氷上フィアンケット | ナノ

「ジェリーさん〜〜〜、まだお昼ご飯大丈夫ですか……!?」
「あらぁアレン。お疲れちゃん」

 一人任務を終えたのがお昼前で。この時間ならこの辺りで適当に済ませるよりも、教団に帰ってジェリーさんのご飯を食べたいなと思って。一時間そこらで帰ってこれる場所だったはずなのに、道を間違え汽車を間違え、帰り着いたのは科学班のランチタイムですらとうに過ぎた午後三時。藁にも縋るような思いで食堂を覗けば、そこからはいつもと同じように美味しそうな匂いが漂っていた。
 有難く手あたり次第に大量注文を告げれば、ジェリーさんは笑顔一つで了承してくれる。先に座ってなさいな、というお言葉に甘えて食堂の座席を見渡せば、少し先の机に意外な組み合わせの二人がいた。

「ま、参りました……」
「はい、ありがとうございました。中盤までの手は良かったけど、戦況が激しくなってきた辺りから、盤のはじっこまで注意が行き届いてなかったわね」
「うーん……どこ間違ったんだろう……」
「じゃ、再現といきましょうか」

 向かい合わせに座るリズとジョニーの間にはチェス盤。聞こえてくる会話から察するに、丁度勝敗が付いたところらしい。
 まだ僕に気付いていない二人に声を掛けようとした、まさにその時。リズの手元で、チェスの駒がわらわらと動き出した。

「えっ!?」
「あら、アレン。おかえりなさい。任務帰りよね? お疲れさま」
「おかえり〜! お疲れアレン。今から昼か? ここ座れよ!」
「たっ、ただいま。有難うございます」

 思わず驚きの声を漏らせば、二人が同時に振り返る。おかえり、という言葉にはいくらか慣れてきたけれど、返事が変に上擦ってしまった。
 どうしたの? と言わんばかりにきょとんとした表情を浮かべるリズとジョニーに、手元のチェス盤を指差して言葉を続ける。

「あの、今、駒が自分で動きませんでした!?」
「ああ、これね」

 既に動きは止まっているけれど、ついさっきまでチェックメイトの形だったはずの盤面は、綺麗にゲームの開始位置に戻っていた。
 ジョニー側の白い駒は、全種揃ってきちんと整列している。それに対して、リズ側の黒い駒は随分と少ない。
 リズは僕と目を合わせて悪戯に笑うと、まるで指揮をするかのように、人差し指を白駒側へと向けた。

「これ、氷盤操士(グランドマスター)なのよ。杖部分は出さずに盤にして、駒をリアルサイズで実体化させてるの」
「えっ!? それ、本物のチェスとしても使えるんです!?」
「ええ。打つ時は普通に手で動かすんだけど、内容は氷盤操士が覚えてるの。だから、ゲームが終わった後で、こうやって自動で再現できるのよ」

 彼女が指を一振りすれば、白い駒がひとつ、黒い駒がひとつ、すうっと滑らかに盤面を移動する。白黒交互に十手ずつ動いたところで、リズが盤の端に人差し指を二度触れると、それはぴたりと動きを止めた。

「戦闘訓練じゃなくても、イノセンスを扱う練習はできる。特殊な例かもしれないけれど、シンクロ率の向上にもいいの」
「へえ〜〜〜」
「で、ここまでが、さっき言ってた『中盤までの手』ね」
「はっ! はいっ」
「中盤? まだお互い十手ずつくらいですよね?」

 リズの解説相手が僕からジョニーに移ると、彼はぴしりと背筋を伸ばして居住まいを正した。疑問を素直に口に出した僕に、ジョニーは何故か得意げに駒を指差す。

「アレン、スタート時点のハンデ見たろ? あんだけ駒数に差ぁ付けて貰ってても、リズ相手じゃ試合はあっという間だぞ!」
「……つまり、こっ酷く負けたって事ですね?」
「勿論!」
「あはは……。で、その原因が、丁度ここからの数手なんだけど」

 勝った側と負けた側のリアクションが逆転している気もするけれど、そこには触れずにひとまず視線は盤に戻す。リズが再び盤の端を指で二度叩くと、駒の動きが再開した。
 ジョニーの側には、未だクイーンもルークもビショップも全て揃っている。戦力的には結構な差があるはずなのに、そこからの十数手で形勢は一気に逆転。あれよあれよという間に、白い駒の動きは徐々に封じられていく。
 そして決定的な一手は、盤のはじっこ、という言葉の通り、意識が行きづらい隅から飛んで来たナイトの奇襲。脇を固めるポーンに道を阻まれ、キングはあっという間に動けなくなった。──チェックメイト、勝負あり、だ。

「うわ、凄い」
「だろー!? なんてったってチェスのイノセンスに選ばれるくらいなんだ。リズのチェスの腕前は、元々プロレベルだからさ」
「ちょっとジョニー、盛りすぎよ」
「そんな事ないって」

