氷上フィアンケット | ナノ

 ――コムイがぱたんと書類を閉じる。長かった任務の、ホントの意味での終わりの合図。

「……よし、オッケーだよ。お疲れ様」
「いえいえ」

 向けられた微笑みと労いの一言に篭められた色々な想いを、頷きと笑顔ひとつで受け止める。回収したイノセンスも報告書も渡したし、私の仕事はここで終了。ゆっくり休んでくれ、っていうお言葉に甘えて司令室を後にする。

 一ヶ月ぶりの“ホーム”は、相も変わらずどこかひんやりと涼しい空気が流れている。
 それでも、すれ違い様に掛けられる“おかえり”の声は温かくて、その温度差に「あぁ、今回も無事に帰って来れたな」って思うのもいつものこと。今回の任務先は暖かい地方だったけど、私はどちらかというとこの涼しさにホッとする。
 任務明け特有の微かな倦怠感を引き摺りつつも、自室への道は目を瞑ってたって辿れる。ベットにダイブするイメージを膨らませつつドアノブに手を掛けたとき、後ろから響いた足音が私を呼び止めた。

「リズさぁぁあん! ちょっとすいません!」
「なぁに?」
「き、緊急で、確認して欲しい事が……」

 足音の主は科学班の若手の子。パシリに使われたであろう彼には、罪も悪意も欠片も無い。反射で出掛かった溜息を飲み込んで振り返れば、思ってたよりも幾分か困った表情がそこにあった。
 縮こまり気味で私の耳元へ顔を寄せた彼は、声のトーンを一段落とす。

「―――――、絡みで」
「……え?」

 弱々しく絞り出された単語は、久々に聞いた予想外のもの。
 良い予感なんてある訳も無いそれを聞いてしまえば、駆け足でとんぼ返りするしかない。伝言を伝えてくれた彼に感謝の言葉を軽く残して回れ右。さっき挨拶を交わしたみんなが、走る私を首を傾げて見送る。
 任務報告時よりよっぽど急いで辿り着いた目的地の扉を開けば、中に居る数人がばっと勢い良く振り返った。

「緊急で確認、って、どれ?」

 ――最初に眼が合ったリナリーの口が、私の名前を紡ごうとした、そのとき。 

「こいつアウトォォオオ!!!!」
「!!!?」

 教団中に響き渡ったのは門番の絶叫。想定される状況を脳内でリストアップしつつ、騒ぎの中心になっているスクリーンに駆け寄る。
 それを取り囲む人垣が瞬時にパッと分かれたことを見るに、私に頼まれたのは――

「スパイ侵入、スパイ侵入!」
「おい、城内のエクソシストは……」

 科学班の面々の声が飛び交う中、スクリーンの正面を陣取ってこちらを見上げる人物を確認する。
 リナリーと同じ年頃に見える、焦り顔の白髪の少年。眼の下には稲妻状の傷跡。

「この子……!」

 ――その容姿から感じた予感は、彼の頭の脇で浮遊しているソレを見て確信に変わった。
 静止の声を上げようとしたその時、スクリーンに新たな人影が映り込む。満月をバックに闇を舞う、黒髪の青年。

「大丈夫じゃ」
「神田がもう着いたわ」
「!」
 
 ……よりによって、一番話を聞かないコが来ちゃったか。

「……リズ!?」

 唐突に踵を返した私を複数の声が呼び止める。けど、ここで科学班のみんなに説明するより、直接止めに行った方が確実に速い。のんびりしてたら、止まるのはユウの攻撃じゃなくて彼の息の根だ。

 久々に聞いたさっきの人名が、身体に任務帰りだという事実を忘れさせているらしい。驚くほど軽やかに運ぶ足は、あっという間に城壁の上に辿り着いた。
 見下ろした先では、丁度ユウが六幻を構えて地面を蹴ったところだった。

「“氷盤操士(グランドマスター)”、発動」

 両耳で揺れるイヤーカフスに手をやりつつ、詠唱と同時に飛び降りる。
 ……頭を過ぎった記憶の中のあのひとは、悪びれる様子もなくニヤリと笑っていた。










 ――やっとの思いで辿り着いた黒の教団本部で待っていたのは、随分手荒な“歓迎”だった。

「……クロス師匠から紹介状が送られてるはずです!!」

 戦意も敵意も殺気も出していないのに、この凶悪な眼をした黒髪のひとは一向に止まってくれる気配がない。必死の叫びも虚しく、眉間目掛けて迫り来る切っ先。あぁもうホント駄目かもしれない。

