リレー企画 | ナノ

(寒崎凍の場合)


 こじんまりと佇む門扉を開いて踏みだす肢に絡む影は薄く、かろやか、今日も晴天である。人ゆえ呼吸する腹部や咽喉のゆたりとした動作は制服に隠れ、濃紺プリーツが初夏の風に揺らいだ。
 気温は二十五度を越えるらしい。鈍く浮かぶ雲は木綿のようで、日差しばかりが目蓋を焦がす。眸を細めて、凍という最もこの季節に似つかわしくない名前を持ちあわせた少女は賑わう通学路へ向かう。

 通学路は騒がしいくらいの人に溢れている。学生が通るということは、忙しなく路を逆流してゆく社会人もいるのだ。時折肩がぶつかりもするだろう。腕が触れあうこともあるだろう。
 そんな中を、凍はするりするりと抜けてゆく。
 迷路を上空から見たのかも識れない。はたまた、最初から彼女は答を識っているのかも識れない。誰かと肌を交わすことなく、並盛中学校が構える門前に極めて地味に、目立つことなく、ゴールした。アイムウィナー。なんて誰かと競ってる訳じゃあるまいし。凍は一番近くに聳える電信柱から門前を確認する。

 各中学校及び高等学校が掲げる校則に於いて、明確に「この制服を着用すべき」と示唆する学校は少ない。その多くは学業に勤しむに相応しい服装であれというもの。とは云え、つまりは指定の洋品店で指定された制服を指定されたとおりに着用すべきだと誰もが考える。わざわざのっけから規則を破る意味がない。例外があるとすれば無意味に反抗したがる年頃の不良くらいだ。
 そしてその見本のような、いっそのこと素晴らしいと賞賛したくなる、ポマードで固められたリーゼントに裾の長い詰め襟服をたなびかせながら門前で厳しい服装チェックを執り仕切る不良、もとい、並盛中学風紀委員会がいた。
 実に解り易くて良い。並盛の名に相応しく、ある意味でベターだと凍はひとりで納得していた。素早く合皮で繕われた手袋を外した。
 寸分も違わぬ膝丈のスカート、第一まで綴じられたシャツのボタン、ベストから覗くリボンタイ、白のハイソックス、丁寧に手入れされたローファー。手袋さえ取り払えば何もかもが当たり前で地味な女子中学生の姿だった。平凡で均等な制服を少しでも可愛く見せたい年頃であるが、凍は手を入れない制服を窮屈と思ったことはない。得な性格だ、とは兄の言葉だったか自分の言葉だったろか。
 相変わらず人に触れないよう巧くすり抜けながら門をくぐる。威圧感たっぷりの風紀委員らは凍に目を附けるどころか数秒も視線を止めていないようだった。東側の玄関先に辿りついてようやく盛大に呼吸をした。
 平々凡々並がいい、とはこの並盛中学が謳う校訓であると同時に、校歌としても親しまれている。まったくもってそのとおりだと凍は大袈裟なほど感心した。そんなもの転校してきた当初だけだったが。だってこの学校が既に並じゃない。

 二時間目が終わり、うるさい鐘に似せた疑似効果音がスピーカーの奥から響いた頃、校庭から鼓膜をつんざく酷い爆音が聞こえた。生徒も教師もこぞって窓から顔を覗かせる。南門から上がる煙が爆発した後だと知らせていた。凍も少しだけ背伸びしてみるが、人の頭ばかりでどうにも見えない。隣りにいた男子と目があった。ちいさくてひょろっこい、麦穂のよな髪の男子。原因を想像して青褪めているようだ。
 そうして事情を知っているせいか、ざわめく教室で互いに苦笑する。

「いえ、アホ牛があろうことか俺の鞄に入り込んでやがってですね。Uターンして十代目のお母様に渡しても良かったんですが、ええ不可抗力ですよ。あいつが暴れさえしなけりゃダイナマイトで吹っ飛ばす必要もなかったんですがねえ」
「も、いいよ…ランボも悪かったんだし。…うん、大丈夫…たぶん」
「はははっ!相変わらず元気なのな、あのチビ助!」
「笑いごとじゃねんだよ、この、能天気野球バカがッ」
「ツナん家ってほんとおもしれーなあ」
「俺もそう思いたいよ…」

