氷上フィアンケット | ナノ

 ──最初の刺激は、耳に心地よいメロディだった。

「ん……」

 どこか遠くから聞こえる優しいピアノの旋律。そこに合わせるかのように重なる小鳥のさえずり。風はそよそよと柔らかく頬を撫で、身体に注ぐ暖かい陽射しは春の日のよう。重たい瞼をゆるゆると上げれば、そこには美しい石畳が整然と続く。
 眼前に広がる穏やかな光景を眺めつつ、一回、二回、緩やかな瞬きを重ねていけば、だんだんと意識がはっきりしてくる。
 ……私は一体、何をしていたんだっけ。こんな観光地みたいな綺麗な街並みの中で、どうして地面なんかに転がっているんだっけ。見覚えのない景色をもっとしっかり確かめようと身体を起こす。
 その瞬間、全身に走った鋭い痛みに、意識が途切れる以前の全てを思い出した。

「っ!」

 ──ここは千年伯爵の方舟。見た目の長閑さとは裏腹の、現実から隔離され、閉ざされた敵地のど真ん中。
 アレン達を先に行かせる為に、チェス盤の部屋に一人残って、大量のAKUMAを一匹残らず倒したそのあと。
 相手のボスは手強いレベル3。長時間の第二解放を以て挑んで、なんとか勝って、ちょっと休憩のつもりで座り込んだ。その後からの記憶がない。

(……でも、ここはあのチェス盤の部屋じゃない。そもそも、あの部屋は消滅しかかってたはずだし……どうして……)

 痛みを堪えて上半身を起こせば、すぐ背後には立派な噴水がひとつ。手頃な背凭れを見つけて、ひとまずそこに背中を預ける。
 まるで空から降ってくるかのようなピアノの旋律は、途切れることなく滑らかに流れ続けている。なんとなしに耳を傾けながら、辺りに目を走らせ思考を続ける。
 西洋風の石畳が広がる、整備された美しい街並み。時折鳥の姿が見える以外に、生き物の気配は全くない。街の奥に聳え立つ塔のような建物は、確かに見た覚えがある。けれど。

(チェス盤の部屋は、結構上の方にあったはずよね。なのに、ここから高い建物が見えるって事は……私が落ちてきたってこと? ううん、でも下層から先にどんどん消滅が進んでいて……あの部屋より下には何もないはずで……ユウとクロウリーは、その前に脱出できたかなって心配して……でも今は……これは……一体……)

 今分かることを整理してみたところで、手持ちの情報が少なすぎて、これ以上の考察はできっこない。こうなると、私一人で考えていても仕方がない。
 とにかく、周囲は静かで敵の気配も無く、消滅していたはずの場所は復活している。さっきのような閉ざされた部屋でもなく、移動を阻まれる事も無い。となると、ここから私がやるべき事はひとつ。仲間の誰かと合流すること。
 方針が固まれば、次に考えるべきは行く先。街の上を目指すか、下を目指すか。改めて付近を見渡せば、それは突然空から降ってきた。

≪ごはんですよーッッ!!≫
「……え?」
≪ラ、ラビさんそんな、犬じゃねーんスから…≫
≪イ――からみてろよチャオジー、飢えたアレンなら百パースッ飛んでくっから。ごはんだぞ――!! ステーキパスタみたらし団子〜〜ッッ≫

 いつの間にか止んでいたピアノの旋律と同じく、どこからともなく聞こえてきたそれ。方角は分からないけれど、声にはものすごく聞き覚えがある。
 ひたすら食べ物の名前を羅列するラビに、間に挟まる呆れ気味な諌め声はチャオジー。良かった、無事だった、そんな安堵の想いが胸を占めるのと同じくらい、疑問符も山盛りいっぱいになる。
 これは一体どういう仕組みなのか。一方通行なのか、こちらからも発信できるのか。思考がそこに到達するより先に、不意にラビが食べ物の羅列をやめた。

≪ハッ≫
≪なんスか?≫
≪まてよ、俺らが助かってんなら、もしかしてリズとユウとクロちゃんも……!≫

 ラビが漏らした希望を孕んだ声。そこに連なる名前を聞いて、ようやく少しずつ状況が読めてきた。彼らもまた、『消滅したはずの場所』から生還している。
 どうして声だけが聞こえるのかは分からないけれど、状況には光が差して来たらしい。