 本気で命の危険を感じたその時、僕と黒髪の人との間に、新たな人影が音も無く舞い降りた。

「「!」」

 唯一こつりと響いた微かな音は、その人の手にする杖が地に着いた音。ぎらぎらと鈍く光っていた刃型の対アクマ武器は、杖に付いたボード状の何かで遮られた。
 助けて、くれたのか。……ひとまず、命の危機は遠のいた、らしい。

 刃先が見えなくなったことで、ようやく五感がそれ以外のところに向く。ふわりと香る挽きたてコーヒーの香りに誘われて視線を下にずらせば、僕の前に跪くその後姿は、思ったより身体の線が細い。

 肩に付くか付かないか程度の、漂う香りと同じ色をした髪。
 頭の上に鎮座する、頭に対してやや大きめの王冠。
 刀の切っ先を受け止めているのは、チェス盤のようなものを付けた杖。

 ……対アクマ武器? この人も、エクソシスト……?

「……こーら。やりすぎよ」
「!」
「………」

 ゆっくりと立ちあがったその人の口から零れたのは、大人の女性を思わせる落ち着いた声。どこか悪戯な色を滲ませながらも諌める風なその人に、黒髪の人はちらりと視線をやる。
 ぴくり、片眉が動いたのは一瞬で、その視線はすぐにこちらに戻される。怖っえ〜……!

「元帥から……? 紹介状……?」
「そう、紹介状……コムイって人宛てに」

 中に居る人達の音声が出ている黒いゴーレムに向かって言えば、向こう側は俄かに騒然とする。黒髪の人は元々の難しい顔に更に皺を寄せて、僕の前に立つお姉さんに視線をやった。

 ――ゴーレムから聞こえた決定的な一言と、お姉さんの信じられない一言が出てきたのは、ほとんど同じタイミング。

≪あった! ありましたぁ!! クロス元帥からの手紙です!≫
「……そ。このコ、私の弟弟子よ」

「っ!!!?」
「………」

 ……ちょっと待って、お姉さん、今なんて……!?

「かっ、開門んん〜〜〜?」

 彼女の言葉の意味を理解しきれないまま立ち尽くしていたら、門番の納得いかない風な声をバックに城壁が開いていく。
 僕の頭の周りをふわふわと飛んでいたティムキャンピーは、いつのまにかお姉さんの肩に乗っていた。それが先程の言葉を肯定しているかのようで、脳内の疑問符は余計に増えていく。

 混乱している僕の様子を察してか、お姉さんは漸くこちらを振り返った。僕より少し視線が高い。
 杖を握り締めた右手にティムキャンピーを遊ばせつつ、振り返り様に傾いた王冠を左手で抑えつつ、にこり、柔らかく微笑んだ彼女は結構な美人さん。

「慌ただしくてごめんね。初めまして、アレン・ウォーカー君?」

 トパーズを閉じ込めたような瞳が僕を捉える。
 彼女の薄い唇から零れ落ちた言葉は、ここに来て初めて向けられた、じんわりと温かいものだった。

「……あ、あの!」
「ん?」
≪入場を許可します、アレン・ウォーカーくん≫
「!」

 舌先まで出掛かった言葉は、ゴーレムから響いた声に遮られた。
 ……なにはともあれ、教団の中に入れては貰えるらしい。彼女とは今からでも話せるだろう。開ききった城門に安堵の溜息を漏らせば、耳元で響く不吉な金属音。
 ぎぎぎと音がしそうなほど固まった首を無理やり動かせば、一度は遮られていた刃先が、再び僕を捉えていた。

「わっ!」
「ちょっと、ユ……」
≪待って待って、神田くん≫

 相変わらず僕を警戒しているらしい黒髪の人を、ゴーレムから響く声が止めた。彼は再び刃先を杖で遮るお姉さんをちらりと一瞥した後、一瞬逡巡した様子を見せたあと、小さな舌打ちひとつしてゴーレムの方に意識を向ける。