 平和な現代日本に於いて爆発が起これば騒ぎになってもいいだろうに、都心から少し外れた街中だと爆発事件はテロリストの可能性すらないらしい。もしくはテロリストすら恐るに足らない怪物でもいるのか。そういえば怪物とまではいかないが、何やら恐ろしい上級生がいる噂は聞いたことがある。最も、並盛中の上級生には名物人間が多すぎる。名前なんて記憶にない。
 兎にも角にも、授業は普通に続いていた。
 遅れて教室に入ってきた獄寺は、喜々として沢田綱吉の座席の隣りに陣取り、何事もなかったかのように沢田に向けて喋っている。現在獄寺の本来の席には沢田の隣りだった男子が着席中だ。
 沢田もそれには気付いていたが、突っ込むだけ無駄だろうと察したのか、出来るだけ身を縮こめて相槌を打っていた。獄寺も一応小声ではある。彼らから斜向かいにいる山本武も時たま会話に参加しているのが見えた。
 A組きっての変わり種トリオと密かに呼ばれている三人を、凍もまた廊下側から見ていた。そこへ、ひとつ斜め前にいた明るいブラウンの髪の京子がひそりと遠慮がちに微笑みかける。凍には一瞬天使に見えた。

「楽しそうだね」
「真田女史は泣きそうだけどね」
「同い年の男子なんてあんなんばっかよ」
「もう、花ったら」
「授業中くらい静かにしろってのよ、ねえ?」
「京子ちゃんがいいなら私も反対はしない」
「…ばかがここにもいたわ」

 黒板を見詰めたままの黒川花が切り捨てて女子の会話は終了した。凍は手袋をしたまま器用に白いシャープペンを回しながら教壇を見遣る。
 新任の理科教諭は非常に背が低い。ヒールを履いてようやく京子や凍と並ぶ程度だ。黒板の一番上は届かないのでチョークの跡はいつも半端な高さから始まっている。その体型に等しく、またはとても常識人らしく、彼女はまるで小動物のようにいちいち怯えている。明らかに授業を受ける態度ではない獄寺を気にしてはいるが、獄寺が背後からその気配を察知すると、真田女史は肝心なところで目を逸らす。お気の毒に。
 そんな静かで不毛な争いが続いたおかげで、彼女は教師としての認知度が少々芳しくない。頭を撫でる生徒がいるくらいなので好かれてはいるのだろうが、残念ながら威厳はない。
 だが凍は考える。いわく、なかなか勇敢な教師だそうだ。
 そういえば、あの出来事からから凍は新任理科教諭に興味を持ったのだった。今度、沢田たちにその時のことを話してみるのもいいかも識れない。凍は脣の端を引き上げた。

 思えば最初から傍にいたのは諦念の塊だった気がする。

 背後にぴたりとくっつく、生まれついての自身の一部に気附いて振りかえった時、怒鳴るでも尋ねるでもましてや脅えて泣くでもなく、凍は悟ってしまった。
 ああ、仕方ない。
 遺伝的なものなら誰かを責めて気を済ませることも出来た。だがその特殊体質はどこまで遡ろうとも寒崎凍ただひとり。医師からは正体不明の体質と告げられ、やがて物心ついた当時の凍には化け物と宣告されたも同然だった。しかし悲観はしなかった。荒むことも自分を追い込むこともせず、反抗期すらまだ迎えていない。

 母に素肌で抱かれたことがない。仕方ないよ、凍ってしまうもの。
 動物に触れない。仕方ないね、殺してしまうから。
 涙を流せない。仕方ないんだよ、皮膚に触れた瞬間凍るから怪我をしてしまう。
 ――絶対氷結体質。医師が名付けた、世界で凍ただひとりが持ちうる特殊体質だった。皮膚の温度が異常に低く、触れれば動植物やあらゆる液体を凍結させることから命名され、ゆえに肢で立つより早く手袋をして生活しなければならなかった。
 合皮越しの感触と温度が成す世界がすべて。友人の手を繋ぐことすら出来ずにいた。泣くと涙が肌を傷つけた。諦める以外に凍が生きてゆける術を誰も識らなかったのだ。仕方ない、なんて口癖だって附くというものだ。

 そんな世界がこうも変わるとは。

 日曜日。陽気な気候に朝からシャツが汗ばんだ。すっかり夏だ。厭だなあ、などと独りごちながら、キャミソールとチュニックを重ねてフード附き半袖の上着を羽織り、レギンスと気に入りのバレエシューズを合わせた。
 行き先など決まってないが、まあ至って狭い町だ。あてどなく歩いていても誰かに会うだろう。いまだ眠り続ける兄の室を素通りして凍は散歩に出たのだった。
 そして予感は30メートル先からやってきた。やわらかな強い彩ろを肩に滑らせるやけに美しい、蠍を左腕に飼う女性を凍はよく識っている。目が合った。

