「あ」

 むにり。細い人差し指一本で動きを止められたゾロは、怪訝な表情でニーナを見下ろした。今更逃げられる間柄ではないし、嫌がられる理由も身に覚えがない。目と鼻の先にある彼女の瞳を窺ってみれば、ゾロの顔の一点をじいっと捉えている。
 ――出会った当初の印象は、徹底的なまでの慎重派。飄々としているようで常に周囲の様子を窺い、自然体で過ごしているようで常にひっそりと緊張感を持っていた。それが今は、捕食される寸前とも言えるこの距離で、この状況で、自分の興味に忠実に、いとも軽やかに意識を飛ばす。
 短くない時を共に過ごして、仲間以上に心を許した結果とはいえ。照れも焦りも動揺も、彼女の辞書には載っていないとはいえ。ゾロも重々理解してはいるものの、今まさに注目されているそこから、小さく不満の溜息が零れた。

「おい、止めんなよそこで」
「ゾロ、唇割れてる」
「あ?」

 とんとん。軽い振動を重ねたあとで、つうっと横にスライドする指先。弾力のある丸みがなぞる丘の上に、小さい段差がひとつふたつ。感じた軽い引っ掛かりとニーナの言葉を合わせて、ゾロはようやく意識を自分に向けた。

「ああ、これか。何かピリピリすんなと思ったら」
「あー、だめだよ引っ掻いたら」

 ニーナの頬から離れたゾロの指先が自身の唇に触れると、今度はニーナの左手が彼の腕を捕える。掴んだ腕はそのままに、ニーナは右手で腰の鞄をごそごそと漁った。
 取り出した小さな缶を片手で器用に開けて、中身を人差し指でひと掬い。先程と同じようにゾロの唇を一往復なぞった。
 手を離して親指と人差し指とを擦りながら、ニーナはうーんと小さく唸る。

「……男の人の唇が妙にぷるんぷるんっていうのも、悪目立ちしちゃってアレかなあ」
「自分でやっといてそれかよ」
「や、ちょっと多かったかなって」

 リップバウムを塗り終えた唇を見て漏らした感想に、ゾロは再び溜息をひとつ。とはいえ、呆れたような声に反して、その眉間にいつもの皺はない。
 じいっと唇を見つめていたニーナは、ふと思いついたように視線をあげた。

「あ」
「あ?」

 眼が合ったのはほんの一瞬。途端に陰った視界に疑問を抱けば、直後、先程よりも数段柔らかいものがゾロの唇に触れる。
 ちゅ、とちいさな音を立てて離れたかと思えば、明るくなった視界の下で、ニーナがどこか満足げに微笑んでいた。

「ん、ちょうど良くなった」
「………」

 向かう視線は再び彼の口許。人差し指で自身の下唇を片道なぞって、先程と同じように親指と擦り合わせる。思わぬ不意打ちにゾロがぽかんと彼女を見下ろせば、ニーナはきょとんと眼をまるくして、普段通りの調子で口を開く。

「ねえ、これならピリピリしなかったでしょ?」

 ――頬も染めずにさらりと言ってのける彼女に、ゾロは本日一番の特大の溜息を吐き出した。

「……一口じゃ分かんねェな」
「んむっ」

 左手で頬を固定して、右の親指で下唇をひと撫でして。反撃開始とばかりに覆い被さってくるゾロの下で、ニーナは再びへらりと穏やかに笑った。


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