかとは思いますが、」
「あぁ、俺ん家に代々受け継がれてる婚約指輪だ。」
「はい?」
「婚約指輪。」
ああもうダメだ頭が痛い。文字通り私は膝から崩れ落ちる。ショート様の言葉を聞くや否や、辺りに隠れていた使用人の殆どがあまりの驚愕に大声を上げて近寄ってきたけど。「ナマエさんしっかり!」って慰めてくれてるけど。薬指に嵌められた指輪を抜こうとみんな必死に引っ張ってるけど。残念ながらこういうものは抜けないの、そういう風に出来てるんだ。
そう考えると世の理って偶に驚くほど残酷だよね。あーあつくづく笑えない。