「コムイか……どういうことだ」

≪ごめんねー、早トチリ! その子クロス元帥の弟子だった。道理でリズが飛んでくわけだよ≫
「気付いてたなら、その時点で一旦止めなさいよね……」
≪あはは、だよねーぇ。ほら、謝ってリーバー班長≫
≪オレのせいみたいな言い方ー!!≫

 返って来た答えにお姉さん(……リズ、さん?)が口を挟めば、ゴーレムからは気の抜けた笑い声と別の人の怒声が響く。
 リズさんはやれやれと肩を竦めながら、右手に構えていた杖を一振りした。次の瞬間、王冠と杖は姿を消し、リズさんの手元に残ったのは小さなイヤーカフスが二つ。王冠とチェス盤を模ったそれは、やっぱり対アクマ武器の一種だろうか。

≪ティムキャンピーが付いてるのが何よりの証拠だよ。彼は、ボクらの仲間だ≫

 相変わらず鋭い刃先は僕の方を向いたままだけど、発動を解いたリズさんの様子と、ゴーレムから聞こえる声を聞くに、たぶん疑いは晴れたんだろう。
 イヤーカフスを付け直したリズさんが、黒髪の人に向き直る。口を開きかけた彼女がふいに視線をずらした時、まさにその方向から、ぱこっと間の抜けた音が響いた。

「もー、やめなさいって言ってるでしょ! 早く入らないと、門閉めちゃうわよ」
「「………」」
「あらリナリー、お出迎え?」
「ええ。任務明けのリズに甘えて、全部任せておくわけにはいかないわ。……ほら、入んなさい!」

 おっかない黒髪の人をバインダーで叩いたのは、僕とそう歳も変わらなさそうな女の子。リナリーと呼ばれた彼女は、リズさんに綺麗な微笑みを返した後、僕らの方に向き直って城門を指差した。

 彼女に促されて、黒髪の人もようやく(とはいえ、渋々といった様子で)、教団内へと踵を返す。それを追いかける形で、僕らも門の内側へと足を向けた。
 全員が城門をくぐれば、ギザギザの付いた見るからに重そうなその門は、ガシャンという盛大な音を立てて閉ざされる。耳に響く余韻を残していたそれが収まった頃、僕を先導していた彼女がくるりとこちらを向いた。

「私は室長助手のリナリー。室長の所まで案内するわね」
「よろしく」

 自己紹介と共に右手を差し出してくれた彼女に、僕も応えて握手を交わす。漸く和やかな雰囲気になれた、と思ったら、後ろでかつん、と地面を蹴る音がした。
 音の出所に視線をやれば、早々に立ち去ろうとする黒髪の人。……呼ばれていた名前は、確か。
「あ、カンダ、……って名前でしたよね……?」

 ……振り返った彼の纏う空気は、ものの見事にドス黒い。
 それでも、射抜かんばかりの鋭い視線にもめげずに、右手を差し出す。

「よろしく」
「呪われてるやつと握手なんかするかよ」
「………」
「ごめんね、任務から戻って来たばかりで気が立ってるの」
「……まったく、あの子ってば」

 僕の右手を冷たく一瞥して、ばっさりと切り捨てて立ち去ったカンダ(振り返ったんだから名前はあってたはず)。彼を茫然と見送るしかできない僕に、女性陣二人は優しい声を掛けてくれた。
 ……それにしても、あのおっかないカンダを「あの子」呼ばわりとは。呆れたように溜息をつくリズさんをちらりと見上げれば、眼があった彼女はにっこりと友好的な笑みを浮かべてくれた。

「リズ・ロゼッティよ。よろしくね」
「リズさん。宜しくお願いします」
「ふふ、リズで良いわよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 リナリー同様右手を差し出してくれる彼女と握手を交わす。本人が言っているとはいえ、明らかに年上のお姉さんを呼び捨てにして良いものかと少し悩んだけれど、ここで頑なにさん付けで呼ぶのも却って失礼だろう。
 そんなことよりも、さっきから気になって仕方ない事がある。一度深呼吸をして落ち着けたあと、さっき彼女が口にした、ある意味ものすごく恐ろしい事実を確認する。

