Furious



ふと、鼻を突いたのは、やはりというかなんというか。主の纏っていたあの暖かな木漏れ日のような香りだった。その匂いに気付いた瞬間、嘘みたいに目を覚ましてしまう私も私で、大概だろうか。

なんだか、いい夢を見た気がする。でも、多分それは私の気の所為なんだろう。身体中異常なほど汗をかいてベタつく身体から、とてもじゃないけどいい夢なんて見ていなかったのだと、感覚的にそう思ったから。




…………ところで私、何してたんだっけ?


覚束無い思考をそのままに、眉間に皺を寄せて辺りを見回してみる。倒れる前を思い出そうとしても頭にまるで霧がかかったみたいに思い出せない。無理して思い出そうとすればするほど鈍い頭痛が襲ってきた。ていうか、なんでこんなに体調が絶不調なのだろうか。
頭痛なんてここ数年一度も経験していなかったから、なんだか久しぶりだ。

というか私、
ここに来る前何をしていたんだっけーーー、


目だけをぐるりと見回してみて気付いたのは、今まで寝ていたこの場所が、私にとって馴染みのある部屋だったということだ。
しかし、馴染みがあるとは言っても、ここは私の部屋ではない。そもそも私の部屋はこんなに広くないし。じゃあここは何処なのか?

答えは簡単。



「ーーー、っあ!」


そうだ、大事なことを忘れていたではないか。呆けてる場合じゃなかったのを、途端に思い出した。いやいや本当、あれほどの一大事を何故思い出せなかったんだ、私は。
一刻も早くショート様のご無事を確かめに行かなければ、こんなところでぼーっと頭痛に顔を歪めている場合じゃなかったことを思い出し慌ててベッドから勢い良く起き上がった瞬間、ガツンと強烈な頭の痛みに苛まれる。

「っ………たぁ」

目の前の色が白んで消えていく。危ない、また飛んでしまうところだった……。意識を手放さないようにと、とりあえず落ち着いて深呼吸と数回してからゆっくり再びベッドへと戻っていく私自身の足元で、不意に誰かが動く。


「ナマエ。」

私の名前を静かに呼びながら。一歩、一歩。
そこに佇んでいたのは、紛れもなくこの部屋の主、ショート様だった。




「ショート、様」

「目、覚めたのか。」


気を失う前に見た酷く焦ったようなお顔も、今は平静を取り戻している。良かった、どうやらご無事だったようだ。安堵したと同時にふと柔らかなシーツのしわをぐ、と握りしめていたことに気付き、私は頬を赤く染めた。よくよく考えたら今寝かされてたこのベッドって……、うわあショート様のベッドじゃん!

しかし赤面していたのも僅かの時間、私が目を覚ました瞬間から、ずかずかとその距離を詰めてくるショート様。そのお顔は何故か心臓に悪いレベルの真顔だった。それこそ何の感情も抱いてなさそうな、そんな雰囲気を纏っていた。

え、なんか怒ってらっしゃるような……今までもブスっとご機嫌ななめなお顔をキメた主から幾度も痛い目に会わされてきた私だったけど、今のショート様のお顔は、なんというかそのどれにも当てはまらない。強いていえば無感情、といったところだろうか。

それが逆に私の心臓を底冷えさせて仕方なかった。何かやってしまったのだろうかと、自身に問い掛けるだけ愚問であると分かっている。しかし分かっていても止められない。


「ショート様、ご無事…でしたか。」

何も言わない主の視線に耐えられず、苦笑いを浮かべて問いかける。ショート様は一瞬目じりを細めてから、「ああ、お前のお陰でな。」と一言呟いた。


「それは、良かったです……。」

「ちっとも良くねぇ。」

「えっ、」


あぁ、我が主はやっぱり怒っていらっしゃるらしい。私の言葉に食い気味にそう返したショート様の方を見つめる。無表情だったその顔が僅かに歪んでいた。それは正しく傍から見ればそれは明らかに“怒ってます“という、表情で。

矢のように細められた目じりが私を射抜く。ただ見つめられただけなのにとんでもない事をやらかした…、と思ってしまうのは何故なのか。

「とりあえず言いてぇことは色々あるけど」

「はい、」

「ナマエ、俺の名前覚えてるか?」

「………………へ?」


ショート様の、お名前?ちょっと仰ってる意味が分からないのですが。とは、流石に怒っている主の手前口が裂けても言えなかった。

「ショート、様です。」

「親父の名前は?」

「え、エンデヴァー公…?」

「合ってんな。」


そりゃ、合ってるでしょ…とも無論言えず。なんの意図を持って聞かれているのかが皆目検討つかないけど、とにかく素直に答えるしかないんだろう。
恐る恐る答えた返答を聞いたショート様が、不意に唇を更にへの字に曲げた。ええ、合ってたのに機嫌悪いの?だめだ、久しぶりに主の心情が本気で分からないんですが。