「ビアンキさん」
「こんにちは、やっぱり凍だったのね」

 凍に対して親しみをこめて微笑む顔もまた美しい。やはり姉弟。凍は彼女を見て、鋭くも均整の取れた彼女の弟を思い出していた。銀髪の不良、悪名スモーキン・ボム。
 そこで、凍は短い聲をあげた。よく見ればビアンキはヘルメットを籠に入れた自転車をひいている。ちょうど出掛けるところだったらしい。ビアンキは少し残念そうに云う。

「ごめんなさい、これから出掛けるから、特訓は次にしていいかしら」
「あ、そんなお気になさらず。最近は結構調子もいいんで、一週くらい飛ばしたって大丈夫ですよ」
「そうね。あなたはとても飲み込みが早いわ」
 貫くよな聲で云う。
「でも、だからと云って気を抜かないで。私の能力もあなたのもそう。私たちはいつだって人に危害を加えることが出来る。意図しようがしまいがね。…でもあなたにはちゃんと意志がある。それさえ忘れなければ、どうにでもなるわ。殺し屋はタフな方が生き残るものよ」

 なんて、冗談だかどうだか解りにくいジョークまでついてきた。ビアンキの言葉に肌を粟立たせて緊張していた凍も思わず顔をあげた。

「さあ、そろそろ行くわね」
「え、あ、はい。暑いのに大変ですね?」
「愛のためよ」
「はあ」
「近場だからすぐ帰るつもり」
「へえ、どこです?」
「讃岐」

 うどんを打ちに行くそうです。

 自然と肢は沢田家を目指していた。ビアンキから綱吉が自宅でこどもたちの世話を任されてしまい、出掛けられず燻っている状況を聞いたからか、そうでなくても来ていただろか。控え目に建つ一軒家に響きわたるインターホンに人差し指をかけた。
 そうして出迎えてくれた綱吉は、まるで神が降臨したとでも云いたげにころんとした眸を耀かせた。
 余程手を焼いていたらしい。服装だけが既に出掛けるつもりだというのがよく判るからこそ、去り際に残したビアンキの言葉が余計面白く感じる。
(手伝わないのかって?だってあの子の困ってる顔、面白いじゃない)
 なるほど、そうかもしれない。
 くすくす笑う凍に綱吉は首を傾げる。

「寒崎さんが来てくれて助かったあ! さっき緊急で呼んだピンチヒッター…あ、千代姉って言って俺の従姉なんだけど。千代姉に部活あるからって断られて、どうしようかと思ってたんだ。そうだ、千代姉に食べて貰うつもりだった水羊羹、冷蔵庫に入ってるから食べてね! …念のため、来たら分けてあげてくれるかな?」
「うんうん、ありがとね。気をつけて行っておいで」
「お礼はまた今度するから!ごめんね、いきなり留守番させちゃって!」
「いいからいいから。それにね、沢田くん」
「ん?」
「お礼し足りないのは私の方だよ」

 諦めていたから、世界が穏やかに変わりゆくのに識らぬふりをしていただけだ。救いようがないからずっと手を引っ込めていた。異端だから、と目を閉じているから、世界の変わる瞬間を、その中心にいながら見逃したのだ。
 思いがけない転入ではあったが、沢田綱吉や彼を取り巻く異端な人々に驚かされ、気附いた。母に素肌で抱かれた覚えがなくても、動物に触れなくても、涙が自分の頬を傷つけても、努力することは出来るのだと教えてくれたのは、この並盛の人々だ。
 ビアンキと能力制御の訓練をするようになり、はじめて人間と――京子と手を繋いで、絶対氷結体質と引けを取らない異端で賑やかな人々と出会った。

「よく、わかんないけど…あのさ」
「うん」
「頑張ってるのは寒崎さんだろ?俺はなんもしてないよ?」
「京子ちゃんによろしくね」
「え? わ、わかった、じゃなくて」
「恩は忘れないよ。鶴並にね」
「それなんて童話!?機織り機なんてないようち!!」
「ほら、遅れるよ」
「ああっ!じゃ、行ってきます!」
「はいはい、行っておいで」

 扉はおおきな音を立てて閉じられた。
 いま、なんとなくあの平凡過ぎて異様な少年が好かれる理由を識った気がした。

 世界は視点を変えればどんなふうにも変化すると、彼らの日常に教えられた。まだまだ未熟だ。けれど私も努力して成せることを教えられた。少しだけ視点をずらすだけで、物事の捉え方など、どうにでもなるものだ。
 凍は思う。
 私ではない他のひとは、彼がどんなふうに見えているんだろう。



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