わたしは怯えていたのかもしれない。自分が大切な人を失うことがこんなにも怖いことだなんて夢の中だけでよかった。


 ああ、おいしいなと思う。このカフェの定評だった紅茶を口に運んで鼻につく茶葉の香りに純粋においしいというのに、残念ながらいつもおいしいものを食べた後の心を満たすような幸福感は全く訪れてくれなかった。カチャリとカップをソーサーに戻すとそのわたしの動きを追うように目の前に座った錫也の視線も下にさがってじっとわたしのカップを見つめたまま動こうとしない。

「…錫也も飲んだら?」

 彼の前に置かれたカップを勧めると彼は「いや…」といって断るとまた口をつぐむ。このやりとりももう何回目に入るのだろうか、そう思って数えようと思ったけれど楽しいことではないのでやめた。
 窓の外では枯葉がちらちらと空から降り注いでいて、地面を黄色の絨毯が覆っている。こんな中を彼と歩いて帰ったらどんなに楽しかったのだろう。手をつないで歩いて、足で枯葉を蹴りあげると目の前をぱらぱらと葉が舞い散って。こけそうになるとすかさず彼がわたしの手をひっぱって起こしてくれる。そんな妄想を思い描く。
きっとわたしが前言撤回をすればそれもかなう夢なのに、案外わたしの決意は固い。なぜならそれがわたしは彼を愛してるからこそのこの決断だったので、それを変えることは難しいのだ。
 わたしと彼の間をどれくらいの沈黙が埋めたのだろうか。しんと辺り一帯わたしと彼の間にはなにも存在しないくらいに静まり返っていて、その空気に可愛いというのが定評な店員さんでさえよりつくのをためらうほどで、いつもだったら彼のことを遠巻きに見てさざめき立つ女性も口をつぐんで関わらないようにしていた。

「…俺の、」
「え…?」
「俺の何が悪かったんだ…?」

 突然口を開いた錫也。ぐっと眉間にしわを寄せて訪ねてくる彼に、わたしは何と言っていいか分からなくて困った。あえて言うならただただ、彼が優しい人で、わたしはまだ彼が好きだということだけである。ただ、厄介なのが私という人間の性質で彼は悪くないのだ。

「俺にどこか悪いところがあるんだったらいってくれっ……直すからさ…」
 ぐしゃりと前髪をかきあげてぐっと何かをこらえた表情をする彼がわたしは凄くすごく好きなのになあ。でも、それをわたしは彼に伝えることができないのだ。

「錫也は悪いとこなんてないよ」
「だったら…!」
「ううん。違うの、わたしが、錫也のこと好きじゃなくなったの」

 最後のほうは少し唇が震えてしまった気がして、急いでカップを口につけて中身をのどに流し込んだ。ウソを言うというのは心底苦手で得意ではない、と思う。けれどこれも彼のためと思えばわたしはなんだってできるのだ。「どうしてなんて聞かないでね」口に流し込んだ紅茶の味がなんだか分からない。わたしが先に牽制をかけると彼は押し黙ってじっとカップの中に浮かび上がった自分の顔を見つめているように思えた。




×




「それじゃあね、錫也」

 会計を終えて外に出ると、錫也はわたしのほうをちらと向いたけれど瞳を交差することはせずに「ああ、」といって去っていった。その背中がひどく小さく見えてしまってごめんねを心の中で繰り返すと、わたしは錫也が角を曲がったのを見止めた後に歩き出した。ちらちらと空から舞い降りてくる葉がわたしの視界を掠めて綺麗だなあ、なんて思うと思わず足どりも軽い。スキップをして葉を蹴りあげて、わたしの視界は一面黄色。こけそうになったら自分で踏ん張ればこけないし、わたしを支えてくれる手の平だって今は必要ない。でもやっぱり隣に錫也がいないと寂しいなあ、とんとんと歩いて足取りはピタリと止めると足もとの黄色も踊るのをやめたように停止した。錫也は一人で落ち込んでしまうんだろうか。どうせだったらそばに哉太くんでも羊くんでも月子ちゃんでもいてあげてほしい。わたしのわがままだってことは分かってるけれど、これはわたしの決めたことだから許してほしいなあ。また一歩足を踏み出すとかさかさと木の葉が踊った。


――道路の上で猫がにゃーと鳴いて近くの道路わきで親猫が泣いてるの。車が反対側から走ってきて、わたしが猫を助けようとするとそんなわたしを錫也が突き飛ばして代わりにひかれてしまう。起きた時は胸が張り裂けるかと思って、でもこれが神様がわたしに見せたのだとしたら、これは彼を助けろという思し召しなのかなあ。どうせならこんな夢を見る力なんていらなかったのに。それでも、わたしが彼を死なせることがいやだから、選ぶんだよ。ねえ、錫也。明日わたしがいなくなっても泣かないでね。最後のお願いよ。







 近くの道路で猫が鳴いた。



For「silencio」様

110731
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -