Absolute zero



「貴様の話だ、貴様が決めろ。」

「お、お言葉ですが、エンデヴァー公ーー、」

「貴様のような小物ひとり、逃がしたところでハテノの治世には何の影響も出んだろう。」

「おっしゃる通りではございますけれども…」

炎を湛えた髭、精悍な顔つき。我が主ショート様のお父上であるエンデヴァー公のご面前でこうやって言葉を濁すのももう、ある意味手馴れたものだった。

私が先刻大慌てで中身を確認し、そして無意識に握りしめた書面に書かれた文言を再度口にした先程のエンデヴァー公の毅然たる物言いが、何度も頭を巡る。それはもうぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。


「悩む理由が今更あるのか。」

「…………。」

「まあ良いだろう。出ていくなり、居座るなり好きにすればいい。」


悩む理由なんて、あるに決まっている。でも、エンデヴァー公が思い描く理由と、私が実際に悩んでいる理由の間にはきっと埋められないほどの差があるのもまた確かだ。
それだけ告げてから、「用件はそれだけだ、下がれ。」と現領主は言う。私はその言葉に無言で傅いて、とぼとぼと部屋を後にした。パタン、と静かな扉の閉まる音は物悲しいというほどではなかった。けど、それでもどこか虚しさを覚えてしまったのは、何故なのだろう。




指輪が私の手元から、あるべき場所に戻って数日後。私の元へ一通の書簡が届いたのはそのすぐ後の出来事だ。

朝イチでエンデヴァー公から呼び出された時には、正直生きた心地が本当にしなかったけど、意外にもご領主が私に開口一番告げたのは「貴様に隣国の大公から書簡が届いているぞ。」という一言だった。

実は私にはいずれ起こり得るだろうと予期していたことがある。頭の片隅にいつも置いていたそれは、このハテノ地方に偶然舞い降りたその時から……いや、一人で国を飛び出した瞬間から、ずっと付き纏っていることで。

隣国から書簡が届いている。その言葉を聞いた瞬間、ああ、ついに来ちゃった…と、書状を見るまでも無く目の前が重く、暗くなった。
だって、そこに書いてあることなんて簡単に想像がついてしまうんだもの。
今こそ数年来の約束を果たせと、そんなことが仰々しく書いてあるに違いない。私はもう一度手の中にある手紙を握りしめて、どうにもならない事態に奥歯を噛み締めた。
どうすることも出来ないのに、それでも足掻こうと頭を回してしまうのはやはり他でもない主への未練から、なんだろうな。


旅に出る前、私は件の隣国お抱えの召喚士として隣国を治める大公の側近で様々な役割に従じていた。
たとえばドラゴン族との和平調停に同席したり、近隣諸国との国境攻防線に参加したり、時には適度に威嚇攻撃をしたり……と、まあ色々言えないようなことをしていた訳なのだ。
莫大な研究費用を投資してもらうことと引き換えに、隣国にいる間は決して他者様に誇れることだけをしてきたとは言いきれない。無論自覚もある。

ただ、どうしてもそれがキツくなって、ある日私は旅に出たいと大公に申し入れをした。そして大公も、ある条件を私に呑むよう取り決めた上で、私の流浪の旅を許可してくれた。それは私がショート様にお会いするより更に前の、丁度今頃だったと思う。


「はぁ……、流石に拒否できないなぁ。」

ナマエ・ミョウジ殿 貴殿に召集を言い渡す。

デカデカと大公直筆の文字が初っ端から現れた書状を一目見てから、エンデヴァー公は私の正体を知ってなお“好きにしろ”と仰ってくださった。国に帰っても、ここに居てもどちらでもいいとそう仰ってくださったのはエンデヴァー公の優しさだ。それは分かってる、けれども。

(私の一存で決められることじゃない。)

これは私と隣国の大公の約束事項である。何故なら数年前の明くる日、私と大公の間で取り決めた約束っていうのが、「数年間お前がどこで何してても見逃すけど、召集!って言ったら絶対に一回戻ってきてね。」というものなのだから。

言うなれば強制、拒否は出来ない。この書状が私の元にたどり着いたその時から、もう事態は動き出している。


ああ、帰らなきゃいけない、あの国へ。しかもショート様を放り出して。起きてしまった事象はどうあがいても変えられないのだから。
思い知る度に普段のようなエンデヴァー公に怒られる前の時間とか、ショート様の無茶ぶりを何とか叶えようと奮闘している時の憂鬱な気分とは比べ物にならない苦しさが渦を巻く。

