氷上フィアンケット | ナノ

 ――長い、夢を見ていた。

 夢の欠片が混ざりあう中で、漸く見つけた現実の色。それを認識して初めて、自分が眠っていたことを知る。
 海の底の方でぼんやりと漂っていたところから、水面の向こうにぽっかりと浮かぶ月を目印に浮上していくような感覚。閉ざされていた意識をゆっくりと広げていくと、眠りにつく前の記憶がじわじわ戻ってくる。方舟で戦って、なんとか勝って、その後は……あぁ、なんだか上手く思い出せないけど、「おかえり」って言ってくれたコムイと皆の、泣き笑いみたいな表情は覚えてる。

(そっか……帰って、来れたんだった)

 脳の覚醒と比例して、体の感覚も徐々に戻ってくる。気怠さに混ざる節々の鈍痛。背中に触れる程よく固い感触。横たえられた身体を覆う柔らかい重み。自分の寝かされている場所を把握した時には、重くて仕方なかったはずの瞼がすんなりと上がった。
 推定数十時間ぶりの光刺激が眼の奥を刺す。それを緩慢な瞬きで散らしていると、徐々に縁取られていく世界の中に、よく見知った後姿が映り込んだ。髪の長さに戸惑ったのは一瞬で、すぐに安堵の溜息が零れる。
 その微かな音に気付いたのか、私の視線に気付いたのか。タイミング良く振り向いた彼女と目が合った。

「……っ、リズ!!」

 一回、二回、大きな瞳をぱちぱちと瞬いたリナリーは、直後、飛びつかんばかりの勢いで私のベッド脇に飛んできた。がたり、盛大な音を立てて椅子が倒れると、その後ろで誰かの頭が跳ねる。
 ぱっと枕元に屈みこんだリナリーが私の視界を占める。下がった眉の下でみるみるうちに潤んでいく瞳。なかないで、大丈夫だから。そう伝えたいのに、暫く使っていなかった声帯から漏れるのは、ひゅうひゅうと頼りない無声音。代わりに伸ばした掌は、ぱしりと力強く掴まれた。
 私とほとんど変わらないサイズの、温かいてのひら。一呼吸置いて緩められたそれを、今度は私から握り返す。

「リナ、リ……おはよ」

 そんな勢いよく飛んできちゃって。足はもう大丈夫なの? やっとまともに出てきた声は、浮かんだ言葉を言い切る前に息切れする。この体力の落ちっぷりからして、私、相当寝こけてたんじゃないかしら。
 そんな私の内心を読んだかのように、リナリーはふっと微笑みを浮かべて、的確な言葉を返してくれた。

「……良かった。リズったら、三日も寝てたのよ?」
「そんなに?」
「それだけ休養が必要な状態なんです」
「婦長……」
「良いと言うまで、しっかりきっちり休んでもらいますからね」
「はぁい……」

 出てきた具体的な数字を聞けば、曖昧な記憶にも頷ける。それに乗って釘を刺してきた婦長が、私の額に手を置いた。それをひんやりと冷たく感じるのは、おそらく彼女のせいじゃない。自分に半ば呆れながら従順な返事を返せば、リナリ―が私の手をゆっくりと離して布団の下へ戻す。
 何か言いたげに私を見つめる彼女の後ろから、新たな人影がひょこりと顔を出した。

「おはよう、リズ」
「コムイ……」

 ひらひらと片手を振りながら、朝に廊下で会った時みたいな調子で言うコムイ。それが却って、彼の顔に残る疲労の色を際立たせている。
 ……私達が戻って来たのも久しぶりだし、だいぶ心配掛けちゃったんだろうな。送り出した本人とはいえ、それだけに、待つだけの時間はキツかったんじゃないかな。そんな事を考えながらその穏やかな笑顔を見つめていたら、自然と声が漏れていた。

「……ごめんね」

 ――口から零れて初めて捉えた自分の言葉は、一秒後に後悔に変わった。

「……………しばらくは、なーんにも心配しないで、しっかり休むんだよ」

 ワンテンポ遅れて浮かんだのは、へらり、効果音がつきそうないつもの笑顔。それでも、優しい言葉に垣間見えたのは、隠しきれない自責の念。妹のそれに良く似た形良い眉の下に、ちらりと暗い色が覗く。
 ……分かってるのに。分かってたのに。送り出す側の歯痒さも。待ってるだけの時間の辛さも。エクソシストを、特に自分より年下の子たちを最前線に送り出す事に、歯軋りするくらいの罪悪感を抱えていることも。その上で全ての責を負おうとしていることも。ぼろぼろの兵士に謝られて喜ぶ司令官なんて居るわけない。こぼれたのは謝罪じゃない。赦されたかったのは自分のほう。
 ――だけど、そんな私の心情まで汲み取って、彼はきっと笑ってくれたんだと思うから。

「……ありがと」
「うん」

 その気遣いに素直に感謝を返して笑って見せれば、彼の眉間に残っていた僅かな皺がようやく消えた。仕切り直しのつもりか、コムイは腰に手をやって、よし、と軽く掛け声をあげる。