「とりあえず、医者の言う通り大事には至らなかったみてぇだな。」

「………あの、私何か危ない感じになっていたのでしょうか?」

「何も覚えてねぇのか?」


ベッド脇に佇む、主の横顔に一層深い眉間のシワが刻まれる。そんな表情を見てしまった以上は、そこからなにも言えなくなるのが道理だった。


その後静かにショート様が語ったのは“ そりゃ怒られてもしょうがないな”と思えるような私自身に起きていた異変の正体。

曰く、私はこう見えて丸二日寝ていたらしい。寝ていたと言うより、目を覚まさなかったというのが正しい表現だろうか。私が飲んだ薬はショート様に合わせて変化させた強めの洗脳系魔法薬で、要は早い話先程私が問いかけたのと同じように、まあまあ危ない感じになりかけていたのだそう。


「俺に合うように作ってたから、他のやつが間違って飲んじまうと…何が起きてもおかしくなかったそうだ。」

「それは一体誰がそんなことを……」

「そんなの、分かるだろ。」


私が倒れてすぐ後、明らかに様子のおかしい令嬢を取り押さえて訳を聞こうとした瞬間のことらしい。令嬢の顔が割れたガラスのように崩れて剥がれたのは。
ガラガラと音を立てて崩れだした令嬢の顔を見たショート様は、案の定驚いた様だった。やはり顔を変えていることに誰も気づいていなかったのだ。あの場で紅茶を全て飲み干した私を除いて。


「アイツは、今屋敷の地下牢にいる。」

「捕まえたのですね。」

「ああ。」


あのご令嬢は名前も、経歴も全て嘘をついていたようで。捕まえたあとも結構わぁわぁとうるさく喚くのでそれなりに苦労したみたいだが、どうにか思惑の全てを喋らせることに成功したのが、つい今しがた私が目覚めるおよそ1時間前のことだった。

“もう少しだったのに、もう少しで手に入れられたのに”それっきり一言告げたそうだ。ご令嬢はそれ以上何も喋らなかった。ただ、最後に一言「あんな規格外だったと分かってたならこんな成功率の低い真似しなかったわ」と言い残して、押し黙ったようだった。

何を言わんとしていたのか、今目覚めてみて、何となくわかる。きっと彼女にとってあの顔を変化させる魔法は、完璧なまでの完成度だったのだろう。多分、バレるなんてこれっぽっちも思ってなかったんじゃないかな。

だからこそ、あの緊急事態を瀬戸際で食い止めることになったのだ。あの時もしも、私ですら気付けない魔法だったら…そう思うとゾッとする。ああ、本当に主が無事で良かった。

「ご無事で…本当に良かったです。」

自分のことなんて、正直二の次だ。だってほら、私はやっぱり主の護衛だし。私の主はショート様ただ一人で、唯一無二な訳だし。

でも、そういう風に言い聞かせて本心を覗こうとしない私だからこそこうやって、


「言いたいことはそれだけか?」

「っ、……!?」

時折主の触れてはならない逆鱗に触れてしまうんだろう。
強い力と、強い瞳。不意に怒りの滲むショート様の手に掴みあげられた右手が不自然に空中を彷徨った。声を上げることも許されず私のベッドの脇へと手をついて、主が私の顔をずい、と覗き込んでくる。

「ショー、ト様ーー、」

「さっきも言ったが、お前は丸二日間目覚めなかった。……俺が言いたいこと、分かるよな?」

「えっと、その……」

「大事には至らなかったかもしれねぇ、それでも…危ない状況に変わりはなかったんだぞ。」


強い力、強い瞳。あぁ、地雷を踏んでいたと気付けなかったのは私の落ち度だ。でも、まさかこんなに心配されていたなんて。

思わなかった?
違う、私は思いたくなかっただけだ。


「前にも言ったよな?俺にとってお前以上に大切なもんなんかねえって。」

「それは、」

「俺がどれだけ心配したか、分かってんのか?」


私の手を掴む手には変わらず力が込められている。痛くはない、けど普通ではない、そんな雰囲気で片手を掴まれたまま、微動だに出来ない私を至極真剣な眼差しが射貫く。

私は確かに主の危機を救った、しかしその為にとった行動が主のためだなんだと言ったところで、結局は自分の為だったんだと、今こうやって全力で主の怒りを身に受けてようやく気付いたなんて、そんなの。


「申し訳……ありませんでした。」


俯いて、一言謝罪を紡ぐだけで、精一杯で。自分自身に積のる不甲斐なさは底なしだ。言われるまで気付けなかったのもそうだけど、なによりそんなことを我が主に言わせてしまった自分に腹が立つ。