(帰ったら、二度とお会い出来ないのかな……)


同じく二度と私の手元に戻ることもなかった結婚指輪を思い出しては、それさえもズドンと心に深く落ちていった。何で指輪外れちゃったんだろう……、もしかするとこうなることを予期してたのかも。などと今更知ることも叶わないことを考える。また無駄に落ち込むだけなのに、それでも考えることを止められない。

覚束無い足取りで廊下を歩む。その背後から慌ただしい足音が響いて、階段を駆け上がってくるのが分かった。誰かがこちらに向かって来ているようだ。

結構な駆け足で、バタバタと音を鳴らすその足音の主が、こちらへ到達するまではあと数秒くらいしかないだろう。なんだろう、こんなセンチメンタルな時に。一体誰よと後ろを振り返ろうとしたその時、強い力で腕を引かれる。


「ナマエ……!」

「わっ、ショート様!?」


振り向いたそばからがくんと肩を掴まれた。刹那名前を呼ばれたことで、直ぐに駆け寄ってきた人物が我が主だったことに気づく。ショート様だ、ショート様が明らかに動揺しながら私の元へと駆けてきたようだった。

ちょっと待ってください、嫌な予感しかしないのですが。普段こういうことが起きる時は、大抵私にとってあまりいい方向にことが運ばない流れになるんだけど。
突然のことに驚き言葉も出せないでいると、僅かに息を切らせたショート様が私の返答を聞くまでもなく強い口調で話し出す。


「聞いたぞ、」

「えっ、何をーー、」

「行くな。」


酷く主語が抜けた切り口で言われたとして、突然のことでは理解するのに時間がかかってしまうのは仕方ないと思う。ショート様から開口一番告げられた、そんな確信めいた言葉に思わず心臓が飛び跳ねた。何の話ですか?と聞き返すほど全く身に覚えがない訳ではなかった、しかし如何せん心当たりがない。
だって、まだ主には何も告げてないのに、なんで急に行くな、なんてそんな。



「ショート様、いきなりどうなさったのですか。」

「しらばっくれるなよ、親父から聞いたぞ。戻れって手紙が来たんだろ?」


まだ告げるつもりじゃなかった事実。とりあえずしらを切り通してみようとしたのがそもそもの間違いだったらしい。でも、言い出せるはずもなくどうするべきなのか、自分でも答えを導けていなかった眼前の問題にまさか件の当事者が突如として飛び込んでくるとは。流石にまだもうちょっとバレずに済むかと思ってたのに。

「そ、れは……。」

やっぱり上手く転がらない。


「行くな。」

言い淀む私を他所に、今度は更に強く凛と張り詰めた声が確かな意志を持って行くなと呟く。肩に置かれた手が伸びてきて、不意に苦しいくらいに抱きすくめられた。
主に抱き締められたのなんて、数える程もないのに今は赤面することも出来ない。
いっそいつも通り頬を赤くして「おやめ下さい!」と反発出来てたら、まだ救いがあったんだけどな。


さよならはいつだって突然だと言うけれど、それでも何となく昨日までの騒がしい毎日が続いていくものだと思ってた。それが、こんな未練を引きずったまま別れることになるなんて。

結局、こうなってしまった以上は腹を括るしかないのかもしれない。



「ショート様、そのままで結構ですのでお聞きくださいますか。」

「……帰るって答えなら聞かねぇぞ。」

「それでも、お聞きいただかなければならないのですよ。よろしいですか?」

「っ、……嫌だ。」

「ショート様。」


私を抱き締める腕に力が込められる。言葉でも、行動でも、引き留められているのが目に見えて分かってしまうのがやけに辛かった。決して許されない恋を前に、心はもうとっくの昔に手遅れだったんだと思い知らされているみたいだ。

主が他の御令嬢とのご成婚を迎えてたら、きっと理屈じゃ済まなかったんだろうなぁ。なればこそ、今ここでさようならをするのは道理なのかもしれない。


「お世話に、なりました。」

「なんで、そんなこと言うんだよ。」

「本当に帰らなければならないからです。」

「そんなの無視すれば良いだろ…。」

「お聞きくださいませ、後生ですから。」


退いてくれない主の腕をそっと離そうとはしてみるものの、触れたそばから力を込められてしまうので、もう諦めた。肩に顔を埋めてそのままで会話をしていると、どうにも勘違いしてしまいそうだ。