 シュン、と控えめな音を立てて消えた白のキングを見送りながら感嘆の声を漏らせば、何故かジョニーが誇らしげに胸を張る。

「しかも一切の手加減なし。指すときはいつだって全力だから、一局があっという間なんだよなあ」
「そりゃあ勿論、これだけハンデ付けてたら、誰が相手だって一瞬たりとも気は抜けないもの。全力でお相手させて頂くわ」

 ストレートな称賛の嵐を受けて、リズの頬がほんのり赤く染まる。
 それを誤魔化すかのように、こほん、とひとつ咳払い。「それとね」と付け加えた彼女は、今度は至極真面目な表情で盤を見つめる。

「うっかり負けちゃうと、氷盤操士が拗ねるのよ。本気でやらないと、次の戦闘に関わるから。逆に勝てば調子が上がるし、良い勝ち方すれば、力の吸収率も上がるしね」
「へえ……!」

 イノセンスはエクソシストによって三者三様、十人十色。皆それぞれ、自分のイノセンスに応じた付き合い方を見つけている。
 教団の中でもシンクロ率が高いリズの話は、なにかの参考になるかもしれない。相槌ひとつで続きを促せば、彼女の口から零れる話は思わぬ方向へと向かう。

「“グランドマスター”っていう名前からして、この子、プライドが高いのよね。この俺様が選んでやったんだから、負けはひとつも許さないぞ、みたいな。もし人間だったら、ちょっとクロス師匠に似てるかもしれないわ」
「えっ……いや……それは流石に……」
「アレン、顔が凄い事になってる」
「そうそう、師匠と言えばね」
「リズ!? 続けるの!?」

 久しぶりに聞いた名前に、半ば反射で盛大に顔をしかめれば、ジョニーの声に怯えの色が混ざる。それでもリズは気を悪くした様子もなく、変わらず穏やかな調子で話を続ける。 

「氷盤操士は決してイカサマを許さない。この盤と駒を使う以上、完全な実力勝負よ。たとえ相手が、イカサマのプロだろうとね」
「それは……まさか……つまり……師匠相手でも……!」
「そう。でも、イカサマ抜きでも師匠は師匠だから、一回だけ負けた事があってね。あの時はしばらく拗ねちゃって大変だったわ……。戦闘中だろうと何だろうと、出したい型じゃないのが出たり、盤面が応答してくれなかったり、こういう再現だってしてくれなかったし」
「えっ、っていう事は、逆に一回しか負けた事ないんですか!!!? あの師匠に!!!? それは凄い!!!!」
「急に食いつき凄いなアレン」

 ──あの師匠が! リズには!! チェスでは一回しか勝ったことがない!!!!
 とんでもない重大情報を零してくれた姉弟子に最大級の尊敬の眼差しを向ければ、リズは再び照れたように笑う。
 テンションの高低が激しい僕に苦笑していたジョニーは、新たに食堂に現れた人影を見止めて、あっと声を漏らした。

「リーバー班長」
「あら。お疲れさま」
「おーおー、お揃いで。おっ、チェスか?」

 どこかへろへろとした足取りのリーバー班長は、こちらも僕と同じく随分遅めの昼食待ちらしい。僕らのテーブルまでやってきた彼は、リズとジョニーの手元を見ると、なぜかその視線を僕へと向けた。

「ははーん、っつー事はアレン、うちのグランドマスター初体験か? リズは強いだろ! 元々チェスの王位の名前だからな、“グランドマスター”は」
「はい! なんたって、あのクロス師匠でも一回しか勝ててないっていうんですから! 凄いです!」
「もう……みんなして……」

 班長もさっきのジョニーと同じように、本当に誇らしげに胸を張る。
 しかも、それは以前、戦闘中にリズの強さを解説してくれた時よりも、もっとずっとずっと嬉しそうだ。
 その嬉し気な横顔をなんとなしに眺めていたら、答えはストンと落ちてきた。

(──それはそうか)

 ──命を懸けて敵と戦う強さよりも、誰も傷つかない盤上で振るう強さの方を誇れる世界の方が、ずっといい。
 ……なんて、ひとり勝手にしんみりしていたら、ガラガラという車輪の奏でる音と共に、美味しそうな匂いが近付いてきた。

「あっ!!」
「はーい、二人ともおまちどーん!」
「わあ! 有難うございます!」
「おお……やっと昼飯だ……いただきます!」

 大量注文したメニューが所狭しと並ぶワゴンが、テーブルの端に横付けされる。
 スペースを空けてくれようとしてか、リズがチェス盤を机の上からどける。イヤーカフ型に戻してしまう前にと、無意識で食事に伸びてしまいそうな手をぐっと堪えて、リズに向かって挙手をした。

「リズ、僕、まだ初心者なんですけど! 食後に一戦、お相手お願いできますか?」
「ふふ、もちろん」
「有難うございます!」

 笑顔一つで了承してくれたリズに、最大限のハンデを貰ったところで、勿論勝てるとは思っていない。
 けれど、彼女がAKUMA相手ではなく伸び伸びと振るう強さを体験できるなら、こっ酷い負けの一つや二つ、むしろ自ら望むところだ。










月桂樹の宝冠



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