「みんな心配してるから知らせてくるよ。リナリー、先に行ってるね」
「えっ? あ、うん、分かった」
「じゃあリズ、お大事に」
「うん」

 私たちに声を掛けると、コムイは鞄ひとつ抱えて扉の向こうに姿を消した。今更ながらの状況把握だけど、今日はリナリ―の退院日だったみたいだ。かつてなくあっさりとした兄の様子に、彼女も少々驚きを見せた。
 コムイが抜けて行った扉がゆっくりと閉まる。その開閉音に隠れるようにして、布団で口元を隠しつつ、静かに溜息を吐き出した。

(さいあく……)

 身体がどっと重くなったような感覚に瞼を下ろす。心の隅にずしりと残った鉛がひとつ。寝起きの働いてない頭でいろいろ考えるもんじゃないな、と反省しつつゆっくり瞼を上げれば、リナリ―の黒髪が視界に入る。俯く彼女の表情は伺えないけど、さらり、涼やかな音が響くと共に上がった顔には、暗い色は見当たらない。
 それどころか、かち合った視線に籠められていたのは、あたたかな労いで。

「……ねぇリズ、ちゃんと覚えてる?」
「え? なに?」
「リズったら、帰ってくるなり倒れちゃったんだもの。どこまで記憶あるのかなと思って」

 もう、と軽く頬を膨らませて、お説教するみたいに言うリナリ―。その時はきっとものすごい勢いで心配してくれたんだろうって事は、誰に聞かなくたってよく分かる。可愛い妹分の成長を感じつつ、気を使って貰ってる事にちょっと恥じ入りつつ、もう一度記憶を辿ってみる。

「……覚えてるわよ、ちゃんと。みんなにただいまって言ったところまでは、ちゃんと覚えてる」
「そっか」
「分からない事といえば、クロウリーは目を覚ましたかなって事と、みんなの怪我の具合くらいかしら……」
「みんなもうピンピンしてるわよ。早速修行してるらしいし」
「あぁ……安静命令無視してるのね……」
「クロウリーはまだ眠ってるけど、だいぶ安定してきたからじきに目を覚ますって言ってたわ」
「そっか、良かった。……うちの師匠は?」
「ふふ、まだ逃げ出してないから大丈夫よ。リズと話したそうだったし」
「そっか……」

 共に方舟から帰還した面々の顔を思い浮かべる。――よかった、誰も欠けてない。帰ってきた時から分かってはいたことだけど、徐々に普段通りに戻りつつある彼らの話を聞いて、改めて肩の荷が降りたような感覚がする。方舟の外にいたミランダ達も無事だったみたいだし、本当に良かった。私も早く治して、もっと鍛錬しなくちゃな……。
 帰ってきてからの教団の様子などを交えながら、とりとめもなく話は続く。私の声もだいぶ普通に出るようになってきた頃、いつの間に席を外してくれていたのか、戻ってきた婦長が扉から顔を覗かせた。

「二人とも、そろそろいい加減にしなさいよ!」
「あ、ごめんなさい」
「特にリズ、貴女はまだ病人なんですからね?」
「はーい」

 悪戯が見つかった子供みたいに、顔を見合わせてリナリーとちょっと笑う。溜息ひとつ残して扉を閉めた婦長は、それでもまだだいぶ大目に見てくれているらしい。本物の雷が落ちないうちに、と椅子から腰を上げたリナリ―は、布団の上から私の手を握って小さく笑った。

「ねえ、リズ」
「ん?」
「……あんまり頑張りすぎないでね。リズはちゃんと、私たちのお姉ちゃんだから」
「……え?」
「でも、ありがとう。リズが居たから、私も頑張れたんだ。……早く治して、鍛錬付き合ってね!」

 そこまで言うと、ぱっと勢いよく手を放して、えへへと笑って。言い逃げのように軽やかに扉の向こう側まで駆けて行ったリナリ―は、最後に顔を覗かせると、お大事にの一言と微笑みを残してぱたりと扉を閉めた。ぱたぱたぱた、跳ねるような足音が廊下に響いて消えていく。
 音が完全に聞こえなくなってから、扉に背を向けるように寝返りをうった。

(ばれてた……)

 思いっきり溜息を吐きたくなったところで、我慢して軽く蹲るにとどめる。……年上なんだからしっかりしなきゃ、そう思ってた事は否定しない。クロウリーと別れた後は特に。その余裕の無さを見透かされてしまう程、いっぱいいっぱいだったって事。やっぱり、まだまだ修行が足りないわ。
 そこまで思い至ったところで、さっきのリナリ―の台詞が耳元でリフレインする。かっこわるいなぁ自分、と思う反面、自分の殻に閉じ篭っていた小さな女の子が、あそこまで成長したことが素直に嬉しい。心配してくれたことも、素直にうれしい。さっき降ろしきったはずの肩の荷がもう一段階軽くなる。
 ……そうね、もう少し気楽にいこう。あの子たちはもう、心配されてるだけの子供じゃないんだから。

 彼女にとっての教団が「帰って来る場所」になったことに安堵を覚えながら、重くなってきた瞼をゆっくりと下ろした。










夜明けのサルビア




あとがき
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