ゆっくりと口を開き、思い出話をするように今回のことの経緯を少しずつ語り出す。不思議と心は話を進めていくとどんどん落ち着いていった。


「約束なんです、だから帰らないと。」

「………。」

「大公様は、恩人ですから。」


エンデヴァー公も、ショート様も、この領土に生きる人達は全てが私にとっては恩人になる。けれど、同等レベルで大公様にもお世話になったのだ。今更約束を破ってずっとショート様のお傍にい続けるなんてそんな虫のいい話が、許されるはずがない。

だから、帰らなくちゃ。不意に少しだけ緩んだショート様の両腕の中からするりと抜け出る。今主のお顔を見たら苦しくて泣いてしまいそうだったから、なるべく見ないようにして緩く身体を押し返したその時、

「ーーーお前は、」

語尾が少し震えているような、まるでショート様には似つかわしくない声色が響く。


「俺の、なんだよな……?」

一つ一つの指を確かめるように、私の手を主の手がなぞっていく。僅かに伏せた顔を上げたらそこにはどこまでも変わらないままの美しすぎるお顔が悲痛な面持ちでこちらを見ていた。目元には見間違いかと錯覚してしまいそうな、淡く色付いた透明な光。長いまつ毛に覆われた縁に涙のしずくがほんのりと溜まっている。

このお方がまさかこれほどまでに縋ってくる時が来るなんて……いや本当、流石に想像すらしていなかったなぁ。
俺の、というのはきっと私がショート様の“所有物”である、と暗に示しているのだろう。
随分とショート様らしからぬ物言いだったが、それは裏を返せばそれだけ本気で引き留めようとしてくれてるということだ。

ああ、叶うなら私だって貴方様のお傍にずっと居させて欲しい。私だって貴方様と同じ気持ちです。でも、

「………、ええ。私はショート様のものですよ。」

「っ、じゃあ今更帰らなくても」

「ーー、ですが残念ながら今はもう、貴方様だけのものでは無くなってしまいました。」


次に続きそうな言葉なんてたかが知れている。ずっと主に一番近い特等席でかのお方を眺めてきたんだ……分からないはずがない。
叶うなら、全て貴方様のものにしてもらいたかった。でもそれは叶わない。無論こんな風に隣国との誓約が無かったとて私と主の間柄では駄目なのだ。どこかの誰かが認めてくれたとして、また違う他の誰かがそれを否定する以上は。


「私にとって貴方様は光でした。」

結局のところいずれこうなると分かっていた想定通りに進む他ないのなら。

跪いて私の手を取っていたその滑らかな甲へと口付ける。思えば初めてする、私からのキス。隠そうと足掻いても隠しきれなかったなぁ、何一つ。
生まれてしまったその思いは自己満でしかない上、しかも下手すればショート様の想いを歪ませてしまうかもしれない、そんな禁断の想いだったのに。

でも、忘れないで欲しいと思ってしまった心が、最後の最後に最大の悪手を犯すとも気付かず。

そして私は身勝手にも、主の手に口付けてしまった。


「どうか幸せになってくださいませ。」

「っ、」

「離れても、ずっとお慕いしております。」


そう微笑んで告げた刹那、雪崩のように主の表情が崩れる。少し前にも見たことがあるあの本気の怒りの表情に似た顔で、一瞬だけバランスを崩してふらついた後、ショート様は突然大きく私の手を振り払った。

直後聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で何かを呟きながら主が俯く。いま、なんて?と聞き返す余裕はないのに、聞き逃してはいけないようなことを言っていたんじゃないかと、そんな気がしたんだ。



「………もういい。お前なんか知らねぇ。」

「え、」

結局のところ縋っていたのは、どちらだったのか。今一度はっきりと拒絶の意を込めて主が私の手を叩く。今度の声色は、震えるほどに冷たい。そう、あまりにも冷たくて、思わず吐き気がした。

色を失って急速に醒めていく視界の中に独り取り残されて、何も言い出せない。敢えて言うなら唇が動かない所為で、今の私はひたすらに目を見開きながらにわかに震え停止している状況だ。

なんでこんなことになったのだろう。私はただ、ずっとお傍に居られればそれで、良かったのに。

もう戻らない主が背を向けて元来た廊下を去っていく。私はその背中を呆然と見つめる。冷えきった眼差しが突き刺さってもう、離れない。

「ショート、さま……」

私の声は遂に主に届かなくなってしまったようだ。誰にも拾われない言葉だけがぽつんと転がって落ちた。


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