≪リズねーえさぁあん! ユウのパッツ……≫
≪上等じゃねェか馬鹿ウサギ≫
≪おぉっ! ユウッ!!≫
≪チッ≫
≪……に担いでんのはクロちゃんか!?≫
≪落ちてた≫
≪まじか! そんならリズもどっかに落ちてっかね!?≫

 ばたり、扉の開く音が聞こえたあとで増えた声がひとり。嬉しげなラビの声から察するに、二人とも無事らしい。
 そのあとで再度呼ばれた自分の名前に応えるように、つい独り言が漏れた。

「ふふ……だれが、落ちてるって……?」
≪!! リズっ!? おぉ、良かったぁああ!!≫
≪フン……≫
「!」

 独り言だったはずの私の呟きもまた、謎のシステムにしっかり拾われていた。
 何故か通じた長距離通信のようなこの仕組みは、氷盤操士の"音信(コレスポンド)"よりも、随分と性能が良さそうだ。距離がどれだけ離れているのかは分からないけれど、少なくとも、ラビの喜びの声に紛れた、ユウが漏らした小さな吐息まで拾われている。

≪おいリズ、どこに居やがんだお前≫
「んー……どこかな……。周りに全く見覚えが無くて、分かんないのよね」
≪はァ? ……どーなってんだよこれは≫
≪オレにもサッパリさ〜。コラ――ッ、出てこいっつのモヤシ――!!≫

 私に向かってぶっきらぼうに問うユウだけど、それでも声が少し柔らかい。空に向かって答えを投げればちゃんと通じて、更なる返事も届く。喋れば答えが返ってくる、そんな些細なことが胸の奥をくすぐる。
 迎えにでも来てくれそうな物言いだけど、例えば噴水があると言ったところで、たぶん誰にも分からないだろう。それに、おねーさんを信じなさい、なんてカッコ付けて別れた手前、もう少ししゃんとしてから合流したいというのも密かな本音。
 どうしたものかと嘆息すれば、また一人、新たな声が聞こえてきた。

≪誰がモヤシかバカラビ――ッッ!!≫
≪うおっ、アレン!?≫
≪チッ、モヤシの声が空から……≫
≪アレンですバ神田!!≫
≪エリ……ア……デ≫
≪あっクロちゃんしゃべった!!≫
≪よかった……≫

 賑やかな男子たちの声が飛び交う中、最後に聞こえた掠れ気味のソプラノ。ラビとチャオジー、ユウにアレン、クロウリー、そしてリナリー。これで方舟に入った全員の声が確認できた。
 よかった、誰も欠けてない。信じてはいたけれど、期待してはいたけれど。確認出来て初めて安堵で肩を落とす。
 そんな自分の溜息ときれいに重なって、空から降ってきた新たな溜息がひとつ。

「……え?」

 ──今までの皆とは違う"8人目"の声の持ち主は、ここに居るはずもないけれど、居ても驚きはしない人。

「……師匠? クロス師匠、この中に居るの?」
≪おう、バカじゃねェ方の弟子も無事か≫

 しれっとした調子で返ってきた低音を、こんなにもクリアな音質で聞くのは、一体何年ぶりの事だろう。
 私たちが探していたまさにその人、クロス・マリアン元帥。私とアレンの師匠。

≪久しぶりだな、リズ≫
「久しぶりだな、じゃないわよ師匠! ……もう、って事は全部、師匠の計画通りなんでしょう!?」
≪はっはっは!≫

 悪びれずに笑って済まそうとする師匠に、思わずこちらも苦笑が零れる。なにはどうあれ、師匠が本格的に関わっていたのであれば、それは彼の所為でもあり、彼のお陰でもあるのだろう。師匠を含め、全員無事だったのだから、ひとまずこの場は、もうそれで十分だ。
 からりとした笑い声に対して深い吐息ひとつで返せば、師匠はどこか楽しげに言葉を続ける。
 
≪……で、お前はどこぞで一人ぼっちってワケか≫
「残念ながらね」
≪仕方ねェ、どんだけイイ女になったか、俺様直々に迎えに行って確かめてやるよ。そこでそのまま待ってろ≫
≪≪えっ≫≫
「……はぁい」

 アレンやラビの大丈夫かと言わんばかりの声が聞こえた気がするけど、師匠が迎えに来てくれるのを待つなんて、きっと後にも先にも無い、とんだ貴重体験。今のぼろぼろでフラフラの無様な姿なんてティーンズ組には見せたくないし、大人しく師匠を待つとしてみよう。










アゲラタムの溜息



もどる
×