私は確かに、あの時一瞬迷ってしまった。ショート様の目の前で、面と向かって令嬢を糾弾することに迷ってしまったんだ。得体の知れない薬を代わりに飲んだことで、自分に何が起きるかも考えずに。正直なんとかなる、って思ってた。今にして思えばほんと、浅はか極まりない単純な思考だよね。……うん、あの時の私ぶん殴りたい。


主のことを思えばこそ、なによりも自分の心配をするべきだった。あの方が私にどれほど好意を示してくれてるかなんて、痛いほど分かってたはずなのに。

「申し訳ありませんショート様。」

私の手を強く握りしめているショート様の手を包む。言葉が震えなかっただけ、少しでも誠意を伝えられたのだろうか。

申し訳ありません、もう一度ぽつりと呟いて。ゆっくりと顔を上げる。
どんなことを言われても仕方ない、でも、それでも嫌われたくないと思う自分がいる。
主に嫌われたら、追い出されたら、私はこれからどうしようか。考えたってきりないことを頭に並べたって、取り戻せないのに。それでも頭から歪な考えは抜けてはいかない。

伏せた瞼を持ち上げ、何も言わない主の様子を伺う。すると目の前には、想像より近い位置にショート様のお顔があった。



「俺も、我ながらお前に甘いと思う。」

「え、」


はぁ…、まるでしょうがないなと言わんとするように、主は呆れながらため息を吐いた。ついで瞼にかかるのは吐息。思いの外至近距離で聞こえたその声は、先程とは少し異なって柔らかさを帯びている。聞き返す暇もなくショート様の端正なお顔がまた離れて。唇が触れた場所からまるで火傷するみたいにじわりと余韻が広がっていった。


今まで幾度となくショート様としたキス。
……いや、さすがにちょっと語弊があるかも。改めよう、不意打ちでされてきたキス。そういえば始まりは思えばいつだったんだろう。よく覚えてないけど、とにかく私はキスをされたその度に私は慌てふためいて、やめてくださいと叫んできた。けれど今回だけはみっともない赤面を晒すこともせずにただ目の前のその顔をじっとりと見つめ返すことしか出来なくて。


「他にも言いてぇことはいっぱいあるけど」

「…あの、」

「とにかく、無事でよかった。」


瞼が熱い、甘い、くすぐったい。
いつも、こんなことばっか考えてる。私はやっぱり臣下失格なのだろう。こんな状況で、凄く怒られたのにそれでもこんな風に顔に灯る熱の処置を知らない私は、きっと誰よりもショート様の護衛には向いていないんだと思う。

この想いを持て余して、ずっと見て見ぬふりでここまで来た。本当は、昔からずっと……。出会った時からショート様が私に向けてくださった視線に気付いていたのかもしれなかったのに。

ずるいのは私だった。

ぐい、と力強く引き寄せられた手に、私は何も言わず身体を預ける。ややあってから、ショート様は僅かに口を開き「目、覚まさなかったらどうしようかと思った。」と続けた。


「申し訳ありません、本当に。主に心労をお掛けするなんて…私は。」

「もういい、分かった。ただ、今後二度とこういうことはしないって誓ってくれるか?」

「はい。」


頬をゆっくりと撫でてくださる、その御方の目元には薄らと控えめなくまが出来ている。目覚めた時、すぐそばにいらっしゃったのも、多分そういう理由があったんだと思う。

申し訳ないと同時に、少しだけ優越感が生まれてしまった心は随分と現金なものだった。
結局の所、大召喚士だなんだと持て囃された存在だとして、その正体は愛だの恋慕だのに突き動かされるまだまだの子供ということなんだろう。嬉しい、と思ってしまうのが、止められない。



「なぁ、ナマエ。」

「は、い……」

「俺の名前、」


呼んでくれと小さく主が耳元で呟く。その意図は、多分不安という感情から起因しているであろうことは明確だった。
私が、私のままであること。それが主にとって何よりも大切な事柄だとするなら、


「ショート様。」

「あぁ。」

「ショート様、大丈夫です。………死んでも忘れません。」


何度でも呼びましょう。私の、この声でいいのなら。この声がいいと仰ってくれるなら他でもない、貴方様の為に。

再度瞼に落とされる口付けから、思いが波紋となって伝わってくる。いつもは慌てて押し返す両肩も、少し力んでいたその手も、今だけはそのままにして差し上げよう。

名前を呼ぶと嬉しそうに微笑む我が主のその横顔はまるで子供みたいだった。
するならば、私は一体主のなんなのだろう。もしかすると本当にそろそろ主の想いに、向き合うべき時期が近付いてきているのかもしれない。


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