「……リズ、さっき僕の事、弟弟子って言いましたよね……?」

 気持ちを落ち着けてから問いかけたとはいえ、顔が引き攣るのは抑えられなかった。
 ……だって、こんな美人さんが師匠の弟子!? 勿論見たこと無いし聞いたこと無い!! 僕の事知ってたってことは本当なんだろうけど、だだだ大丈夫だったのかな色んな意味で……!!
 頬を伝う冷や汗やら引き攣る口元やらから色々と察してくれたのか、リズはリナリーと顔を見合わせて苦笑した。

「えぇ。とはいっても、私を見つけて教団に連れて来てくれたのが、クロス師匠だったってだけなんだけどね」
「え……?」

 ――返って来た答えは、どうやら僕の予想とは少々違っていたらしい。
 ぽかんと間抜けに口を開ける僕に、リズはくすりと笑って説明してくれた。

「彼、放浪癖あるでしょ? 私は15年前からずっとここに居るから、師匠と一緒に行動してたわけじゃないのよ。確かに稽古は付けて貰ったし、ちょこちょこティノ……私のゴーレムで、通信くらいはしてたけど」
「え、そうなの? 初耳よ」
「あ、リナリーごめん、皆には内緒でお願いね? ただでさえ帰って来ないのに、バレたら余計寄り付かなくなりそう」

 しーっ、と人差し指を唇に当てて、リズは悪戯にくすくすと笑う。なんだかホッとして気が抜けた。
 話も一段落したところで、リナリーが仕切り直しに「さて、」とバインダーを持ち直す。自然と彼女に集まる視線を受けて、リナリーはにこりと笑って上を指差した。

「そろそろ行きましょうか。そうだ、リズはどうする?」
「んー、リナリー居るなら任せようかな。あとでまた話せるだろうし」
「そう?」
「実はね、帰って来てからなんにも食べてなくて。ジェリーのご飯が恋しいの」

 お腹に手をやりつつ、リズはえへへと苦笑する。そうやって笑っている姿だけ見ると、感じていた歳の差が不思議と縮まる。いくつなんだろう……と、女性に聞くには不躾すぎる疑問が浮かんで、思わず小さく首を振った。
 有難い事に、そんな僕には気付いていない二人は、耳に心地良いソプラノで話を続けている。

「そっか、リズも神田と一緒に任務行ってたんだっけ」
「そ。あの子が医務室行ってる間にコムイに報告入れて、終わって、さてご飯、ってところでコレだったから」
「え! す、すいません……」
「いえいえ。アレンのせいじゃないもの」

 油断してたら話の矛先は突然こちらに向いてきた。そんなつもりで言ったんじゃないだろう事は分かってるけど、思わず反射で謝りを入れる。そんな中でさりげなく呼ばれた名前が何だか温かくて、ゆるりと口角が緩んだ。
 華やかに微笑する女性二人を見つつ、なんとなくリナリーの言葉を反芻する。“それ”に気付いたその瞬間、緩みきっていた頬がぴしりと固まった。
「(っていうか、あのカンダと一緒に任務……!?)」

 つう、と頬に冷や汗が一筋伝う。それでも、ほんの十分足らずしか見ていない彼女の様子を順々に思い返せば、驚きはすぐに納得へと変わった。

 城門からの軽やかな跳躍と、物音も立てない柔らかな着地。
 あれほど迫っていた切っ先にも怯まずに、間に割って入る度胸と身のこなし。
 一緒に任務に行ったカンダが医務室に行ったというのに、リズには疲労も傷も見当たらない。

 ――そしてなにより、“あの”クロス師匠が見つけてきた、エクソシストだというのだから。

「(……強い、んだろうな)」

 思い至ったひとつの結論。様々な意味を含めたそれを頭の中でなぞっていたら、リズが僕を覗き込んでくすりと笑った。僕とリナリーの肩を叩いて、先程リナリーが指差した方向を指し示す。

「さて、他にも聞きたい事があるみたいだけど、コムイもお待ちかねみたいだし、行って来なさいな」

 ――また、あとでね。

 そんな一言を残して、リズはくるりと踵を返した。カンダが去っていった方へと向かうリズを見送りつつ、リナリーも視線で僕を促す。先に一歩踏み出した彼女を、僕も半歩遅れて追いかけた。

 またあとで。そんな当たり前のひとことが通用する場所。
 そう思えば、あの断崖の上にそびえ立つ真っ黒い建物も、なんだか好きになれそうな気がした。










スイレンの芽吹




あとがき
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